美 術 論 小 作 品
松本 利香
目次
ウイーン美術史美術館
ノイシュヴァンシュタイン城
『ハプスブルク文化紀行』所収文
ウィーン美術史美術館
美術館の成立とコレクション
ウィーン美術史美術館の建設構想は、一八五七年の新都市計画においてまとまった。実際の着工は一八七一年のであり、一八九一年一〇月一七日フランツ・ヨーゼフ皇帝が臨席した落成式をもって完成された。この壮麗な美術館の実現には、ゴットフリート・ゼンパーが美術館外観の総合的指揮を執り、内装はカール・ハーゼナウアーが中心となって、クリムトをはじめとするオーストリアを代表する画家や彫刻家らが腕を振るった。まず、来館者は二階へ通じる「階段の間」で、クリムトの壁画と対面する。現在二階フロアには、カフェの街ウィーンにふさわしい優雅で洗練されたカフェが常設されており、美術品鑑賞のかたわら、実に贅沢な時間を過ごすことができる。
美術史美術館の核となっているハプスブルク・コレクションのはじまりは、一六世紀のフェルディナンド一世の治世にさかのぼる。この後、次第にコレクションは拡充され、歴代の君主により数度の整理・充実の時期を経て、ハプスブルク帝国の終焉まで継続された。帝国の繁栄に比例して数を増す収集品は、当初ウィーンの王宮とヴェルヴェデーレ宮殿に分けられて無秩序に保管されていた。これらの収集品は美術工芸品に限ったものではなく、植民地から送られた珍しい動植物までを網羅するという実に多岐にわたる内容を誇っている。人が王宮を背にして立つとき、マリア・テレジア像を挟んで対称的に建つまったく同じ外観をもった二つの建物のそれぞれに、美術部門と博物部門が大別して収蔵されることとなった。
美術館の構成は、一階/古美術 二階/絵画 三階/コインとなっている。武器コレクション・古楽器コレクション・エフェソス古美術・宮廷衣装は、王宮に展示されている。馬車・馬具コレクションは、シェーンブルン宮殿の冬季屋内乗馬学校に移され、一般公開されている。このほかインスブルック近郊に建つアンブラス城は、武器庫として甲冑等の収蔵場所となっている。
ハプスブルク家は、とりわけ芸術に造詣の深い君主を幾人も輩出している。マクシミリアン一世は、ドイツ・ルネサンスの画家アルブレヒト・デューラーを宮廷版画家として擁した。皇帝の偉業を称えるために企画された「凱旋門」や「凱旋車」の木版画による壮大な大作は、一大芸術事業であり、皇帝は芸術のパトロンとしての役割を通じて世俗権力の最高位であるみずからの存在を世界に喧伝した。おもにコレクション拡充に尽力したのは、大公フェルディナンド二世、皇帝ルドルフ二世(大公フェルディナンド二世の甥)であり、この二人のコレクションが現在の美術館構成の基盤となった。ルドルフ二世は、スペイン王フェリペ二世の宮殿で幼少時から厳格な教育を受け、その美術品収集に大いに刺激された。長じてからは鬱病を患い、ウィーンからプラハと居城を移し、徹底してみずからの趣味を追求する生活を送った。そこで皇帝は、現代にも通じる鑑識眼で選び抜かれたデューラーをはじめとするきわめて芸術性の高い洗練された美術品を憑かれたように収集しつづけた。そのコレクションの内容もまた、彼の複雑な人間性と同様に独特なものであった。
ルドルフ二世が帝位を去った後には、レオポルト・ヴィルヘルム大公(ネーデルラント総督1646‐1656)が、一七世紀フランドル絵画とイタリア絵画の分野を充実させ、バロック時代にはカール六世が、サヴォイ公オイゲンに触発されて美術品の収集に尽力した。
その一方で、増大していくコレクションを整理した君主が、マリア・テレジアとヨーゼフ二世である。彼らは啓蒙君主として、教育的観点から、教訓的で系統的な整理を二代にわたって行なった。そして最終的にフランツ・ヨーゼフ皇帝によって、すべての収蔵品が美術史美術館に統合されることとなったのである。
コレクションには当然のことながらハプスブルク帝国の権力支配の影響が反映している。それは、コレクションの中核がスペイン絵画を例外としてドイツ・ネーデルラントのカトリック地域と北イタリアの作品であることと、その内容がきわめてハプスブルク的である点に明瞭にあらわれている。まさにこの特徴こそがウィーン美術史美術館を、同じくヨーロッパを代表するルーヴル美術館やプラド美術館とは際立って異なる存在にしている。その代表的なものが、帝国権力が世界の頂点を極めた象徴である神聖ローマ帝国の標章と貴金属工芸品、ブリュッセルの金羊毛騎士団宝物である。しかし、財力を投入して集めたコレクションは、一六四八年、三〇年戦争時のスウェーデン軍の略奪やナポレオンの侵攻、一九三八年のヒトラーによる強奪で散逸する運命をたどったものもあった。ブリューゲルの『農民の婚宴』は、アメリカ軍によって疎開先の保存状態の悪い民家の地下室で発見され、その後、本来の収蔵先であったこの美術館に返還された。ナチスはここからティツィアーノ、レンブラント、ベラスケスの作品も略奪している。帝国が崩壊した一九一八年以降、共和制下では、ハプスブルク家の私的コレクションという性格ゆえに、収蔵品の購入資金は抑制されることとなった。
以下に代表的な収集作品をいくつか取り上げよう。
ブリューゲル『農民の婚宴』
ブリューゲルを形容するとき、「現実の世界とさかさまの世界を描くことにかけてもっともすぐれた画家」という表現がふさわしい。当時の人々の生活基準は、中世から引き継いだ宗教観から発した道徳であった。いかし、そこから逸脱し、放埒にたがをはずしてしまう人間のさがをブルーゲルは好んで題材とした。厳格さとだらしなさ、聖と俗という二律背反した世界を、合わせ鏡でみた「さかさま」な現実としてひとつの画中に描いたのである。またルネッサンスの特徴でもある宗教と人間礼賛の双方を、このウイーットに富んだ画家はとても魅力的に表現したといえる。そしてもうひとつのブリューゲルの個性は「ことわざ」をテーマにいた点にある。封建権力のもとで、自由にならない生活を強いられた庶民は、あきらめの気持ちと苦しい生活を生き抜く知恵をことわざとして伝承していった。『ネーデルランドの諺』(1559、ベルリン国立絵画館)には100以上の当時の諺が描かれている。
ブリューゲル作品に関しては、フランドル絵画史の頂点におかれるこの画家の作品のうち、現存する四分の一がこの美術館に収蔵されており、資料の乏しいこの画家の足跡を各作品のうちにたどることができる。初期の作品である『謝肉祭と四旬節の喧嘩』『子供の遊戯』『バベルの塔』の他、おなじみの『雪中の狩人』や『農民の婚宴』『農民の踊り』といった代表作品との出会いを、われわれはこのウィーン美術史美術館で果たすことができるのである。
また彼は人文主義の影響を受けた教養人であったことが明らかにされている。アントワープから、おそらく政治的・宗教的理由(一説には女性関係を清算するため)によってブリュッセルへ移った。自由思想家の友人を持ち、いたぅら話や幽霊話で周囲の人を面白がらせるのが好きな人物であった。
「イカロスの失墜」では、「人が死んでも鋤は休まない」がテーマになっている。
中世期以来人々の生活に密着してきたものに、「ことわざ」があった。そこには教訓とユーモアがこめられ、ブリューゲル作品の基調ともなっている。彼は農民を多数描いたことから「農民画家」とよばれる。これについては異論もあるが、人文主義の恩恵を受けた教養人であったことは資料から明らかにされている。アントウェルペンから、おそらく政治的・宗教的理由(一説には女性関係を清算するため)によってブリュッセルへ移った画家は、自由思想家の友人をもち、賢明で温厚な人柄ながら、いたずら話や幽霊話で周囲の人を面白がらせるのが大好きな人物であった。そして四季を背景にした俯瞰的な子図のなかに、あらゆる人間の日常生活を悲喜劇さながらに描写した。
『農民の婚宴』は、構図にあらたな試みをもって描かれた作品である。「亭主に青いマントをかぶせる」は、夫をだます意であり、「扉の環に口づけする」は、「盲目の恋をしている」または「恋した人から門前払いをくらう」の意である。この絵は息子のヤンが誕生した年に制作された。ブリューゲルは人々が集まるような場に好んで出かけていったといわれる。まるで人間の見世物小屋であるような世界は、観る人を笑わせ、面白がらせる魅力に満ちていたにちがいない。
画家は、四季を背景にした俯瞰的な構図のなかに、あらゆる人間の日常生活を悲喜劇さながらに描写した。スペイン支配下での残虐な異端狩りが日常的に行なわれ、それはどのようなものだったか。その当時の政治背景の影響をわれわれはまたその画中にみることができる。たとえば、『幼児虐殺』(ウイーン美術史美術館 1564)、『ベツレヘムの戸籍調査』(ブリュッセル、ベルギー王立美術館 1566)である。
ブリューゲルの作品をルドルフ二世は精力的に収集した。『農民の婚宴』や『バベルの塔』『雪中の狩人』といった自然と人間の有り様を、プラハ城に蟄居するルドルフ皇帝も楽しんだのであろう。
フェルメール『絵画芸術』
『絵画芸術』は1662〜65年、彼が会長を務めるデルフトの画家組合のために制作された。この絵は、1940年までツェルニン伯爵家の所蔵品であった。しかしナチス軍はこの絵を強制的に買い取り、アルト・アウスゼー岩塩鉱に作った美術品保管庫に他の美術品とともに戦火を避ける目的で保管した。連合軍の侵攻を察したナチス軍が坑道の爆破を決定するが、その直前にアメリカ軍のMFAA(American army Monuments,Fine Arts,& Archivesgroup)によって発見保護され、戦後オーストリアに返還された。戦時下ヒトラーはこの絵を身近に置き、特別の愛着をもっていた。
フェルメールの世界は平和と清澄に満ちた穏やかな風景を描き出し、それゆえ人々に好感をもってむかえられる。ルネサンス以降、アトリエの画家を描く作品は頻繁に制作された。彼らは、名のなき絵描き職人であった中世から脱して、みずからの技術と創造力で芸術家となった者のプライドをそこに表現した。画中では女性は歴史の女神を意味しており、寓意画と風景画との実験的な作品である。この作品は小品を多く手がけたフェルメールには珍しい大作となっている。
ベラスケス『8才のマルガリータ王女』
画布からこちらを見つめる愛らしくも高貴な王女の様子に、鑑賞者はおもわず微笑むだろう。『マルガリータ王女』の肖像画は、王女が三才、五才、八才の時に描かれた三点が収蔵されている。とくに一六五九年、王女八才の時の肖像は、のちにマルガリータが輿入れするオーストリアのレオポルド1世にあててスペイン宮廷から贈られた。彼女の母はオーストリアからスペインのフェリーぺ4世の後妻として嫁したマリアーナ・アウストリアであった。王位継承者としての男子誕生を一身に期待されるスペイン宮廷での生活は、夫であるフェリーぺ4世の目にも大変な重圧と映ったらしい。肖像画は現在のお見合い写真であるが、また同時に、妻の実家であり、王女の将来の嫁ぎ先でもあるオーストリアへの配慮をもって愛娘マルガリータの肖像画を成長の軌跡として贈ったのである。王女は一三才でレオポルド1世に嫁ぎ二二才の若さで他界した。
画家のベラスケスは、フェリーぺ4世の信任厚い宮廷画家であり、かつ側近であった。一五九九年セビリアで生まれ、二四才で王家専属画家の地位を獲得した後は、宮廷役職を上り詰め、画家として破格の厚遇を国王から受けるという順風満帆の人生をおくった。
参考文献
小林明子・朽木ゆり子『謎ときフェルメール』(新潮社)
『芸術新潮』1996年9月号(新潮社)
『芸術新潮』2002年10月号(新潮社)
『ベラスケス』 新潮美術文庫 12 (新潮社)
西川和子『スペイン宮廷画物語』(彩流社)
『ウィーン美術史美術館1』 世界の美術館 9 (講談社)
『ブリューゲル』 新潮美術文庫 8(新潮社)
マンフレート・ライテ=ヤスパー、ルドルフ・ディステルベルガー、
ヴォルフガング・プロハスカ著 田辺徹・田辺清訳『ウィーン美術史美術館』
(みすず書房)
アルブレヒト・デューラー著 前川誠郎訳『デューラーの手紙:付家譜 覚書』
(中央公論美術出版)
Albrecht Dürer,von Hans Rupprich Schriftlicher Nachlass,
Berlin:Deutscher Verein für Kunstwisenschaft,1956−66
ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)
日本人にとってドイツで最も有名な城が、この「白鳥城」であろう。ドイツ随一の観光地というだけあって、麓の村シュバンガウは一般的にのどかなドイツの他の観光地とは比較にならないほどの賑わいを見せている。しかし、アルプスを間近にする澄んだ空気の中に立つとその喧騒はしだいに遠のく。ルートヴィヒは、リヒャルト・ワグナーの「ローエングリン」を愛した。その壁画を描かせ、細部にいたるまで王の特別な美意識を反映するこの城は、ルートヴィヒ自らが演出した劇場であるといえるだろう。観光客はルードヴィッヒ2世の夢を共有し、王の愛したワーグナー楽劇の登場人物に自分を重ねてしまうくらいに、この城は劇場的魅力に満ちている。もっとも、「歴史をもたぬ城は城にあらず」という一家言あるドイツ人には不評であるが。
松本利香
『ハプスブルク文化紀行』(NHKブックス)所収文
上記文を除く
マクシミリアン1世
ハプスブルク家は、美術に造詣の深い君主を幾人も排出したが、マクシミリアン1世もその1人である。彼はドイツ・ルネサンスの画家アルブレヒト・デューラーを宮廷画家として要した。皇帝の偉業を讃えるために企画された「凱旋門」や「凱旋車」は、木版画による壮大な芸術作品であり、皇帝はそれによって世俗権力の最高位である自らの存在を世界に喧伝した。
バロック
バロックの語源は、ポルトガル語の Barocco
(ゆがんだ真珠)といわれる。この語は、「規範からの逸脱」を表す形容詞である。18世紀末の古典主義の芸術理論家が、否定的な意味で、17世紀芸術、特に建築に適用した。
ハプスブルクにはバロックは遅れてやってきた。
バロックはイタリアから来た職人によってオーストリアに伝えられた。彼らはこの地でバロックをさらに発展させた。オーストリアの建築は、ルネッサンス以来イタリア人がになっていたが、徐々に地元の建築家が担って行く。
バロック文化の特徴をそれまでの文化と比較してみよう。古代とルネサンス時代の古典的建築様式は静的であり、ゴチック時代の様式は、動的であった。バロックは、天井を目指したゴチックの精神性とローマ期の建築様式とを結合させた。バロックは、その豊かな表現力を使って、神の意志を表すポリフォニー(多声音)を創造した。調和は教会の中に生み出された。そのれは、俗世での教会と皇帝の存在が、神の意志を決定したゆるぎないものであることを証明するものでもあった。
バロック音楽
バロック音楽はイタリアのヴェネチアで発祥し、後、ナポリで発展した。その特徴は、劇音楽(オペラ)の誕生と器楽の興隆であり、大規模な構想をもち、情緒表現にすぐれていた。
また器楽と声楽が分離した。器楽では、ソナタ・組曲・協奏曲などの新しいジャンルがうまれ、作品のタイトルに、長調・短調の種類、テンポと強弱が示されるようになった。複数の楽章からなる新たな形式の声楽曲もできた。代表的作曲家は、ヨハン・セバスチャン・バッハで、彼はオペラは書かなかったが、声楽曲のカンタータを完成した。アントニア・ヴィヴァルディは、多数の協奏曲、オペラ、ソナタを作った。
ウイーン宮廷に初めてイタリア音楽が入ったのは、1619年だった。宮廷はヴェネチア派オペラ作曲家・歌手・興行師を盛んに招聘し、オペラは宮廷の催しに使われ、ウイーン音楽のイタイア化が進んだ、この時期に、現代聞かれるような西洋クラシック音楽が形成されたのである。
ルドルフ2世
ルドルフ2世は美術品収集に情熱を注ぎ、徹底して自分の趣味を追求する生活を送った。現代にも通じる鑑識眼で選び抜いた、デューラーを始めとするきわめて芸術性の高い洗練された美術品を、憑かれたように収集し続けた。中でもグロテスクな絵を描くイタリア人画家ジュゼッペ・アルチンボルドはお気に入りで、宮廷に呼び寄せて描かせた。これはウイーン美術史美術館にあり、今でも人目を引いている。コレクションの内容もまた、彼の複雑な人間性と同様に、個性的で独得のものであった。