ラースの、1848年ウィーン革命以前

   これは、R.John Rath, The Viennese Revolution of 1848.  University of Texas  Press 1957 の第一章の翻訳である。宮尾政志 氏の訳で、出来上がった訳稿を、倉田 稔が文章の入れ替えなどし、少し読みやすくした。注は、倉田が付けた。本文には原注があるが、今の所、省いてある。

 

1 革命以前の帝国

 

 1848年、ハプスブルク君主国は、突如、他のヨーロッパ諸国と同様、革命の嵐の中に投げ込まれた。それは、19世紀のリベラリズムとナショナリズムが抱えていた希望と理想、幻想と偏見、強さと弱さを凝縮した。オーストリア帝国内の激変は、ヨーロッパの大部分を呑みこんだ中産階級による革命的運動の一局面だった。

 そのリーダーたちは、大部分が中産階級に属しており、専制政治体制を転覆させる結果となった一連の事件に責任があったが、現存する政府を嫌悪していた。彼らは、自国を支配する政治機関は社会の本当の要求とは絶望的にズレていると信じていたので、支配階級は人民の大部分を搾取者になってしまったと確信していた。このリーダーたちはある考えを抱いてもいた。確固たるリベラルな改革は人類のすべての病気を治し、ユートピア建設を助ける、という考えである。国全体の福祉は個々人の福祉に宿ると信じていた。個人の自由の最大の可能性と人類の進歩とを信じて、憲法が必要だとリーダーたちは主張した。その憲法は、法の制定と税の承認の特権をこの『尊敬すべき』中産階級に保証し、君主が個々の市民の権利を侵害することを禁じるものである。

 しかし、この革命に責任を負う彼らは、リベラルな制度について実際の知識がなかった。厳しい検閲と張り巡らされた警察網が、西洋の政治思想の微かな影すらオーストリア帝国に入り込ませなかった。ここにオーストリアの1848年革命の主たる弱点の一つがあった。オーストリア急進派にとって、リベラリズムとは単なる夢見る理想であり、夢見るおとぎ話に過ぎなかった。リベラリズムは、実際政治の基礎では決してなく、ありえもしなかった。これは余計な人間に対する余計な物であった。

 結果として、最初の革命の波の後、ふがいない政府から最初の譲歩を引き出した時、深刻な分裂が革命家たち自体の中に広がり始めた。より穏健な「リベラル派たち」は、革命が使命を成就したと感じていた。かれらは今や平和と安定を欲するようになっていた。だから彼らの革命的な理想の解釈が調和するような社会を再構築でき、さらに重要なことなのだが、革命が自分たちに保証すると確信する特権を利用できると、思った。一方、意見を主張できない大衆は、革命が自分たちに天国からの恵みを与えてくれるものではなかろうか、と信じるようになっていた。自分たちが従前通り空腹で、惨めで、価値の無い存在にすぎないとわかったとき、大衆は当惑し、憤った。大衆は、旧体制とそれに結びつくすべてを野蛮な激情で攻撃する扇動者によって、たやすく操られた。過激論者の辛辣さと自制の欠如は、より慎重な平和愛好的な「リベラル派たち」の中で、必然的にある怖れを生じさせた。もし革命が即座に阻止されなければ、自分たちの政治的優位が脅かされるのではないか、という怖れである。だが、元からの革命のリーダーの中のより穏健派が革命を止めようとしたとき、かえって、急進派は以前より意固地になり、革命をより左に移行させた。その結果、彼らはすべての「尊敬すべき」グループを敵対階級にしてしまった。結局、反革命派が運動を鎮圧するのに成功したとき、彼らは、圧倒的多数の民衆から熱狂的に歓迎されたのである。

 1848年に転覆させられる現体制は、まだ当時、王権神授説を信じていた。君主は神にだけ責任を有し、神の神聖な法と戒律に則って統治しなければならない、という前提だった。君主制は、臣民にとってではなく、高位官僚にとって重要な存在だった。オーストリアに存在したこの愛国心は、王朝的で私的なものだった。多民族混交の帝国内の多様な人民を結びつける主な接着剤は、君主である人物に帰依することだった。

 皇帝に直接責任を負ったのは、帝国の事柄を管理する数々の行政機関だった。連合裁判所大臣がオーストリア継承諸国(1)の行政を管轄した。ハンガリー帝国審議会とトランシルバニアの大臣は、ハンガリーとトランシルバニアの事柄を管理し、帝国のその地方の司法行政を監督した。金融、地代、貿易、産業、鉄道、郵便の、特別帝国会議所と、その他に造幣と鉱業の会議所があった。非ハンガリーすべてと非トランシルバニアすべての、司法機関を監督する一人の判事長がいた。帝国軍事審議会は軍事を司った。警察と検閲の監督のために、帝国・検閲事務所があった。総宮廷会計院が予算を調整した。そして、枢密院、御前会議、外交を司どる国家官房があった。

   (1)継承諸国、旧来のハプスブルクの領地、つまりハンガリー王国など東側以外。

 

 これら裁判所機関の長たちは、君主の相談役として、かつ君主の名の下に働く本当の秘書あるいは大臣として当初からみなされていた。彼らは、顧問審議官として国の問題を頻繁に協議した。徐々に、この形態は無用なものとなっていった。マリア・テレジア(在位1740年〜80)とヨーゼフ2世(1780年〜90)は、新設の国家審議会を主に拠り所とし、一方、フランツ一世(2)(1792年〜1835)は、この国家審議会と、彼がナポレオン戦争中に設立した国家会議を、共に頻繁に無視して、更にいっそう、行政に個人的な責任を負った。口頭での会議を開催することが中止になったとき、裁判所機関の長たちは皇帝に屈服して総てを書面にした。やがて彼らは各々の機関の単なる行政官のレベルにまで落ちぶれた。国家審議会と国家会議の主要な機能は、君主から委託された事項の重要な点に関して入念で詳細な調査報告を文書にするというものになってしまった。最後には、皇帝フランツは1人で、すべてを、またほぼ取るに足らないことまでを決裁した。

  (2)神聖ローマ帝国皇帝として2世、オーストリア皇帝として1世。

 

 皇帝の直接統治下にある中央政府内のすべての機関だけでなく(ハンガリーとロンバルダイ・ベネチアのような超特権を持った諸国を除く)、諸国もウィーンの中央当局に全面的に依存していた。その諸国に対して皇帝と臣下たちはすべての法律を定めた。いくつかの国には歴史な所有地がまだあったが、それらは本当の意味では典型的な組織体ではなく、聖職者、貴族、騎士または下級貴族、そして城下町から来る代議員の4つの階級から成る単に特権を与えられた自治体だった。通例、彼らは諸国の統治者か王室地方行政官の肩書で年に一度集ったが、彼らの権利は著しく制限された。彼らには立法権が無く、行政権のみが与えられていた。彼らは、すでに決められた税金を割り当てて徴収し、彼らに委任されてきた、そのような決まり切った諸国の事柄を扱った。他に、彼らには不平の救済の請願を皇帝または諸国の政府に送る権利を有した。19世紀まで彼らは有力な政治権力とは考えられていなかったのだ。

 君主政のすべての権力は君主の掌中に集中していたので、広範に及ぶ異質なハプスブルクの領地を統治する任務で統治者に求められたのは知恵と力だった。不幸にして、皇帝フェルディナンド(治世1835年〜48)には、その2つの性質が欠けていた。彼は優しい善意の人だったが、フェルディナンドは数年に渡り癲癇の発作に悩まされ、ひどく脳の働きに悪影響を受けた。勉強が苦手で、かつ慢性の病のために、フェルディナンドには広大な帝国を統治する能力が無かったのである。

 彼の統治が始まると、彼のために、政府の事務を監督する機関を創設しなければならないということが分かった。この目的のために、特別国家審議会が創られた。新しい統治者の叔父のヨハン大公(注1)が長となり、クレメンス・ヴェンツェル・メッテルニヒ公(注2)、フランツ・アントン・コロヴラート伯爵(注3)を、他のメンバーとした、だが、不運な組み合わせだった。ヨハン大公は高貴で善意の持ち主だったが、行動が遅く、才能に乏しく、他人の言に左右されやすかった。メッテルニヒとコロヴラートは長年お互いの連絡は手紙だけ、という怨恨の仇敵といったところだった。国家審議会では、メッテルニヒは外務の長として責を担い、コロヴラートは内務を担った。コロヴラートが「メッテルニヒ体制の中のリベラルな反抗者を演じる」のを好んだのとは裏腹に、メッテルニヒは、進歩の流れを止めるつもりはないと主張しつつも、すべての革命的でリベラルで民族主義的な理想を嫌悪したのである。

  (注1)原文ではルイとあるが、誤り。ヨハン大公 1782−1859。レオポルト    2世の一三番目の子。フランツ2世やカール大公の弟。有能だった。軍人になった。    庶民的で、町娘と結婚。息子は、メラン泊フランツ。

  (注2)メッテルニヒ 1773−1859。コブレンツ出身、レオポリト2世の、そ    の後、フランツ2世の式部官になる。1797からオーストリアの全権大使、18    09から外相、1821から宰相、初め買うにっつの孫と結婚、オーストリアのロ    スチャイルド、サロモンと親しい。塚本哲也『メッテルニヒ』文藝春秋。

  (注3)1778−1861,ボヘミア出身の貴族、完了。国会の内政財政を担当した。      後に、革命で宰相メッテルニヒが失脚後、短期間、宰相を勤める。

 この2人の闘士は激しく戦った。皇帝フランツの死後のたった2日後、2人は言葉の剣を交え、その後の君主制最高会議は喧嘩と衝突の場と化した。個人的な反目のすべては、君主制の発展ではなく、何度も繰り返された国家の重要問題を決する決定要因となった。その結果、政府は実際の業績を何も生めない停滞状態へ移行した。コロヴラートと他の高官たちは、メッテルニヒを含め、何もしないことの危険性を承知していたが、中央政府は、あまりにも混乱と無関心の泥沼に落ち込み、あまりにも分裂し、あまりにも体制の権威を維持しようと腐心したので、長年懸案となっている改革をすることができなかった。

 必然的に、上層部の弱点はそのオーストリア官僚制の下層部署に反映した。政府職員は14万人以上いた。大部分は忠実で勤勉だったが、通常は、あまりにも創意に欠けていたために、決まり切った仕事の域を超えられなかったし、遅い昇進と安い給料に立腹していた。この低賃金の理由の一つは国家財政の危機的状況だった。フェルディナンド治世下の初期に存在した赤字は、彼が皇位在位中に消えることはなかった。税金は上がり、特に中産階級と貧困層にのしかかったが、国家歳入は歳出を補うには十分ではなかった。1年間の赤字は約4百万グルデン(192万ドル)で、1847年までの国の赤字は増え続け、74800万グルデン(35940万ドル)に達した。

 すべてのオーストリア政府機関ですべてが機能停止した。正確には、情景は完全に暗黒ではなかった。すべての臣民の暮らしと財産は保障されていた。裁判権は、たとえどの階級、国籍に属そうとも皆平等に与えられた。外国人とキリスト教信者たちは皆、政府に雇用された。ほとんどの官吏は清廉で、正義と公正の精神をもっていた。政府は国民の物質的福利を向上させるのに事実関心があった。崩壊に瀕していたのは君主制の完全さや道徳的性格ではなく、行政機関だった。超保守主義者のアレクサンダー・フォン・ヒュプナーはこう評した。

 

 行政権力というものは、常に小粒な人間の手の中にどんどん堕ちてゆく。つまり、官僚の手の中にである。その制度は名誉があって上品ではあるが、影響力が無く、洞察力が無く、羅針盤が無い。それにすでに、多かれ少なかれ義務でしかたなく悪戦苦闘しているのだ、という考えになっていた。遠方の雷は嵐の到来を予告するが、途方に暮れている者に正しい方角を指し示し、あるいは気落ちした者をなぐさめて勇気を出すように仕向けられる者は誰もいなかった。国民の心に、気高い精神に、さらに高揚した感情に語りかける言葉は一言もなかった。そこに沈黙と反動しかなかたのだ。

 

政府内の混乱の結果は、マティアス・コッホ(研究者)と同様、厳しくさえあ

るが、1848年革命の敵対者が体制の中に1つのシステムを見たことであり、それは、

 

  単に純粋な否定だった。それは、消すことのできない言葉が刻まれた真鍮の板で、「譲歩が無く、憲法が無く、進歩が無い」と書いてあった。その前には、国家という一匹の生物が倒れていて、四肢は鎖でつながれていて、その口は、いろいろある恵み(自由)1つを求める断固とした希望を表現できず、それらの恵みに手を向けも出来なかったのである。

 革命前夜、リベラル派は、ハプスブルク官僚制を、無能力で、何も生み出さぬ、反動として非難した。しかし、特に彼らを激怒する点まで刺激したことは、宗教と教育に対する政府の態度であり、息苦しい出版検閲であり、遍在する警察であった。政府は概して、ヨーゼフ2世が18世紀に始めた総ての教会関連事項を厳しく規制する政策に固執したが、カトリック教会がその宗教的、道徳的影響をオーストリア国民に強めるたびに、聖職者たちを援助した。皇帝の臣民たちが強い宗教的確信を持つことは、廉直で、心が穏やかで、忠実な市民組織体が人格を陶冶するためには必要なことだった。1829年、イエスズ会はこの国で再許可され、1836年、教育活動をする許可を与えられた。1816年、リグオリア派すなわちレデンプトール会(注)の会堂が、ウィーンで、深い内面の信仰生活を送りたいという人びとのための避難場所として設置された。18483月、革命が近づいた頃、この国のよりリベラルな人々の何人かがイエスズ会に対して激烈な反対を表明し始めた。彼らはイエズス会を、この国の宗教と政治の世界で、嫌悪を催させ、悪魔だと彼らが考える総ての象徴に変えた。彼らの辛辣さはレデンプトール会へも向けられた。その会の理想と実践は、リベラル派が実質的に同じだと見做したイエズス会の理想と実践に多くの点でとても似ていた。ローマ教会が与えた特権が原因で、ハプスブルクの中産階級の反対者の多くは、宗教を、古いシステムを支持する一つの政治勢力だと思い始め、結果として、どんな宗教生活にも無関心な態度を取り始めたのである。

  (注)キリスト教徒の一派。聖アントニオ・デ・リグリオの教えの一派。贖罪派。

     カトリックの男子修道会、至聖贖罪主修道会。1732年、聖リグリオによりイ     タリアで創立された。

 

 体制の敵対者たちは、ハプスブルクの宗教政策だけでなく、教育制度も非難した。オーストリアの学校では、主たる目的は、生徒の精神の向上ではなく、素直で、信心深い、従順な、皇帝の臣民の型に嵌め込むことだった。帝国のすべての学校は、総書記局の一つである帝国学校委員会が監督していた。初等教育は、聖職者の直接管理下にあり、教区内の教師の行動や生徒の道徳心に責任を負う地区の僧侶がいた。小学校から大学まで、すべての学校では、教師はあらかじめ許可を得なければ、公的に規定された教科書や指導書から逸脱することは禁じられていた。言うまでもなく、オーストリアの学校には議論や思想の自由は無かったのである。

 ヨゼフ・セルドニツキー伯爵を長とする検閲と警察システムに対して、リベラル派は厳しい批判を浴びせた。ハプスブルク君主政体では、宗教、道徳、現行の社会・政治秩序、または重要な人物たちを批判する出版物はすべて、オーストリア、外国のいずれで書かれてようとも、禁止された。民族主義、立憲主義、リベラリズム、自由、そして他の「危険な」思想は、出版物から注意深く削除された。事実、国内の事件については何も書くことができず、公認の刊行物以外、政治的新聞はこの国には存在しなかった。オーストリアで印刷される総ての本や記事、宣伝、それに君主政体内で配布される外国の出版物までもが、一人の検閲官の元に提出させられた。彼は不穏当な部分を削除させ、不許可にした文言を変更する判断を一存で下していた。検閲官一人一人は自分の卓の上を通過する文書の独立した権限者だったので、混乱は避けられなかった。ある所で禁止された記事が別な場所では許可された。ある新聞は別な場所で禁じられた特集記事を出版した。ある著者は表明した思想が当局の不興を買ったが、一方では、同じ思想の著書を別な著者は罰を受けることなく出版した。当然、狭量な検閲官による恣意的な削除は、体制の反対者たちの苛立ちの絶えざる源だったし、文筆での奮闘を意気阻喪させる効果があった。オーストリアの著述家ルートヴィッヒ・アウグスト・フランクル(注)は、検閲でいろいろ悩まされた人物だが、こう述べている。「物を書く者達の自信がとても低く落ちてしまったので、自分の著作を自己検閲したり、クロノスが自分の子供達にしたように、頭に浮かんだ考えを総て破壊してしまったのだ。」

 (注)フランクル 181018934年、チェコ出身の医師・作家。

 

 それでもやはり、検閲の規制は厳しかったが、それらの規制はたびたび回避された。オーストリアの最も有名な19世紀中葉の脚本家、フランツ・グリルパルツアーは1848年の回想録の中で、自分の作品が何回検閲に引っ掛かったかを正確に述べている。

 

原則的に検閲は、皇帝フランツ時代と変わらずに依然厳しく残っていた。だが実際は、規制はかなり弱くなっていた。主な理由は、規制を押しつけることが不可能だったという事は確かだ。禁制の外国の著作を読み、配布することは世界中どこでも当たり前のことであったし、最も危険な著作が最も広く流布していた。私は、御者が御者台で「エステライヒス・ツークンフト」を読んでいるのをこの目で見た。国内の出版物は、もちろん、あらゆる方法で監視されていた。しかし一方では、メッテルニヒ公はときどき、宮廷参事官ハンマーや、公の仲間に出入りできた作家が、好きな物を大量に出版できたように、自分のリベラルな意見や、ヨーロッパ中に評判の人物であることを証明して楽しんでいた。一方では、たぶん評判がそこそこの作家たちに作品を外国で出版させる時は、喜んで黙認した。作家たちが、公然の秘密のやり方で、唯一必要としたことは、自らをほとんど総ての尋問から免れさせ、攻撃から守るために、名前を一語に縮めるとか、偽名を名乗ることだった。そう、当局は多分秘かに喜んでさえいただろう。というのも、当局は自分たちの要求する厳格さが、いっそう優れた文学を発展させる方向に添っていないと確信していたからだ。もちろん、現役の政治記者たちは顧慮の埒外に置かれていた。

 だが、もし最も傑出した文学者達がこのような待遇を受けたとしたら、他のレベルの者達は最も酷い苦しんだことだろう。つまり、外国の出版社を見つけられない、取るに足らない作家達である。劇作家達も同じ境遇に置かれていて、彼らが作品を書いた時には、主にウィーンの舞台を目標にしていたが、政治的ほのめかしや大衆受けでは基本的才能が欠けていて、それを補う力は無かった。

 警察も批判の対象だった。体制の反対者達は、セドルニツキーの組織の主たる任務、つまり法と秩序の維持という任務を白眼視してはいなかったが、かれらは政治警察は忌み嫌っていた。政治警察は、スパイ、通報者、そして警察長官室所属の挑発者の元締めであり、その任務は帝国の臣民の最も奥深い思想を探ることと、革命的精神の成長を阻止することだった。この警察は、恐怖と強迫を用いて仕事をした。セドルニツキーの告げ口屋たちは、たいていのオーストリア人に攻撃的だったが、それにもかかわらず、警察システムの抑圧は和らいだ。それは、フェルディナンド治世を特徴づける非効率と混乱とが高まったからであり、同様に、ハプスブルク法典に記された規則の厳しさを頻繁に和らげた「のんびり」と「だらしなさ」の感情によるものだった。警察は不平分子を脅すことができて、庇護している官吏や機関を不満分子があからさまに攻撃することに慎重になるように仕向けたが、不満の燃え残りの燻りを消すことはできなかった。彼らは単に反対派を地下に潜らせ、それによって、「リベラリズム」を、多く人にとって活気づけ、魅力的なものにし、本来なら温和しくしていた勇敢な精神にしたのだった。

 したがって、ハプスブルク政治システムの欠点は、1848年の春までオーストリアで広まった不満と反乱を生み出す強力な要因になった。また、当時の経済社会状態が不満の本当の原因となっていた。下層階級の生活水準は18世紀とそれ以前より実質的に良かったのだが。

 国民の大多数は農業によって生活の糧を得ていた。ヨーゼフ2世が私的農奴の身分から農民を解放した後でさえ、農民は、自分が耕している土地の所有者に金を払わなければならなかった。その上、地主はいうつも、自分の所有地に住む農民に様々な政治的、経済的、法律的な力を及ぼした。農民階級の状態は君主国の異なる場所ごとに大きく異なっていた、だが、概して、彼らが支払う債務はどこでも同じだった。最も重要だったのは義務的労役(ロボット)で、その量は国ごとに、また一国の中でも農民ごとに、かなり異なっていた。夥しい物納の中で最も厄介なのが十分の一税(ツエーント)で、それは色々な税金を含み、習慣やそれまでの様々な取り決めによって場所ごとに異なった。実際に、ある時は収穫の約10分の一に達し、ある時は12分の一程度だった。他の物納品には、牛、動物製品、家禽、蜂蜜が含まれていた。もし農民がブドウ園を持っていれば、ブドウ生育の使用のため、ほぼいつも地主に納めなければならなかった。それはブドウの収穫が無い時でさえ、そしてその土地が何年もブドウ園として使われていなかった場合でさえ、である。その上、通常、農民は所有者が変わると、かなりの金額で税が査定されたのである。

 他の税金がこれに加えて地主に支払われた。その主たるものは地代であり、通常、土地の純収益の1724パーセントに達した。同様に農民は、教会と国の種々の労働を支えるために金を与えなければならなかった。農民は軍務のような公的な命令を帯びたどんな人物にも、馬と乗り物を提供する義務があり、自分の家に兵隊を宿泊させる義務があり、地方の道と橋を作って修理する義務があった。1848年が近づくにつれて、農民たちは次から次に自分たちが厳しく取り立てられる支払い金に不満を持つようになっただけでなく、帝国の様々な地方の不満な地主たちも、農民たちの支払い金と労役とを金銭で代替することを求めて大いに議論し始めたのだ。

その農民たちの多数は、都会の労働者の多数と比べた時、相対的に幸運だった。1840年代に、産業革命は、オーストリアの繊維産業で、特に綿製品産業で、急速に発展し、主に中心はボヘミアとニーダー・オーストリアだった。1847年までに、君主国内に209の紡績工場ができ、紡錘の総数は1,356,180個だった。大量の羊毛製品は、いまだに昔ながらの人手により作られていたが、羊毛産業、絹製造業、製紙業では機械化もかなり進行していた。新しい工場では、いまだに水力が概ね用いられていたが、蒸気エンジンが徐々に使われるようになっていた。1847年までにオーストリアでは469台の蒸気エンジンが稼働し、さらに蒸気機関車用エンジンが278台、蒸気船用エンジンが76台稼働していた。様々な方法で政府は帝国の工業化を奨励しようとした。政府は鉄道建設を助成し、様々な禁止関税を廃止し、技術指導のための学校を増やし、民間の産業のために資金をより流動的に使えるようにした。しかし政府は、旧来のシステムの独占と特権的ギルドとを廃止しようとはしなかった、ギルドは数世紀前に完全に異なる経済状態の下に現れて、いまだにかなりの力を行使していたのである。

 オーストリアの産業革命は、結果として、他国の工場システムが確立されるのに伴って、恒常的に過酷な労働状態をもたらした。新たな工業地域、特にウィーンに、職を求めて、困窮した農民や極貧の手工業労働者の息子や娘が流れ込んできた。すべての就業可能な仕事の奪い合いは激烈だった。女性や子供は僅かな賃金でも働いたので、工場に大量に雇用された(例えば、1845年、ニーダー・オーストリアの綿と製紙工場では、従業員の約60パーセントが女性と子供だった)。男と女と子供は一日たいてい12時間から14時間働いた。賃金は悲惨だった。1847年に、子供の週給は20クロイツァー(16セント)から3フローリン(1.44ドル)の間にあり、それに対し男の平均週給は僅か5.22フローリン(2.51ドル)、女は2.58フローリン(1.24ドル)に対してだったと見積もられた。これは平均週給としてはイギリス(11シリング、2.67ドル)、フランス(16.68フラン、3.32ドル)より幾分少ない。その間、30年代から40年代にかけて生活費は着実に上昇し、1846年と1847年の凶作以降は急上昇した。例えば、下層階級の食料として欠かせないジャガイモの値段は、1メッツェ(1.74ブッシェル)当たり2.08フローリン(1.02ドル)だった。1847年まで、普通の労働者の賃金は、生活必需品を賄うのに十分ではなかったのである。

 経済的混乱と失業者の増大は不安を助長した。1847年までに、ウィーンだけでも一万人の工場労働者が解雇された。ウィーン郊外は、工場が集中していて、急速に増えた貧困層である失職したプロレタリアで満ちていた。怠惰と惨めさの中で、ある者たちは酒浸りや売春婦、さらには泥棒や人殺しに転じた。食料品店、肉屋、パン屋は、略奪された。1847年から1848年にかけての冬、ある民間のスープ調理団が組織された。一切れのパンと一杯の「ラムフォードスープ」(安物スープ)を求めてやって来る数千の飢えた人々を救うためだった。

 労働者たちは追い詰められ、パンを得られるかもしれないどんな運動にも参加する用意はできていたが、マルクス主義者が言う意味の階級意識の感覚が無かった。オーストリアの労働者たちが、19世紀初頭のユートピア社会主義者たちの論文について知識のほんのわずかさえ持っていたという証拠はない。「労働者たちにはリーダーも綱領も理論も無かった。彼らには、自分たちを刺激する、苦しみと絶望しかなかった。」 労働者たちは1848年の革命的リーダーではなかった。彼らはウィーンの路上とバリケードで闘ったが、それはプロレタリア綱領を護るためではなかった。彼らが擁護した大義とは、オーストリアの1848年の急進的過激主義者である下層中間層の大義だったのだ。

 工場システムの登場は、手工職人や家内工業の働き手たちを完全に破滅の淵へ追いやった。工業化され始めた仕事の小親方たちは、自分の店を近代化するのに必要な高価な機械を導入する余裕は無かったし、彼らの商品は機械製の商品には太刀打ちできなかった。徐々に、だが容赦なく、彼らは自分が窮地に陥れられているのに気がついた。多くの者が様々な資本主義的な企業に職を求めざるを得なかった。更にいっそう、彼らの不幸の原因となった工場に職を乞わなければならなかった。運の無い者達は、渡り職人や日雇い労働者のレベルまで落ちぶれた。ある者は乞食になり、ある者は施しの対象になった。特に憐れだったのが多数の渡り職人だった。オーストリアに産業革命が訪れる以前でさえ、渡り職人には充分不平を言う理由があった。彼らが親方職人に簡単になれた時代は、とうの昔に過ぎ去っていた。とても幸運なことに親方という羨望的地位に達した人々は、ほぼいつも、特権上流集団の息子か義理の息子だった。残りの者たちは賃金労働者の薄給に甘んじた。今や彼らは、この乏しい生活でさえ機械に奪われていた。自ずと、渡り職人たちは自分たちがどんどん貧乏になっていくことに怒り、自分たちの悲惨な境遇を作った張本人だと考える者を強く非難した。オーストリアの社会集団の中で渡り職人たちが最も苦しんでいた。彼らが1848年の超過激論者の中核になったのも驚くに当たらない。

 ユダヤ人も過激論者陣営の中では際立った存在のひとつだった。帝国の隅々で彼らは特別の第2級市民を形成していた。彼らはボヘミアとモラビアでは最悪の扱いを受け、他の君主国の地方では侮辱され、虐待された。チロル、カリンティア、カルニオラのような場所では、彼らには寛容の欠片も無かった。ウィーンでは居住するユダヤ人に限り、商売、貿易、産業に従事する権利があった。当局の許可が無いと、市民ではないユダヤ人は主都に3日しか滞在できなかった。全君主国内でユダヤ人には法的権利が無く、不動産を所有できず、特別税を払わされていた。彼らは公職から排除され、裁判官、弁護士、教師、軍士官になることは許されていなかった。ユダヤ人たちは君主国の中で最も抑圧された「政治的賎民」だったのである。

 多くの中間層のより裕福な人々も不満だった。その中のある者達は大きな富を蓄えていたが、裁判所の社会的な集団と高位の貴族階級から自分たちが排斥されていることに気づいていたし、この国の政治生活での彼らの役割は相対的に小さかった。国が借金できる巨大な金貸し達だけが、あらゆる実際の政治的影響力を持っていた。このブルジョワジーたちは、自分たちは頭が良く、専門知識もあり、金もあるのだと感じていたので、当然自分たちに与えられるべきだと感じていた特権から排斥されることに憤った。彼らはこの専制国家を、彼らが相当程度関与できる自由な立憲君主主義政体に取り換えようと切望したのだ。

 よりリベラルな貴族階級のある者たちは、改革の要求を掲げる中間層に加わった。多くの下層貴族は相対的に貧しかったので、彼らと大領主との間には深い裂け目があった。その上、かなり多くの裕福ではない貴族は、国家公務員であり、中間の地位にあった。ヨーゼフ主義的思想の影響下に未だ強くあったこの集団の多くの者は、18世紀以来のオーストリアの政治生活には大いに不幸であり、その多くは、18483月のハプスブルク体制への中間層の反対者側に加わった。

 魔女の大釜が1840年代の首都で沸騰していたにも関わらず、ほとんどのウィーン人は、いつものように陽気でお気楽だった。当時の目撃者は次のように観察していた。

 「ウィーンの人々が永遠に続く陶酔状態の中で大騒ぎをしているように、厳しい観察者の眼には映る。食べ、飲み、お祭り騒ぎをすることは、ウィーン人の3つの重要な美徳であり、喜びだ。彼らにとって、いつも日曜日が、いつもカーニバルの時間だ。音楽がいたる所から聞こえる。数え切れない宿屋が一日中お祭り野郎で溢れている。いたる所、人気のめかし男や着飾った人形たちの群れ。いたる所、日常生活で、芸術で、文学で、優美で機知に富んだおふざけが蔓延している。笑いのタネにできるという理由だけで、ウィーン人にとっての最も重要な世界的イベントが起きているのだ。」

 

ウィーンは未だ生活の魅力と喜びに溢れていた。それにも関わらず、表面の裏では変化が起きていた。1848年も近いころ、古い価値観に対する懐疑的態度と混合されて、問題の新たな重大性が存在していた。ハプスブルクへのリベラルな反対者の一人フランツ・シュセルカによって報告された態度である。

「数年前まで、ウィーンでは、裁判所の馬車が空で通るときでも、恭しく見送られたものだが、今では、とても多くの市民が最高位の人物にさえ然るべき敬意を払うことを拒む。確かに、このことは、もはや人々がかつての人々とは同じではないという重要な印であると見做すことができる。」

 

この変化は、部分的には、1848年革命が勃発する前に10年以上に渡って、国内のリベラルな作家たちが意図的に大衆の中に注入した対抗精神の結果でもある。