ロ シ ア 旅 行
倉田 稔
2014年の8月から9月にかけて、ロシアへ個人旅行をした。いくつかの失敗があったので、今後、ロシアへ行く人の参考になろうかと思い、書いておこう。
飛行機とホテルと列車は、前もって日本のS旅行社に頼み、空港からホテルまで、列車の駅からホテルまでは、現地ガイドの送迎を頼み、あとは個人旅行という条件の旅である。一緒に行ったのはワイフである。我々の行程は、モスクワ、その後、サンクト・ペテルブルグへ行くというものであった。
ロシア観光にはヴィザがいる。そのヴィザが、なかなか下りないのである。友人Iさんは「ロシアではそんなものです」と言う。
モスクワ
1
8月30日,成田からモスクワへ飛んだ。座席の前の受像機に画像が写らないので、キャビン・アテンダントを呼んだら、「写らないのです」という答えだった。それでは何のために受像器を置いているのか分からない。ちなみに、帰りの機では見られた。
モスクワのシェレメチェボ空港に着いた。日本との時差は5時間である。私はいままでロシアを3回通過したことがある。1971年に数日、1072年に10数日、1981年に一泊である。今回もかつてほどではないが、相変わらずパスポート・コントロールが遅い。
空港でガイドが待っていてくれた。ユリアさんという。我々は「ドルを空港の銀行でルーブルに替えたい」と言うと、ガイドは「ホテルの方が率がよいから」と言うので、ドルをルーブルに替えずに、そのままホテルに向かった。これが失敗することになる。
空港からホテルまで車で一時間半かかった。かつては専用バスで一時間だったが、車が増えているのだろう。市内に入ってレニングラード通りという長い広い大通りを走った。工場があり、多くの自動車の販売店、フルシチョフ時代のアパート、スターリン時代のアパート、近代的なガラスのビル、現代的装飾の商業ビル、などが見えた。
「ソ連が倒れてからどうなったか、どうですか」、と聞くと、「外資が導入され、外国製品が入ってきて、よかった。それまでは鎖国だった」と言う。「金曜日にモスクワ人はダーチャ(別荘)にゆく、ダーチャは誰でも持っている。」ダーチャというのは郊外の家庭菜園のことである。知人によると、ロシア人はそのための土地を政府から割り当てられる。ユリアさんは、「今は、きのこ狩りの季節で,皆、きのこ狩りを楽しむ。今日は土曜なのにこんなに車が混んでいて、変です」など語った。そういえば、町を歩いていると、きのこがよく売られていることがわかる。
ホテルはMといい、四星であった。ところがこのホテルはマネー・チェンジができないと言う。ガイドさんもさぞ困っただろう。彼女も知らなかったわけである。ホテルに「どこでチェンジできるか」と聞いて、幾つか教わり、その両替屋へ向かった。だが教わった初めの住所のバンクは、閉まっていた。次の両替屋は、飛び込んでみると美容院になっていた。ホテルのフロントも最新の住所を知らなかったようだ。威勢のいい女性が出てきて、どこの言葉か分からないが、まくしたてて、「次の角を曲がると、スーパーがあり、そこの近くでやっている」と言っているらしいのである。そこへ行くと、二四時間営業とあるのに、閉まっていた。今はもう遅いので、マネー・チェンジはやめた。どうやら明日は地下鉄の駅のそばのバンクは開くらしい。モスクワは夜九時まで明るいので、われわれは、午後六時くらいの感覚でいたが、現地時間で八時ころになっていた。
ロシアでは普通はドルが使えず、ルーブルだけなので、「これでは無銭者だな」と言い合った。ホテルの前に簡単な店があり、ホット・ドッグ類を売っているらしい。食べるものがないので、そこへ行ってみると、「ドルはだめです」と断られた。この店の名前が、何と、スタールバグスとあり、かのスターバックスの名前を借りたのだろう。
それでもホテルのレストランでワインでも飲もう、払いは付けにしようと思って、注文したら、ボーイが分厚いリストを持ってきた。そこからイタリア・ワインを注文したら、「今は、アルコール類は、ビールしかないのです、それもハイネケンだけです。それでどうでしょう」とボーイが言う。ハイネケンは、有名なオランダ・ビールである。「ビールは駄目だ」、と答え、部屋に入ることにした。それにしてもメニュー表には沢山の品が書いてあった。
食べ物がなく、しかし飛行機で出たパンを持っていたので、それと、持ち合わせのジュースくらいで部屋で夕食にした。散々な目にあった。
部屋に入るとき、若い女性の従業員に出会った。ワイフは「全然愛想がない」と驚いていた。私は彼女の年齢と顔つきから、「あれは農村から出てきたばかりで、ホテルづとめをしたばかりで、扱いがわからないのだ」と言ったが、これは後に、はずれることになる。
部屋は立派なものだった。2人部屋なのか、洗面台が2つある。ただし風呂はなく、シャワーだけである。4つ星で風呂がないのかと、感心?した。簡易ひげそりは危ない。髭ではなく皮膚を切りそうになる。日本の物は随分質がいいのだと感心した。
2
第1日目が始まる。このホテルは,朝食がビュッフェ形式である。ホテル自体は問題だが、おいしかった。食べ物がふんだんにある。麦のかゆがあって、ミルクで煮たのであろう、胃に優しい感じで、これをよく選んだ。他に、野菜や果物が豊富である。
さっそく見物に出かけた。
ガイドに、何で見物すると良いかと聞いておいた。「地下鉄は利用できますか」と聞くと、「ロシア語だけの表記だから、むずかしいでしょう」と言う。「じゃ、タクシーで、でしょうか」、というと、「そうでしょうね」とのことであった。
ところがここは,モスクワの中心地から少しはずれる所にあった。それに周囲は汚い。閉店した店とか、建築中の建物か多い。道理は薄よごれている、
モスクワの中心に環状線の地下鉄が走っている。わがホテルはその環状線から駅2つ、外へ出る。地図を見ると、中心からかなり距離がある。
旅行本によると、ホテルが頼んだタクシーは安全だが、市内にいるタクシーは問題がある、というのである。ロシアではタクシーにメーターがついていないので、乗るときに値段を決め合うのだそうである。後に知ったが、白タクが多いそうだ。私の友人は、タクシーに乗ったら、もう乗客がいて、乗り合いだったと言う。
そこで、タクシーで出かけるのはよいが、帰りに市内のタクシーを使わない方がよいとなると、結局、他の手段を使わなければならない。そこでいっそのこと,初めから地下鉄を利用しようということにした。ロシア文字は読めるから大丈夫だろう、と。
地下鉄の駅に向かった。その近くに銀行があって、日曜でも開いている、というからである。だが駅まで歩いて15分かかった。ここから近くの銀行を地図を頼りに探すが、やっと見つかった。見つけるだけでも10分以上かかった。バンクというから大きいのかと思ったら、小さいのである、入ってみると、「ここで待っていなさい」と命じられた。銀行ではなくて、小さな両替所であった。しばらくすると、カウンターから一人が出てきて、彼が終わったので、次に我々ということだった。やっとドルをルーブルに替えることができた。怖ろしい顔をした警備員が机に座っていた。
さてここから地下鉄に載ろうというわけである。駅内に入ると、券売場があり、それはカッサという。行き先を告げて、2枚買った。券は紙のカードで、1人40ルーブリである。120円だから安い。後にわかるが、行き先を告げる必要はなかったのだった。どこまで乗っても均一料金だからである。
駅員は、行き先の駅をロシア語で真剣に教えてくれる。親切なのである。地下鉄の路線のうち幾つかはエスカレーターを利用する。これが急勾配で、長かった。かつて40年前、市内見学の時、そのガイドが「速いでしょう」と言っていたし、当時はそう思ったが、今回はそれほどでもなかった。東京の地下鉄で慣れてきているのかもしれない。アメリカに原爆を落とされたら困るから、深く作ったという噂を、昔、日本で聞いたことがある。
1つ乗り換えで、ボロジノ戦パノラマ館へ行く。モスクワは広い道路(車道)が多いので、歩道が不便に作られている。それに地下道が多い。目的地まで場所を探すのが大変だった。住所は書き取っていたが。間違った道を行き、途中で何人もの人に聞く。おおざっぱに教えてくれる人がいた。ロシアでは「すぐです」と言っても、遠い。親切に、間違わないように我々の行く先を見定めてくれる人もいた。
館は、ナポレオン戦争の記念物や,当時の資料が展示されていた。写真撮影は許可されていた。最上階にボロジノの戦いのパモラマがある。見終わって、館内のお土産屋でここの英語のパンフレットを買った。ロシア語版しかウインドウに出されていなかったので、聞いてみたら、あったのだ。
昼が過ぎたので、途中で見つけておいたカフェに入り昼食をすることにした。「カフェ・ハウス」といって全国チェーンであった。いい物を出す。シチューとコーヒーとケーキを注文した。
その後、トルストイ(レフ・N・、1828−1910)邸を見に行く。また地下鉄を使って、駅を降りると、やはり場所がわからず、今度聞いた人は、アイ・フォンで調べて教えてくれた。そのためよく分かった。親切な若いカップルだった。
トルストイは、ヤースナヤ・パリャーナとモスクワに住んだ。ヤースナヤ・パリャーナはモスクワから列車で3時間で行けるそうである。ちなみに、モスクワからこの旅行をロシアのインツーリスト会社は8万円で行なっている。
さて、このモスクワの邸が博物館になっている。沢山の部屋がある大きな邸で、広い庭もある。当時の貴族の生活がわかる。ここで小説を買いていたのだと思って、感動する。後にわかったが、このころは「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」は出版した後であった。2階建てで木造であり、それぞれ十部屋くらいある。写真撮影の許可をとらなかったので、写真集を買った。特別料金を払えば写真をとってもよいみたいだった。受付の老女は、初め会ったときは不親切だったが、室内に入っていろいろ交渉している時は不親切ではなかった。トルストイは1881年からモスクワに転居したと、評伝にあるから、その時から家族でここに住んだのだろう。
見終わると、くたびれた。そこでカフェでジュースを飲んで一休みした。そのトイレには、ディスコにあるような、ミラー・ボール、色つき光のキラキラするライトがあった。来る途中でスーパー・マーケットがあったので、思い起こし。そこに寄った。ワイフは、そこではロシアの日常品が売られているので興味深いようだった。
私は思いついて、煙草を買おうとした。店員に「煙草はありますか」、と聞くと、「カッサ(レジ)にある」という。レジに行ってみると、いくら見ても煙草がない。近くの男性に同じ事を聞くと、やはり「カッサにある」と答える。すると、ある人が煙草を買った。レジ係の婦人は、鍵を使って上の金属製の大きなケースを開け、煙草を取り出して、売った。そうなのかと分かって注文すると、「どんな煙草か」と聞くではないか。ロシアの煙草の銘柄は分からないので、まず引き下がる。そうすると、かの男性が、「それなら1覧表を見せて貰えばよい」といって、係の女性に言ってくれた。彼女はそれを見せてくれたが、文字だけではどんな煙草か分からない。仕方ないので、「ここからここまで」と4つほど示して、全部買った。今後、その中からよい銘柄を覚えておこうと思ったのだ。出てきたのは、4つのうち2つは極細の煙草だった、ロシアでは女性が吸うような極細煙草が多いのだった。
その後、わがホテルの近くのスーパーに行ったとき、煙草があるかと聞くと、「ある」とのことだった。だが、店の煙草の棚に布をかけて、煙草が見えないようにしてあった。後にガイドに聞くと、「法律ができて、煙草は中毒防止のため、若い人の目に付かないように、スーパーでしか売らないこと、となった。」町中にたばこ屋がないのである。モスクワ空港で煙草を買った時、ロシアで煙草は作らないとのことで、全部外国の煙草だそうだ。政府も煙草を売っても得にならないから、売りたくないのだろう。煙草はどこでも建物内では禁煙であった。かなり前にロシアに行った人によると、煙草はロシアで売っていた。ロシア製煙草もあった、という。私も吸った記憶がある。
我が駅の近くのスパー・マーケットは、フローラ・マーケットという。これは花のマーケットという意味だが、花屋は地下1階にあり、お客はほとんどいなかった。地上1階は普通のマーケットで、大体の食料品は売っている。ここでピロシキを買った。油で揚げてあるものと、そうでない物とがある。中は種々である。ジャガイモ、米、ひき肉、などである。マーケット内のある店では韓国人が経営をしていた。
ロシアでは花の店がよく見受けられる。切り花の束を持って歩いている人も多い。
ホテルの玄関の内側に灰皿があるので、吸っていたら、禁煙だといわれた。それならなぜそこにおいてあるのか。ホテルの外の前では吸って良い。そこで吸っていると、こん回の滞在中,通行人5人に煙草を所望された。1人は、色々話をする人で、モンゴルから来たという初老男性で、仏教徒だという。出稼ぎ労働者らしい。他の2人は近東あたりの出身のようだった。
3
2日目。クレムリン見学をする。内部に入るには入場券を買って入ることになっている。韓国、中国からの団体観光客が沢山いた。アメリカかヨーロッパの団体旅行もあった。クレムリンに、議会堂、官庁、武器庫と、沢山の東方教会があり、教会のうち2つは中を見学できた、1つは閉まっていた。堂内に棺がおいてあって、ワイフはいやがった。
終わると少し雨が降ったので、宮殿前で休んでいると、傘売りが来た。モスクワでは時々雨が降るそうで、知人によると、日本の折りたたみ傘をロシア人にプレゼントにすると喜ばれるという。
道路には時々大きな散水車が来て水を撒く。日本よりも頻繁である。ただし撒き方はかなり乱暴である。
近くのカフェに入り、昼食にする。自分で取るセルフサービス方式で、ロシアにはこの種の店が多い。色々な総菜が並んでいて、好きなものを皿に取って、それを量り売りする。味はよい。
かつてモスクワで女性が象のようだという川柳を詠んだ人がいた。かつてはそうだったが、今はそういう人は少ない。それにロシア人以外の人がとても多い。
地下鉄を1駅乗って、「赤の広場」へ行く。歩いている途中に、「1812年記念博物館」があるのを知った。なお、かつて泊まった「ホテル・メトロポール」も近くにあったが、昔と様子が違っている。「赤の広場」では丁度フェストが行われていて、そのためか、検問があった。警官が沢山出ていた。わがガイドによると、「赤の広場にはロシア人は行くことはなく、何が行われるかは興味もない」と言う。赤い聖ワシーリー寺院を近くで眺めた。レーニン廟には行かなかった。近くのグム(=国立百貨店)を見る。かつてとは大違いである。
帰りの地下鉄の駅を探すと,途中に例の「カフェ・ハウス」があったので、ここで夕食にした。ニジマスを食べた。やく焼き切れていないで、少し血が出ている。ウエイトレスが中国人だった。
見物が終わって、わが地下鉄の駅に戻ると、そこからホテルまでレストランがないので、ホテルのレストランで夕食をすることが、ままあった。このレストランの料理は値段が高いが味が良い。ある時、ビーフ・ストロガノフを食べた。おいしい。マッシュ・ポテトが沢山盛られ、その上に牛肉が少し乗っていた。ところがここのウエイトレスは愛想がないのである。絶対に笑わない。ロシアでは接客時に愛想が悪い。笑顔がない。これは農民国で、いままで役人的な国だったからなのだろうか。後日、知人たちに聞くと、本当にそうだったらしい。ロシア人は知っている人には笑うが、知らない人には笑いかけない、と知人は言う。それで、ほほえみのない国と言われるそうである。他人に笑いかけるのは商売女だけだという通念がロシア人にあると、知人は言う。
地下鉄では若者が自然に席を老人(私)に譲ってくれる。これは日本よりも良く行われている。立派なことである。だが,ワイフによれば、ロシア人は人にぶつかったり、足を踏んだりしも、「すみません」と言わなかったそうだ。
地下鉄では機械で切符も売っている。ワイフはこれを試してみた。1枚売りと2枚売りがある。うまくできた。
ホテルでは部屋の担当は、若いかわいい中国人女性だそうだ。だがロシア語・英語が読めないらしい。ワイフが部屋に置いているエコ・カードの指示どおりに対応すると、それが実現されないので、それがわかった。
3日目 トレチャコフ美術館へ向かう。地下鉄の駅でおりると、駅前に小さな木造小屋のような店が並び、これが楽しかった。果物、菓子、蜂蜜、きのこ、薬草などが、店別に売られている。ここで、パンやジュースを買い、椅子と机がおいてあるので、そこで食べる。ジュースにモーリエというのがあり、ブルーベリーか木いちごの赤い色のジュースであって、これはよく見かける。座っていると、老婦人が、「ここに座っていいか」と、来たので、「どうぞ」といい、「英語を話すか」と聞くと、「話せない」とのことだった。近くにいた若い男性が通訳してくれた。このジュースの名もも彼女から聞いた。我々が食べ始めるとき、「ボナプチ」と言ってくれた。「このジュースはおいしいか」、と尋ねてきた。本来はロシア人は愛想は悪くはないのではないか。それが、営業とか仕事になると、愛想が悪くなる。不思議である。我々の近くで、あるロシア人が、すててあるパンをちぎって振りまいたら、ここにはハトが沢山いて、どっとやってきた。
大体、ロシア人は,我々が物をきいても、ロシア語でまくしたてる。ロシア語以外に言葉がないとか、人間はロシア語を喋るものだという勢いである。ロシア人は英語を話せない人が多い。日本の友人でロシア通の人に聞くと、ロシア人は大学で英語よりドイツ語を選ぶとのことである。
トレチャコフ・ガレリ−(美術館)は、ロシア絵画が多く、ロシア史に詳しければ面白い。ここで有名な絵は、イワン・クラムスコイの油絵「忘れ得ぬ人」である。モデルはだれだか分からない。毛皮のコートと帽子を被り、橋に馬車をとめている若い女性である。
くたびれたので、美術館前のカフェ・レストランで、ワイン、ジュースを飲む。ロシアでは2人で物を頼むと2つ持ってくるので、はっきり1つと言わないといけない。ここのウエイトレスはワインを2杯もってきた。だから1つだといって断った。売り子は困ったような顔をしていた。
セルフサービスの店でもレストランの食事でも、売り子は余計な物も推薦する。
駅へ戻る途中に、スシ・レストランがあった。つまり日本レストランである。ロシアに沢山スシ・バーがあり、メニューの写真を見ると、とても寿司とはいえないものがある。ここで立ち止まって見ていると、若い男性店員が出てきて、タジキスタン出身だと言った。店は日本人の経営ではない。彼は、「日本の文化、俳句や短歌に興味がある」という。看板に餃子の写真があるので、「これ中国のものです」と私は指摘した。「ロシア語うまいですね」と褒められた。我が駅の近くで、中国、日本、イタリアのレストランがあるのを知った。
行きたい所へいちいち足を運んでいては時間のロスなので、観光バスに乗ると良さそうだと思いつき、ホテルに相談したが、よく分からないらしい。大体、ロシアの大手観光会社がそれをしているのだろうが、かなり以前から日本で申し込んでいないと駄目なようだ。だから、日本で旅行会社が募集しているロシア団体ツアーに参加する方が良いらしい、と気づいた。そこで私のポリシーの、個人旅行の方がよい、というのは、ロシアでは通用しないのではないかと思われた。しかし後日、そういう観光旅行に申し込んだ人は、各博物館などで、入るのに非常に長く待たされたという。
4
第3日目
ドストエフスキー(フョードル・N、1821-1881)の家へゆく。調べた番地の前で、若者たちに聞くと、「それはここだ」と言う。いい加減な者も居るのであり、これが違ったのである。我々が中の庭に入ると、中年婦人が出てきて、「何をしに来たのか」と、警官みたいに聞く。「ドストエフスキー記念館に来た」というと、「それはあっちだ」と我々を追い払うように言う。ここは何かとみると、モスクワ大学の1部分だった。同じ番地の違った方へ歩いて行くと、やっとドストエフスキーの家の看板に出あった。
ドストエフスキーの家に入ると、奇妙な男性にあい、上履きを履くべきだという。ここも、トルストイの家も、次ぎに行くプーシキンの家も、靴の上からそれを包む大きなスリッパのような物を履くのである。
カッサへ行けというので、払いに行くと、担当者が、鋏で一生懸命ゆっくりと切って入場券を渡した。隣に若い女性の警備員がいて、この人は綺麗な顔をしているのに、冷たい顔をしている。我々を泥棒ではないかという顔つきで見ている。しかし一体、泥棒は入場料を払うものだろうか。館内の初めの老女性は、こういう立派な資料があり、ぜひ見てくれと、いってきた。直筆書簡であった。
このドストエフスキーの家は、彼が幼年期を過ごした家であり、大きな建物の1階の3部屋ほどで、机、持ち物、ベッドなどがある。ベッドは大きくなかった。手洗いポットがおいてあった。当時のモスクワは水道がなかったのだ。写真は売っているかなと、みると、そういうものはないので、カメラでとろうとし、次の案内老女性に聞くと、「カメラはだめだ、しかし特別料金を払えば、撮れる」と言う。この人は、『罪と罰』でラスコーリニコフが殺した金貸し老婆みたいな感じの人であった。またカッサへ戻り、撮影許可料を払った。
ドストエフスキー館の見物客は、若い男性1人だけであった。あとから若い女性が来た。非常に少ない。こんなに人が来ないのか、と感心?した。
ここのトイレは、ロシア風であり、便器に蓋も便座もなかった。
アルバート通りへ向かった。旅行者に人気があるとされているからである。通りには新と旧がある。我々は旧アルバート通りだけ歩いた。そしてここに、プーシキン(アレクサンドル・S、1799−1837)記念館もある。通りに入ると、例の丸木小屋が道の中に並んでいて、楽しい。ワイフはロシア・ケーキを1つ買った。焼き串肉も実演しながら売っていた。私はある店でクワスを見つけた。これはいつか飲んでみたいと思っていたもので、うれしくなった。1・5リットル・ボトルを買った。これが1番小さい。クワスは黒パンを発酵させたジュースで、コカコーラを薄くしたような味だった。とても安く、50ルーブリである。クワスでロシア・ケーキを、かの店の椅子にすわって食べた。
プーシキン記念館を見た。トルストイの邸と違って、そんなに広くはないが、建物と室内は洗練されている。隣の家が入り口になっている。
このアルバ−ト通りを歩くと、土産物店などがある。その店の売り子女性のの1人はキルギス人だった。他に中国人や韓国人の売り子もいる。会計主任はロシア女性だった。
通りにはサンドイッチ・マンが数人立っている。珍しい。彼らは中央アジアの人々らしかった。ロシアは多民族国家である。旧ソ連の地域から多くの人が下層労働者として流れ込んでいる感じである。旅行本で推薦していた「ムームー」という店に入って夕食にした。ここもセルフ・サービス店であった。売り子は東洋人が多い。
通りのそばに、巨大な建物があり、何だろうかとみると、政府の経済関係の機関であった。
ホテルで、初めペット・ボトルの水が一本サービスされていたが、途中からなくなった。それを言うと、フロントは「レストランで聞いてくれ」と言う。レストランへ行くと、「供え品はフロントの担当です」という。またフロントへ行くと、「水は到着した日だけのサービスです」と言う。係が、間違って毎日出していたようだ。
部屋の洗面所に色々備品があるが、これに値段がついていることが分かった。こういうのは初めてである。私はひげそりと歯ブラシを使ったので、チェックアウトの時、徴収されるかと思ったが、なぜか払わないで済んだ。なんだか良く分からない。
サンクトペテルブルクへ向かうことになった。ガイドのユリアさんが迎えに来る。鉄道駅レニングラードまで送って貰う。駅に入るのに、荷物・身体検査がある。時間があるので、少しお喋りをする。大体、アメリカ、イギリス、ロシアは大国なので、テロリストを恐れ、よく検問する。
ユリアさんは若い女性で、モスクワの大学を出た。ロシアで大学は国立である。日本語を5年学んでいるというが、あまり上手ではない。モスクワの大学で日本語を教えているのはロシア人だけだと言う。日本大使館でロシア語コースがあって、そこへ通って学んでいる。ただし日本大使館がそういうことをしているとはとても思えないので、ちょっと関係があるというだけではないのか、と私は推測する。クラスは上手な人から始まって5クラスあり、彼女は下から2つ目のクラスだそうだ。まじめに学んでいるようだが、日本人から学んでいないから、上達が遅いのだろう。ロシアの若者が、日本文化、つまりアニメや漫画に興味を持っている、と言う。
地人為よると、大学を出てガイドをするのはあまり良いステータスではないという。
ユリアさんは、わざわざプラトークを持ってきた。これはむかしの女性が頭にかぶった布で、1930年代までそうだったという。祖母から借りてきたといい、かぶって見せた。今では誰もかぶらないそうだ。
列車に乗るのに、パスポートを見せる。サンクト・ペテルブルグまで4時間半の旅である。窓の位置が悪いために外の景色が見えなかった。何のためにわざわざ記者に乗ったのか分からない。車内には、飲み物・食べ物を売る店があったので、軽い昼食を買った。ワゴンで一度、物を売りにも来る。
サンクト・ペテルブルグ
サンクト・ペテルブルグは、ピョートル1世が1703年に作り、1712年から首都になった。それまでモスクワだった。もともとは湿地帯であった。全国から石を集め、毎年4万人の労働者を働かせた。1914年にペテログラードと呼ばれ、レーニンがロシア革命後、再びモスクワに遷都した。レーニンの死以後レニングラードと言われ、1991年から元のサンクト・ペテルブルグになった。旅行の通(つう)は、ここをサンクトと言うらしい。
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サンクト・ペテルブルグの「モスクワ駅」に、ガイドのジーマさんが迎えに来た。若い男性で感じが良い人である。「15分歩くとホテルです」という。15分というのがロシア人には何でもないらしい。途中の道路には沢山の自動車がパーキングしている。投宿して、早速、教わった食堂に夕食に行く。「茶・・・」という店で、これもセルフ・サービスだった。ボルシチを注文したが、ボルシュと言うようだ。各種のお茶を自分で入れることもできる。
モスクワと違って観光バスがあるようだ。ジーマさんはインツーリストではない会社に勤めている。理工系の大学を出て、日本に興味をもったので、この仕事にしたと言う。
1日目 九月九日
朝ゆっくり出て、シチィ・ツアーのバスに乗ることにした。駅前から出るというが、バス出発地がなかなか見つからない。五,六人の人に聞いてやっと分かった。ネフスキー通り110番地であるが、小さな看板で、ロシア語でシチィー・ツアとあるだけだった。探しているうち、バスが出てしまったので、次のバスを待つ。三〇分おきに出ている。あと二五分待たねばならない。そこでトイレを利用するため、傍のカフェーに入った。早いので誰もお客はいない。屋外でコーヒーを飲んで、バスが来たら困るので、ダイキンは先に払った。なにしろヨーロッパでは勘定がゆっくりしているからである。だたし200ルーブリ(600円弱)もした。ネフスキー通りという観光目抜き通りだから仕方が無いかもしれない。
さて、乗ったバスは2階建て、ロシア語のインタフォンで説明がある。外国人向けではない。2時間で市内主要場所を廻るのだった。これは途中下車してまた乗ることも出来るようだった。途中で、ネヴァ河の岸にあるオーロラ号も見た、1917年、この号砲が革命の合図になった。途中、モスクワのガイドが推薦した2つの有名寺院も間近まで行った。ワイフがカメラを落としてしまったので、降りてから、治せるかどうかと2カ所廻ったが、滞在中には間に合わないことがわかった。
町の食堂は食事の値段が安い。物価は日本の三分の二くらいだろうか。我々観光客の目でみてだから、生活しているロシア人はここの経済生活に慣れているだろうから、二分の一くらいかもしれない。
ホテルの前で同宿ロシア人男性に話しかけられた。「モスクワから3泊で来て、セールスの仕事だ」と言う。「モスクワは朝の通勤ラッシュはすごく混雑している。物価も賃金もここより高い。北方4島はどう思うか」など語りかけてきた。
本当にそうだろうかと、帰国後インターネットで調べると、2011年に、平均賃金がモスクワで、39016ルーブル、サンクト・ペテルブルグで 27373ルーブル、そしてそれよりもっと高い地方もある。2011年前半にロシアの平均月収は 16000ルーブルである。円にすればこれを3倍すれば良い。かなり安い事が分かる。医師、教師、公務員は給料が低い。
人口は、モスクワが2010年で 1150万人、サンクトペテルブルグが2002年で、466万人だとある。
水光熱費は各家庭は平均月1万円払う。だから安い。モスクワの賃金は日本の半分ではなかろうか。ガイドのユリアさんに「ロシア人は金持ちか」と聞くと、「日本人の方が金持ちのように思う」と言っていた。
日本人とロシア人の生活水準は、カンとしては同じくらいではないかと思う。ただし、二つの都会をみただけだから、アバウトな評価である。二つの都会ではロシア人以外の民族がとても多いと見えた。
ホテルの喫茶室に入ったら、ケーキの値段は高かった。夕方、デパートへ行く。イタリア・レストランで夕食し、買い物をする。タバコも買うが、レジの女性も手間取っていた。後ろに並んでいる人に申し訳けなかった。
エルミタージュ宮殿に向かう。バスで行く。3番線がホテルのそばから出ている。1人 25ルーブル(75円くらい)だった。バスには車掌がいるので、 料金を直接払う仕組みだ。車掌が、乗った人のところへやってくる。ロシアでは交通費がとても安い。モスクワよりサンクト・ペテルブルグの方が安い。
エルミタージュ宮殿は、別名、冬宮である。中国語の案内書では、冬宮という表題である。この宮殿の前の広場で1905年革命のきっかけが起きたのだと思うと感動する。エカテリナ2世の宮廷部分と、博物・美術館部の2つに分かれている。後者を見て疲れ切った。ワイフが宮廷部分を見つけたので、ここも行く。とにかく大きい。
宮殿を出ると帰り際、漁民風の人々がキャビアの缶詰を売りつけに来た。缶詰を開けて、試食してくれというのである。
エルミタージュ美術館には、次のものがある。レオナルド・ダ・ヴィンチの初期の2作、「ブノワの聖母、幼児キリストに花を差し伸べる聖母」と「リッタの聖母、授乳の聖母」である。ラファエロの「コネスタービルの聖母」、「聖家族。聖母子と髭のないヨセフ」。ロシアの画家では、アイヴァゾフスキーの風景画、シーシキンの「針葉樹林」。「冬」。クラムスコイの「「ソフィア・クラムスカヤの肖像」、レーピンの「クルクス県の復活大祭の十字行」、「ヴォルガの船曳」、「休憩」、「娘ヴェーラの肖像」。さて西洋に戻ると、カラヴァッジョ「リュートを弾く若者」、ジョルジョーネの「ユディト」、レンブラントの「フーロラに扮したサスキア」「イサクの犠牲」「放蕩息子の帰還」。アイクの「聖母を描く聖ルカ」、あと、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マネ、ルノワール、ダヴィド、ベラスケス、ティチアーノなどと続く。
日曜、2日目 ドストエフスキー・ムゼウムへ行く。初めてサンクト・ペテルブルグの地下鉄に乗る。1人28ルーブル(80円くらい)である。地下鉄の料金を払うと、ここでは切符でなく、コイン風のジェトンを受け取るのである。地下鉄の列車にサキソフォンを持って演奏する乞食が乗ってきた。
ムゼウムは、ドストエフスキーが生涯最後の2年間住んだ家だという。建物の角地がムゼウムの入り口になっているが、街に面している一方の入り口が、実際は彼のアパートの入り口になっていたのだろうと、私は思う。彼の借りたアパートは、四室くらいの広いところで、建物の二階にある。当時の状態から言えば、玄関から立派な広い階段を上る。アパートは、広いもので、モスクワのそれと同じく、書き物机が3つほどあった。ここは写真をとってもよく、上履きをはかなくてもよく、また資料や写真も売っていた。モスクワと違って、力が入っている。
アレクサンドル2世暗殺計画をした「人民の意志」党執行委員たちは、ドストエフスキーの隣のアパートを借りたというから、そのドアも写真をとるが、作家の展示室になっていた。ドアの形は共に同じである。この展示室はかなり広く、主に写真による説明が一杯である。ドストエフスキーは1875年からペテルブルグに住んだとされる。
地図を見ると、ここがわがホテルに近いのと、この通りをまっすぐ行けばよいので、ここから歩いて帰ろうとした。まず近くに教会があった。入る人は、十字を切ってから入っている。教会の前には女性の乞食が 7,8人立ち並んでいた。身なりは悪くない。道路には農村から来たのか、婦人たちが路上で物を売っている。果物、きのこ、野菜などである。
モスクワでも、我がホテルと我が地下鉄駅の間にも教会があり、乞食が座っていた。特に日曜日だ。人が教会に来るから、実入りが良いのだろう。道路で時々小銭が落ちていたので、拾って、これを乞食に寄付した。
この街路ぞいの市場にも入ってみる。大きな市場で、肉、魚、果物など、なんでもある。果物を2つ買ってボラれた。豚の頭が、皮は剥いてあるが、そのまま売られている。
ホテルの近くでビストロを見つけたので、入って昼食にした。甘いお茶のビンがあり、おいしい。その隣に半地下の小市場があるので、入ってみると、ロシア・ケーキも売っていた。少し買う。安くて素朴だが、美味しい。
サンクトペテルブルグで一番有名な通りは、ネフスキー通りである。そこにある土産物店を見に行く。マトリョーシカがあり、しかもいろいろあり、5層のものから10層のものまである。どうりで値段が違う。高価なものは、色彩や人形の表情がとても良い。ただしロシアにはお土産はマトリョーシカしかないのか、という思いもする。
モスクワでは地下横断道が多いが、サンクトペテルブルグでは地上の横断歩道が多い。道路が広い場合は、途中でとまって、待ち、またもう半分の道を渡るという仕組である。なお、そろそろ青になる時、赤い信号でも渡る人がいる。
両都とも、今時は夜九時に日没になる。
わがホテルのレストランに夜、初めて入ってみる。ビーフ・ステーキを注文したら、「これは本当にビーフ・ステーキだけなので、他に何もついていない、何か他に添える方がよい」という。ほぼ命令的である。フライド・ポテトも注文するつもりだったので、それを注文した。ワイフはボルシチだった。これにサワー・クリームを入れて食べるようだ。味はよいけれども、とても濃い。さてこの皮付きポテトは分量が多くて、ポテトが好きな私も残してしまったら、後で、ウエートレスはワイフに愚痴をこぼしていたらしい。
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8日 ホテルの旅行相談の女性も、愛想が悪い。お役人と話をしているみたいである。有名な郊外の宮殿があるペテルゴフまで汽車で1時間だという。翌日、「ペテルゴフへ行こうと思うのだが」、と言うと、「ペテルゴフは閉まっている」と言うのである。そのため、やめざるをえなかった。しかしどうして前の日にい言ってくれなかったのか、疑問である。
荷物を送る必要があり、郵便事情を調べようとして出かける。初め、教わった1番近くのポストに行く。建物が大きいので同じ番地の違った入り口だった。その後、ポストをやっとみつけたが、間口が狭く、暗く、陰気な感じで、とても郵便局とは思えない。2階に上がると、そこにポストがあった。係の人はロシア語しかわからない。大きな荷物は本局で出すらしく、番地を教えてくれた。ここでは荷物を送るのは駄目そうだった。ついで駅近くのポストに行った。ここも同じ作りで、ここには客が一杯いた。総合案内の女性はロシア語しかわからず、往生していると、客の若いロシア女性が英語がわかり、通訳してくれた。この郵便局ではやはり2キロまでしか送れないらしい。それ以上は本局から送る。それは市内に1つだけあり、それはかつて教わったところだった。メトロでもここからかなり離れている。
ホテルに帰って荷物を量ったら4キロ足らずで、2キロのものを1つだけ作ろうかと考えたが、結局持って帰ろうということになった。しかしロシア人は2キロ以上のものをあまり送らないのだろうかと、不思議である。郵便局で包装用のテープはおいていないだろうと推測して、デパートでテープを買っておいたが、無駄になった。
鉄道駅前の広場の四分の1は皆、セルフ・サービスの食堂になっていることがわかる。すごい繁盛である。値段は安い。
ペトロパブロフスク要塞へ行くことにした。
メトロを降りてすぐ高級レストランがあり、私はコーヒー、ワイフはマッシュ・ポテトで昼食にした。閑静な林がつづく。島への橋を渡った。ここはピョートル1世が1703年に起工し、サンクト・ペテルブルグ建設の司令地になった。早速、監獄を見学する。ここには政治犯が収容された監獄があり、エカテリナ2世が作った。ドストエフスキーもここに入れられた。彼は1849年4月に逮捕され、裁判後、12月に服役し始めた。4月から12月までいたのではないだろうか。監房の扉に入れられた人の名が表示されているが、彼の名は無い。ジェラーボフのいた監房は示されていた。彼はアレクサンドル2世暗殺の指揮者である。他に、私が全然知らない名前の文人や学者の名が戸に貼ってあった。監獄は2階建てで、2百人は収容されるだろう。室内は広い。ベッドと椅子だけである。もっとも、用便桶はあったであろう。ここには彼ら以外に、ラジーシチェフ、デカブリストたち、ゴーリキー、ナロードニキの人々、トカチョフ、レーニンの兄らが、入れられた。その後、拷問道具展をみる。中世ヨーロッパの拷問器具が展示されている。別料金であった。それから寺院を見る。ここも堂内に棺が並んでいて、礼拝堂の内部は、金だらけで、けばけばしい。庭には、ここを作ったピョートル一世の銅像がある。ワイフは日本語パンフレットに過ちを見つけた。それを案内係の女性に教えた。
ストロガノフ宮殿へ行って、見てから本物のストロガノフを食べようとしたら、休館日だった。休館なのに、入り口で見える限りで係員が4人もいるのは何なのだろうか。すぐさま、近くの船着き場へ行って、運河巡りツアー(1人 500ルーブル)を申し込み、飛び乗った。「グッド・デイ」と乗客に挨拶したが、反応がない。ロシア人ばかりだった。説明はロシア語だけである。1時間余のボートの旅だった。ネヴァ川を遊覧した。その岸辺に係留されている戦艦アウロラ号も見た。この号砲が革命の合図になったものである。川の水は綺麗ではなかった。
概してロシアでは観光業は国際化されていない。
船から降りたところが、「文学カフェ」の傍なので、そこへ行こうとし、カフェに入った。英語が通じる部屋へ案内された。ここでクロワサン・サンドを注文し、私はサーモンを注文していたが、ワイフと同じ物を持ってこられたので、作り直して貰った。大体ロシアはアバウトなのだ。コーヒーにミルクがないので、注文すると、「ホットですかアイスですか」などというので、身振りで、コーヒーにいれるのですと示すと、やっと分かって、小さなミルク・ピッチャーを持ってきた。勘定を払うとき、これが10ルーブリとられていたので、笑ってしまった。
食事をしたカフェ・レストランのこの部屋は全然歴史を感じないなと思って、念のため、「文学カフェはここ?」と、写真を示すと、「違う」とのことで、となりのカフェなのであった。唖然とした。何のためにこのカフェに入ったのか、無駄に終わった。そこで文学カフェに入ろうとして、この店を出て、行った。すると、そこでは、「満杯だ、駄目だ」ということになった。予約していた観光客が沢山やってきたのだった。やむなく、元老院広場を見に行った。元老院の横であった。デカブリスト叛乱(1825年)が起きたところである。バスで帰ったら1駅乗り過ごした。バスやメトロの1駅はかなり距離がある。
毎日水を百貨店で買う生活である。水は日本よりすこし高い。2リットルのペットボトルが140円である。今日はピロシキを買ってみた。部屋で食べたら中は米であった。がっかりした。
ライターの燃料がなくなったので、ホテルの土産店で「ライターがあるか」と聞くと、立派なライターを示された。そうでなく簡単なもの、というと、それでも随分高い簡易ライターを出された。店員が試すと、火がつかないのだった。ほかのライターもつかない。それで新品のライターをためしたら、弱々しくついた。この店員は若いロシア女性で、比較的愛想が悪くない。大変例外的である。ちなみにこのライターは帰国後すぐ燃料がなくなった。
夕方少し時間があるので、今まで歩いていない、反対側の街路を散歩することにした。建物のブロックの間に所々に門があり、ここから住民は中に入り自分の家に行くのだった。あるところでは貧民窟のような所があった。入ってみて、こういう所に人々は生活をしているのだと分かった。時々、大小の公園があった。近所の人々が遊びにきている。また例のお菓子屋に入った。ワイフはここのロシア・ケーキを絶賛している。素朴だがおいしいと言うのである。ケーキを買いにまた来たいという。
店では、我々が外国人だからなのだろうか、電卓で数字を見せてくれるので、ありがたい。ロシア人は大きな札をきらうみたいである。知人Iさんの経験では、ある時、小さい札がなくて、「貴方には売らない」と言われたことがあるそうである。ロシアでは、多分、小額紙幣の発行量が少ないのではないかと、その知人は思っている。
最終日 午後1時半の待ち合わせである。もしかしたら、時間に間に合って、昨日できなかったことができるかもしれないと考えて、敢行した。まずホテルをチェック・アウトした。ストロガノフ宮殿をみて、一一時になった。レストランに行くと、ウエイトレスによれば、何と「一二時に開く」とのことである。時間があるので、もしかして、料理の値段が分かれば、そのお金だけキープしておいて、あとは全部ルーブルをドルに替えれば、時間が出来て、ゆっくり食事ができる、と思った。それで近くの店員などに、かのレストランのビーフ・ストロガノフはいくらくらいするのかと聞いたが、問題が分かってくれないのである。やむなく、昨日断られた「文学カフェ」に入ることにしたら、早いせいか、客は我々だけだった。1階にはプーシキン像が置いてあり、客は2階に行くことになっているらしい。プーシキン夫妻の人形のある窓際の席で、外を見ながら時間をつぶし、12時1分前に、ストロガノフ宮殿の中庭に出ているレストランへ向かった。入ろうとすると、まだ駄目だ、と言う。少し押し問答をしていたら、12時になり、入れた。そこでビーフ・ストロガノフをすぐさま注文する。伝統的なものを出すというのである。美味しい。モスクワで食べたのと、ソースと肉の量とがちょっと違う。これは、細切りの牛肉にソースがかかり、マッシュポテトが添えられている。店によってソースの味が違う。ちなみにロシアではマッシュポテトがよく出て来る。
大急ぎで食べ、バスですぐ銀行に行き、ルーブルを全部ドルに替えた。客の多い銀行では待ち番号の札を機械で受け取る必要がある。
ジーマさんと会うのには間に合った。車で空港へ向かった。ところで運転手も、仕事だけすればよいのだという態度である。途中で大きな建て物があり、その前が大規模な噴水で飾られている。「政府の建物でしょう」、と言う。彼も名前は分からない。
博物館などの見張りの係員がとても多いのと、見学者が少ないので、経費はどうなっているのかと聞くと、彼らは定年退職者が多いこと、年金は2万5千円なので、そういう所でアルバイトをする、とのことであった。博物館の収入でアルバイト代を払っていると言うが、普通のミュージアムは入場者が少ないので、払えないと思う。どこかで援助しているのではないか。
空港内で、喫煙場所が見当たらない、これでは成田まで吸えないな、と覚悟した。
サンクトペテルブルグ空港ではドルが使えない。喉が渇いて何か飲もうとしたが、ルーブルを全然持っていないので、何も買えず、飲めなかった。モスクワ空港で成田行きに乗り換える。そのモスクワ空港ではドルは使えた。そのため飲み物を注文し、また煙草も買った。煙草はロシアで作っていない、これはドイツ製だというので、1カートンだけにした。かつてはロシア製煙草はあったはずだったが。
今回利用した飛行機3つは全部アエロフロートであった。成田行きの便はほとんど外国人であった。
ロシアの食べ物はほとんど口に合った。なかなか美味しいもので、日本人には合うと思える。
2つの都会には大きな壮麗な建築物が多くあり、これらはかつての貴族の館であろう。これらが今は、集合住宅、会社、商店として使用されている。エルミタージュ宮殿を筆頭にして、これらの建築物を持っていることで、ロシア人は自分が偉大だと思っているのではないか、というのが、ワイフの感想である。
参考) 画集『エルミタージュ美術館』岩波書店