16世紀後半イタリア
トンマーゾ・カンパネッラをもとめて 1
倉田 稔
目次
第1章 前提
はじめに
1 1568年の世界
2 ヨーロッパ、16世紀
3 16世紀イタリア
4 16世紀イタリアの経済
5 ナポリ王国
6 カラブリア 1
7 シチリア王国
8 文化状況
9 宗教状況
10 教皇たち
11 まとめ
はじめに
ルネサンス後期の大思想家、イタリア文学史上第一級の詩人、世界3大ユトーピアの一つ「太陽の都」の著者、革命家、トンマーゾ・カンパネッラ(Tommaso Campanella)について記そう。この人は普通、日本では、トマーソ・カンパネラといわれている。彼は、幼名ジョヴァンニ・ドメニコ・カンパネラといい、1568年9月5日、乙女座に、最南端イタリアのカラブリア(Calabria)州のスティナーノ(Stignano)で生まれた。、そしてスティーロ(Stilo)で育った。スティロは、発音がスティーロかもしれない。
ただし、異論もある。Domenico Romeoは、Tommaso Campanella Biografia per immagin. Arti Grafiche Edizioni RC. 2015 の中で、こう書く。トンマーゾ・カンパネッラは、スチィーロで生まれたが、何人かの人はスティニャーノで生まれたという、と。(p.3)、
1 1568年の世界
1568年のヨーロッパをめぐる国際環境は、こうである。
ロシアではイヴァン四世(=雷帝)(1)がモスクワ大公国の大公位にいて、その後、全ロシアのツアーリになった。
西アジアにはオスマン・トルコ帝国があった。(2) そのスルタン(=皇帝)はセリム二世である。ヨーロッパは東と南をオスマン・トルコ帝国に囲まれていた。かつてスペインは、イスラーム帝国の、後ウマイヤ朝に支配されていたのだが、1492年にやっと、イサベラ女王・フェルナンド2世国王がそこから解放した。同年、コロンブスがスペインから新大陸へ向かって旅立つのである。ポルトガルは、新しい航路を開拓することで、イスラーム諸国の背後を廻って、世界貿易に乗り出していた。しかし地中海はまだイスラーム帝国に支配されていた。そこで1571年にレパントの戦いが起きた。スペイン、ヴェネチア、ローマ法王の同盟軍と、オスマン・トルコとの海戦である。レパントはギリシャのペロポネソス半島の西側のくびれた湾である。ヨーロッパ側の総大将はドン・フアン・デ・アウストリアであり(3)、ヨーロッパ側が勝利し、これによってオスマン・トルコ帝国が西地中海の覇権を失い始めた。だが東地中海の覇権は握っていた。オスマン帝国は、トルコを基に、北はブタペストまでバルカン半島を持っていた。
北インドはムガール帝国で(4)、アクバルが皇帝であった。中国は明の時代で、日本では室町時代が終わろうとする。
2 ヨーロッパ、16世紀
この当時のヨーロッパを素描しておこう。
ヨーロッパ大陸で大きな国は神聖ローマ帝国であり、ハプスブルク家が帝位についていた。中欧のハプスブルク家はフェルディナント一世の後、その子マクシミリアン二世が皇帝になっていた。同じハプスブルク家はスペインでフェリペ二世(5)が国王であった。フェルディナント1世はカール5世(6)の弟であり、フェリペ2世はカール5世の息子である。この神聖ローマ帝国は、イタリアの北部に迫っていた。この神聖ローマ帝国とオスマン帝国の間にハンガリー王国が細く入り込んでいた。
イタリアの隣のフランスでは、ヴァロア家のシャルル8世が国王だった。彼は斜視だった。彼は初めてイタリア戦争を行なった。
ヨーロッパの最大の勢力はハプスブルク家であり、同家は神聖ローマ帝国皇帝の座をいつも占めていた。西ヨーロッパの強国はスペインであり、ハプスブルク家のカールはスペイン王カルロス一世となり、1519年には神聖ローマ帝国皇帝としてカール五世となった。フランスの国王フランソワ1世(1494-1547,在位 1515年から)とは、イタリアを奪うべく四回も戦争をした。それは、1521−25年,1526−29年,1536−38年,1542−44年である。イタリアは豊かだと考え、共にここを奪おうとしたのだった。フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチを招いた。フランソワ1世は、教皇クレメンス七世(メディチ家出身)、フィレンツェ、ミラノと同盟し、1426年にカール5世と戦った。カールは勝ち、報復として、1527年に「ローマの劫掠」を行なった。カール五世は、教皇の監禁、ナポリ王国の監督、メディチ家のフィレンツェ復帰をさせ、カンブレーでの和約で、ブルゴーニュ公国をフランスに割譲し、イタリア支配を確保した。サルディーニア、シチリア、ナポリの三王国をハプスブルク・スペインの所領とした。次いで、1551年にフランスのアンリ2世国王(1519-59, 在位 74年から)は、またも、カール五世と戦い、負け、カトー・カンブレジの和約を結んだ。一方、カールは世界最大の植民地帝国を築いた。1554年、彼は息子フェリペに国をすべて譲った。1556年から1599年まで、スペインではそのフェリペ2世(1527−1598)が国王であった。フェリペは神聖ローマ皇帝ではなかったが、西欧で最大の力を持っていた。また彼はハプスブルク家の人である。その上、1560年に、スペインとポルトガルが合同し、それは1640年まで続いた。このフェリペ2世が、先ず、ポルトガル国王をも兼ね、フェリペ一世を名乗った。彼は父カール5世皇帝以来、世界を植民地化していたスペインの黄金時代を築いた。彼は、父ほど有能ではなかったが、勤勉に政務をとった。その息子のフェリペ3世(1578−1621、在位 1598−1621)が跡を継ぎ、ポルトガル王としてはフェリペ2世であり、カンパネッラと同時代人である。フェリペ3世は、病弱で、怠惰王と言われ、その23年の治世で、主席大臣レルマ公爵とウセダ公爵が政務をとったが、2人とも力不足であって、スペインは衰退し始める。1609年に、スペイン全土からモリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)を追放し、これは27万人で、ほとんど農民だったので、スペイン農業は大打撃を受けた。かつてイサベラ女王、フェリペ二世が、ユダヤ人を弾圧し、ユダヤ人を改宗あるいは追放して以来、スペインは商工業で衰退したのだが、それに追い打ちを掛けた。フェリペ三世の後、息子のフェリペ四世が跡を継いだ。(7)彼もカンパネラの時代である。1565年、スペインはフィリピンを征服し始める。
ヨーロッパ内部では、反宗教改革の先兵イエズス会が、1540年に認可された。この派は最も激しくプロテスタンティズムと戦った団体で、イグナチウス・ロヨラを指導者とし、フランススコ・ザビエル(8)も副指導者として加わっていた。
ヨーロッパの,海を隔てた北に、イングランド王国があり、当時はアイルランドも含んだ。イングランドつまり英国半島南部では、1558年から1603年まで、エリザベス一世(9)の治下であった。カトリックのフェリペ2世とプロテスタントのエリザベス女王は戦い合った。1570年に教皇ピウス五世はエリザベス一世を破門した。1588年にスペイン無敵艦隊がイギリスに敗北した。これ以降スペインはイギリスに勝てなくなった。1600年にイギリスで東インド会社が設立された。(10)
1568年から、80年戦争が始まった。スペインに対するネーデルランドの反乱である。1581年にオランダが独立宣言を出した。これでフェリペ二世の統治権を否定したのだった。ウィレム・ファン・オランエ(11)の活躍によるものだった。北ネーデルランドはプロテスタント国になって、スペインから独立することになる。そしてオランダ(日本風の発音)が作られるだろう。
1584年、スペイン国王フェリペ二世は、日本から来た天正遣欧使節を歓待した。これは,九州のキリシタン大名の大友、大村、有馬が、四名の少年と随員を派遣したものである。
フランスはヴァロア王朝で、シャルル9世が国王であった。1572年、フランスでサン・バルテルミーの大虐殺が起きた。カトリックによるユグノー(=フランスのカルヴァン派)弾圧である。1589年にはフランスでブルボン王朝(12)が成立した。1598年にそのブルボン家のアンリ四世は、ナントの勅令、つまり寛容令を発布し、信教の自由を認めた。これは後年のルイ14世が破棄する時代まで続く。
ヨーロッパの中央に神聖ローマ帝国があり、その東はポーランド王国、その西はフランス王国で、そしてその西はスペイン王国であり、ポルトガル王国がその西にあった。神聖ローマ帝国の東部はオーストリア系ハプスブルク家で、マクシミリアン2世が皇帝であった。スペイン系ハプスブルクはスペインと東フランス、ネーデルラント、ナポリ王国をもっていた。
独自にスイスが存立していた。北ヨーロッパにはデンマーク王国、スウエーデン王侯、ノルウエー王国があった。
1600年の少し前、ヨーロッパは力の点で東洋を追い越した。(13)
当時の地中海諸国の人口は、1600年ころ、スペインが800万人、ポルトガルが100万人、フランスが1600万人、イタリアが1300万人で、計3800万人であった。1500年から1600まで、地中海の人口はたぶん2倍になった。3000万から3500万人の人口が6千から7千万人となった。(14)
3 16世紀イタリア
かつてフランク王国は 774年からイタリアの北半分をとっていた。
イタリアでは大きく3つに分かれていた。中部がローマ教皇領であった。北イタリアは、幾つかの共和国などを除き、神聖ローマ帝国、つまりハプスブルクが支配していた。南イタリアは、ナポリ王国であって、スペインの支配下にあった。このスペインはやはりハプスブルク家の支配である。
カンパネラが生まれた1568年のころには、イタリアの北部では幾つかの共和国や公国が割拠していた。有名な国では、ヴェネチア共和国(15)、ジェノワ共和国、トスカナ大公国、ミラノ公国、サヴォイア公国、パルマ公国、モデナ公国などである。ヴェネチアは、本島以外に、本土とアドリア海東岸とクレタ島をもっていた。ジェノアはコルシカ島をもっていた。
イタリアの中部はローマ教皇領であった。
イタリア南部はナポリ王国であって、シチリア王国、サルディニア王国と共に、スペインの支配下にあった。当時のスペインはハプスブルク・スペインである。
北イタリアは、その北部は、東からヴェネチア共和国、ミラーノ公国、サヴォイア公国と並んでいた。ヴェネチア共和国の南はフェラーラ公国、マントヴァ公国があり、マントヴァ公国の南はモーデナ公国である。ミラーノ公国の南はパルマ公国である。そしてジェノア共和国もあり、同国はコルシカ島を持っていた。教皇領の北西にはフィレンツェ公国があった。
北イタリアは、ヴェネチア共和国以外は神聖ローマ帝国の領域であった。フィレンツェ(16)は、カール五世の保護下で、1559年にトスカーナ大公国として成立した。1519年にコジモ一世がフィレンツェの長になり、大公になった(17)。フィレンツェはメディチ家(18)が主導権を握っていた都市であった。フィレンツェは、シェナ、ピサを併せた。
16世紀のイタリアは、こうして、南と一部の北は、ほぼスペイン王国に支配された。
1504年に、ナポリ王国はアラゴン王国に帰属した。その国王はフェルナンド二世である。その後、その孫であるカール5世が、1516年にアラゴンの国王になった。彼は、イサベラ女王とフルナンド2世の子、フアナ(19)の子だからである。彼はカスティーリア国王でもあったので、スペイン国王である。カールは、スペインではカルロスであり、ハプスブルク家である。彼は神聖ローマ帝国皇帝として戴冠した。
ナポリ王国とならび、シチリア王国、サルディニア王国は、同時にこのスペイン王国の属国になった。
カール5世の登場により、イタリアは彼のものになった。ミラーノ公国は1530年にカールがスフォルツア家に封土した。同年フィレンツェ共和国を降伏させ、メディチ家を復帰させた。1534年にボローニア同盟で、ヴェネチア以外の同盟を作った。南のサルディニア、シチリア、ナポリの3王国は、スペインの属国になった。だから教会領とヴェネチア共和国以外は彼のものとなった。1535年にミラーノ公国はハプスブルクの所領となった。フィレンツェ公国は後にトスカーナ大公国になる。なお、ジェノア共和国などの独立国はカールの意向を無視できなかった。
フランス王フランソワとカールは戦い、1547年にアンリがフランス王を継承した。また彼はカールと戦うが、大敗した。1549年にフェリペ2世(カールの息子)とカトー・カンブレ条約を結んだ。
15世紀末から1559年まで、イタリアの近隣列強による「イタリア戦争」が行なわれていた。前述したように1516年にカルロス(=カール)がスペイン国王になってから、イタリアでは五カ国状態は変わり、カールが覇権を握った。1535年にミラノ公国はハプスブルク家の所領となった。
スペインは、3王国には副王を送り、公国には総督を派遣した。
1551年にフランス王アンリはカールと戦い、大敗した。カールは息子フェリペ二世に、東欧以外は総て、譲渡した。1559年、カトー・カンブレジの条約でイタリア戦争は終結した。カトー・カンブレジの条約(Paz de Cateau-Cambre'sis)は、イタリア戦争でヴァロア朝とハプスブルク家が戦い、ハプスブルク家が勝ち、その和平の条約である。フランス北部ノール県の町カンブレーで結ばれ、両王は出席しなかった。これにより、フランスはイタリアへの権利を放棄し、ロレーヌを得た。スペインは、ナポリ、シチリア、サルディニア三王国、トスカーナ西海岸を得た。もともとこの三王国はスペインが持っていたのだが。フィレンツェ公国はシエナを得た。この際、スペインのフェリペ2世は、フランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚することになった。(20)
1562から98年までフランスではユグノー戦争が断続的に行われていた。
対外的にはオスマン帝国は1571年のレパント沖海戦でヨーロッパ諸国に負けた。
フェリペ二世は1561年にマドリッドを首都にした。スペインではイタリアを「イタリア諮問会議」が検討した。カールは各国から会議員を選出したが、フェリペはカスティリアの人びとを選んだ。(21)
1559年、スペインのイタリア支配が確立した。イタリアで覇権を確立したスペインは、16世紀末以降没落し始める。
1581年にオランダがスペインからの独立宣言をし(22)、1588年にはイギリスがスペイン無敵艦隊を破る。(23)
1572年、フランスで聖バーソロミューの惨劇がおきた。
1600年にフィレンツェで、ブルボン家のアンリ四世とトスカナ大公フランチェスコ1世の娘マリーが結婚した。アンリ4世は再婚であって、初めはマルグリッド・ド・ヴァロア(24)と政略結婚をしていた。
1530年以後平和が回復したので、イタリアでは人口が増大し、16世紀末にはヨーロッパで最高の人口密度になった。当時の平均寿命は30から35才だとも言われる。病気やペスト、慢性的栄養失調が原因である。都市は食料不足と疫病に悩んだ。疫病は都市に起きた。
16世紀イタリアは混乱の世紀であり、イタリア戦争で外国勢力がイタリア侵攻した、半島は焦土となった。16世紀半ばから反宗教改革の嵐が襲った。大航海時代のさなかであった。
4 16世紀イタリアの経済
14世紀に、他国でもそうだったが、イタリアでペストが大流行した。これで人口が三分の一も減ったのだった。同時に職人も、あるいは労働者が減少し、そのため、賃金が高くなった。
イタリアでは毛織物生産が盛んで、フィレンツェでは、1527年に19000反だったが、1572年には3万反に増えた。
フィレンツェ、ナポリ、コーモでは、絹織物が生産され、カラブリアで生糸生産が増大した。
フィレンツェの銀行がトスカナ大公に大金を融資し、ジェノアのサン・ジョルジュ銀行らが、スペインの財政を支配した。
1530年代以後、ヴェネチアは大量の香辛料取引をした。ヴェネチアは政策を転換し、1573年、自国商品を外国船に乗せることを許可した。
16世紀初頭に、主要な通商路が地中海から大西洋へ移り、イタリアは経済危機に見舞われていた。その後、大航海時代で、一層危機が増した。
北と中部のイタリアは、16世紀には繁栄していたが、17世紀には衰退する。17世紀初めにはヨーロッパの先進であったが、末には後進になる。ヴェネチア、フィレンツェの繊維工業は17世紀に減少した。16世紀後半に 英仏蘭がイタリアを追い抜いて、市場をうばいとったからである。イタリアの衰退したその原因は、革新の排除、高い賃金、重税であった。英仏蘭三国の太平洋商業の発展があったからだ。
ヴェネチアで貴族が地主になった。商・工・サービス業から農業へ移った。フィレンツェやトスカナで、商業者・銀行家、織元が土地貴族になった。一方で、英仏蘭三国から工業製品が輸入された。そこで海港都市リヴォルノが発展した。トスカナ、ヴェネチアで、ユダヤ人に商業特権を与えた。
大航海時代が始まっていた。コロンブスよりもヴァスコダ・ガマのインド航路発見が、ヴェネチア共和国にとっては痛手であった。コロンブスはカリブ海沿岸を発見しただけで、インドを発見したわけでなく、しかしガマはインド航路を発見したからである。ヴェネチア商人はアラビア(つまりオスマン・トルコの)商人から東洋の商品を高い値で買っていた。それがポルトガルがより安く大量の商品を直接東洋から買い入れるからであった。それでも遠洋航海のため費用がかかり、ヴェネチアが恐れていたほどではなかった。これを機会にヴェネチアでは、ガラスを門外不出の産業とするために、ガラス職人をムラノ島に集め、ガラスで生きようとした。
イタリアでは1530年以後、平和が回復し、人口が増大し、経済が回復した。毛織物がフィレンツェ、ペルガモで、絹織物がナポリ、コモで盛んとなり、カラブリアで生糸の生産が増大した。つまり養蚕である。ジェノアのサン・ジェルマン銀行はスペインの財政をにぎるほどだった。しかしイタリア経済はその後没落することになる。
南イタリアとシチリアでは16世紀に人口が増加して内需が拡大し、北・中部都市へ、穀物、ワイン、オリーブ油、生糸、羊毛などの移出が順調で、活気があった。だが17世紀に変化が起きた。1611〜12年に冬の寒波で羊毛生産が大打撃を受けた。その上、北イタリアで生糸生産が増え、カラブリアからの生糸移出は17世紀前半に落ち込んで、重要性を失った。(25)
16世紀ヨーロッパに価格革命が起きた。
こうしてイタリアでは、北では、もちろん農業が主ではあるが、諸都市を中心として、商工業、あるいは金融業が進んだ。中部はローマ教会領だったので、ここも主に農業が中心であり、教会は封建領主と違いがなかった。南部は農業が中心で、封建的搾取に呻吟していた。その上、スペインに税金を払っていた。
5 ナポリ王国
ナポリ王国は、イタリアの南部に位置し、面積はイタリアの三分の一を占めていた。
こうしてカンパネラが生まれたイタリアの南端カラブリアは、ナポリ王国にあり、それがスペインの支配にあった。当時、カラブリアは、スペイン政府の支配のもとに苦しんでいたし、最も貧しかった州であった。都市ではナポリが繁栄していた。だが叛乱が繰り返された。
三〇年戦争(1618-48)のため、財政で困っていたハプスブルクは、税が必要だった。ナポリ王国では、税は、封建諸侯(Baron)だけの一般議会と、市会とによって承認されねばならなかった。ナポリ市会は、六人の役職者(Seggi)からなり、一人だけが民衆代表で、5人が貴族だった。教会は税を免れた。スペイン時代に直接税は払われなかった。そこで財政負担は、商人、農民、消費者にかかった。スペイン政府は、お金を生産的企業からとり、社会層の上の層に配分した。だから不正と不公平を促した。こうして南イタリアは、この封建的収奪とスペインの支配に会い(26)、またトルコの侵入で脅かされ、教会の僧は怠惰であった。
ナポリ王国は13世紀から19世紀まであった。13世紀末、革命でシチリア王国が二分され、シチリアではバルセロナ家、イタリア南部はアンジュー家に支配された。共にシチリア王国と称した。このナポリ王国は1436年まで、カペー家の分家アンジュウ家の、1442年までヴァロア・アンジュー家の支配下に置かれた。だが南イタリアはナポリ王国と呼ばれるようになる。
ナポリでは15世紀にスペイン人たちによるアラゴン王朝がナポリ王国を支配し、そこにナポリ人文主義が生じた。アルフォンソ五世、その庶子フェルディナント一世と続いた。イタリア戦争が起き、フランス王ルイ12世が短期に支配した後、1504年にアラゴン王フェルナンド二世に征服された。カスティーリア・アラゴン連合王国(スペイン)ができていたので、ナポリ王国はそこへ併合された。このカスティーリア(スペイン中部)の女王はイサベラであり、フェルナンド2世と結婚したから連合王国になっていたのであった。ナポリ王国はその後二世紀間は王国としての地位も失い、ナポリ総督管轄区としてスペインから派遣される総督=副王が治めた。
フランスのヴァロワ王朝とハプスブルク(スペインとオーストリア)との戦争が16世紀前半に行なわれ、1559年にカトー・カンブレの和約により、このイタリア戦争は終わったのだが、スペインが南イタリアを領有し、これは、ナポリ、シチリア、サルディニアであった。オーストリア・ハプスブルク家は、ミラノ、トスカーナ西南部を譲り受けた。他方、フランスはロレーヌを受け取った。スペインのフェリペ2世はフランスの王女と結婚した。マドリッドから南イタリアへ副王、つまり総督ドン・ペドロ・トレドがやってきて、南イタリアを支配した。イタリア戦争でフランスに味方した諸侯のほとんどを、死刑か追放にし、財産を没収して、アラゴン王朝に貢献した者に分配した。
1576年に、イタリアはペストにより大被害を受けた。特権階級は重税を課した。
16世紀、イタリアは前述のイタリア戦争と反宗教改革で混乱していた。ペトラルカ、ボッカチオとマキアヴェリが出た。そして大航海時代の最中だった。だからアメリカやブラジリア(現在のブラジル)が知られてきた。
カンパネラが生まれた頃で言えば、1527年に盛期ルネサンスの中でマニエリスムが生まれた。1564年にミケランジェロが没した。1567年にメディチ家のコジモ一世が、教皇ピウス五世からトスカナ大公の称号を授与された。フランスでは1560年、前王妃カトリーヌ・ド・メジチ(27)が最高権力をえていた。彼女はイタリアのメディチ家の出である。1564年に、ガリレオ・ガイレイが生まれている。だから彼はカンパネラより4才上である。
6 カラブリア (1)
スティロのあるカラブリア(Calabria)は、紀元前にはギリシャの植民地だった。ピタゴラスも晩年カラブリアのクロトーンに住んだことがあり、ここでピタゴラス学派を作った。カラブリアはもちろんその後、ローマ帝国に入った。その後、ビザンチン文化の影響を受けた。11世紀にノルマンディー人の支配を受け、14世紀にアラゴン(スペイン)の支配を受け、同世紀にアルバニア人が移民してきた。時にはアフリカからイスラーム帝国が襲撃しに来た。
カラブリアの州都は今、カタンツァーロである。この州は、長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあたる。気候は温暖で、農耕・居住の面積が少ない。中央部に山がある。野生動物が多い。冬と春に、羊飼いと家畜の群が狭い沿岸地方に集まった。移牧である。古代からワインが生産され、16世紀にはチーズが作られた。ここには人はあまり住んでいない。カラブリア語はラテン語から派生した。15−16世紀に、ギリシャ語からラテン語へ急速に変わった。
ここでは結婚は親が決め、純潔を大切にする。
カラブリアは南部イタリアなので、地中海性気候に属する。これは、冬に雨が降るが、夏は日差しが強く、乾燥する気候である。ただし16世紀には主に秋と春に大量の雨が降った。我々の知る現在の地中海性気候とは少し違うが、気候は変化したのだろう。またここは地中海文明の中にある。オリーブやブドー、柑橘類が栽培され、牧畜が多い。小麦がとれる。羊毛がとれ、雄羊や雌牛の皮を作る。地中海は1番よい交通路であった。南イタリアに馬車はほとんどなかった。地中海は大変よい交通路だった。
カラブリアの気温は16世紀に、1月が摂氏10度ほどであった。馬車は南イタリアでは16世紀には広まっていない。
現在、カラブリアは、北から、コゼンツア、クロトーネ、カタンツァーロ、ヴィボ・ヴァンツイア、レッジョ・カラブリアの5県からなる。
7 シチリア王国
カラブリアの西隣にシチリア島がある。かつてノルマン王国ができて、シチリアと南イタリアを領有した。ここではビザンチン美術が入った。
12世紀にはシチリアと南イタリアとを有したシチリア王国があった。
北ヨーロッパのノルウエーを中心とする、ヴァイキングとして知られるノルマン人の一部が、8世紀にヨーロッパにやってきて、北西フランスにノルマンディー公国を作った。11世紀に再びヨーロッパに侵出し、シチリア伯ロドリゲスが、ノルマン・シチリア王国を作った。1071年、ルッジェーロ1世はシチリア全島を占領した。1130年、その息子ルッジェーロ2世はノルマン朝シチリア王国の王になった。1139年、ナポリ王国を彼は奪った。1189年、シチリア王グリエルモ2世は後継者がなく、断絶し、1194年にノルマン・シチリア王国はなくなった。(28)
シチリア王国がアンジュー家時代、1282年に、兵の一団が住民女性を暴行し、住民が暴徒化し、シチリア全土に広がった。4000人以上のフランス系住民が殺された。シャルル・ダンジューは東ローマ帝国遠征を計画していたが、それがくるった。3月30日に発生し、市民が教会前で夕べの祈りを行なうために集まっていたので、シチリアの晩鐘といわれる。この時、アラゴン王国のペドナ3世がシチリアに上陸し、シチリアの半分を取った。
8 文化状況
1494年にロレンツオ・ディ・メディチが死に、15世紀フィレンツェ・ルネサンスが終わった。例えば、ミケランジェロ(29)はメディチ邸に住んだ。だがパトロンのロレンツオを失い、教皇ユリウス2世に拾われる。
同年、フランスのシャルル8世がイタリア侵入をしたのである。
マニエリスムが1520頃から始まり、1600まで続いた(Ploetzによる)。後期ミケランジェロからバロックが始まった。
ヴェネチアでは、画家ヴェロネーゼ、ティントレット、ティチアーノが活躍した。
芸術では、絵のカラヴァッジョ(30)、建築・彫刻のベルリーニが活躍した。16世紀の詩人たちは淑女を理想化した。「君主論」を書いたマキアヴェリが出た。
オペラがペリやモンテヴェルディ(1567−1645)によって作られた。
画家、彫刻科、金細工師、音楽家ヴェンヴェヌート・チェルリーニ(1500-1571)は、嬉々として殺人を犯し、法王庁をこき下ろした。彼はルネサンス後期のマニエリスムの代表者とされる。
文化的に言えば、14世紀にフィレンツェでルネッサンスが盛期を迎えていた。15世紀にはそれはヴェネチア、その他に移り,その後イタリア以外のヨーロッパに広がってゆく。こうして16世紀はルネサンス後期である。
9 宗教状況
アヴェロエス(イブン・ルシッド)は、アリストテレスの著作を初めてラテン世界に紹介した。スペイン生まれの回教徒である。1277年に異端とされた。
フィレンツェではロレンツオの後、サヴォナローラ独裁が始まった。だがその後サヴォナローラはシニョリア広場で焼き殺される。サヴォナローラはカトリック内の宗教改革者であった。
そのころ法王庁ではボルジア家の支配が始まった。
1400年代はクワトロチェント、1500年代はチンクエチェントと呼ばれるが、1500年代は反宗教改革の時代だった。カトリック改革の第2期である。ニコデミズムが広がった。ニコデミズムは、カトリックを装いながらも、心では異端を抱く考えである。
異端弾圧が始まった。異端者を火刑に処し始めた。それを逃れるために亡命する人が出た。これでルネサンスは終わった。
1516年、ポムポナッツイ(Pietro Pompomazzi (マントヴァ1462 - ボローニア1515)が、『霊魂不滅論』(1516年)で、霊魂不死説を否定した。彼はパドワ大学で医学と哲学を学び、同大とボローニア大で哲学を教えた。彼はアリストテレス主義者だが、これは衝撃的であった。
16世紀のイタリア人は神への反抗はしなかった。16世紀イタリアは外国支配されており、人々はローマ教会を倒そうとは思わなかった。新宗派が立った。カトリックの福音主義への傾向が起きた。
パウルス3世(1534-49)で、カトリック改革の第2期、かつ反宗教改革が始まった。
1540年にイエズス会が認可された。弾圧・処刑が始まった。亡命か、改宗を装いながら、心では異端を抱くニコデミズムか、に分かれた。
1542年にローマに異端尋問所が置かれた。これで、それまで改革に一役買っていたカトリック福音主義は終わった。ローマ教会に対して,聖俗から批判が広がっていた。それがカトリック改革の形をとった。第5回ラテラノ公会議(1512−7年)が始めであった。ちなみにラテラノとはヴァチカンの一部である。教皇レオ10世は、エラスムス(c.1466-1536)(31)を讃えた。しかしローマ教会は、ルター問題で対立へ向かうのだった。エラスムスは大人文学者であり、各種聖書を校訂吟味し、愚神を創造し、平和を訴えた。ルターはエラスムスを学んだ。
ファン・デ・ワルデス(Juan de Valde’s, c.1491-1541)のワルデス派ができる。彼は1530年ころ、スペインからイタリアに来て、ナポリに住みついた。そしてイタリア各地に共感者を持った。
イタリアでは宗教改革(プロテスタント)はほとんど起こらなかった。カトリック改革のかたちをとった(32) ワルデス派福音主義やカプチーノ会であった。カプチーノ会は、フランチェスコ会(33)から分派した教会刷新運動で、1528年に教皇クレメンス7世の認可を受けた。
教皇パウルス3世(在位 1534−49)は検邪聖省を設置した。教皇パウルス4世(在位 1555−59)は、禁書目録を作成した。
異端審問所は、プロテスタントの浸透のおそれがなくなった1580年代から、審問の対象を、哲学・科学、呪術・魔術に向けた。
1545−63年に断続的に開かれたトレント(トリエント)公会議で、教会に聖書の解釈権があると確認された。トレント会議で、時代がルネサンス期と反宗教改革期に分かれる。1545−63年に会議は繰り返された。トレントは、当時はトリエントといい、神聖ローマ帝国の自由都市で、南チロルにあった。パウルス3世が1545年に招集し、断続的に続き、ピウス4世で終わった。カトリックにとっては重要な会議である。初めはプロテスタントとの妥協点をさぐろうとしたが、糾弾に終わり、プロテスタントの主張を排斥することになった。この会議から反宗教改革が始まった。またウルガータ聖書を公式の決定版とした。ウルガータ聖書とは、ヒエロニスム(c.340 - 420)が、教皇ダマスス1世の依頼で、4世紀末から5世紀初に翻訳した聖書であり、ギリシャ語新約聖書をラテン語にし、ヘブライ語旧約聖書をラテン語にしたものであった。
1570年始め、エラスムスらの本が禁止された。この世紀後半にはジョルダーノ・ブルーノが活躍する。ブルーノは、ナポリ出身の神学博士で、地動説を正しいとし、亡命生活を続けた。カトリックを徹底的に批判したが、プロテスタントにはならなかった。1600年に火刑にされた。(34)
10 教皇たち
カンパネッラが生まれてからのローマ教皇は、16世紀に限れば、次である。
ピウス5世(在位 1566―1572)は、ミラノ近村で生まれ、ドミニコ会に入る。異端審問で活躍し、エリザベス1世の破門をし、レパント海戦に軍を派遣した。
グレゴリウス13世(在位 1572―1486)は、ボローニア生まれで、ボローニア大学で法学を治め、学位を得た。そこで教えた。教会改革をし、禁書目録の委員会を任命す。グレゴリオ歴を採用した。これまでユリウス暦であって、その矛盾が解決された。グレゴリ暦は急速に広まっていった。彼は、イエズス会の教育事業後押しし、エリザベス1世の政権転覆を支援する。72年、パリのサン・バルテルミーの大虐殺を賛美した。愛人との間に子供を作った。日本からの天正使節団を1585年に謁見した。
シクストウス5世(在位 1585―1590)は、イタリア生まれで、庶民出身である。フランシスコ会に入る。同会の教皇総代理になる。教皇になると、建築事業に邁進し、宮殿や街路を造った。教皇領の治安が悪かったので、厳罰で臨み、立て直した。財政をたてなおし、貯まった資金で公共授業をおこなった。イエズス会には冷たかった。カトリックでは偉大な教皇とされている。
ウルバヌス7世(在位1690)は、教皇になってすぐ病死した。
グレゴリウス14世(在位1590―1692)は、短期間の教皇だった。フランスのアンリ4世を破門した。
インノケンティウス9世(在位1591)も、短期間の教皇だった。
クレメンス8世(在位 1592―1605)は、アンリ4世と和解し、破門を解除する。エステ家の継承者不在で、フェッラーラを教会支配領に加えた。1592年、ロベルト・ベラルミーノらの委員会にウルガータ訳聖書改訂版を発行させた。1699年、ベアトリーチェ・チェンチ事件で彼女らを処刑する、また1600年、ジョルダーノ・ブルーノ処刑で、評判を落とす。カンパネッラにとって16世紀ではこの人が最も係わりがつよい。
11 まとめ
16世紀イタリアでは4つの点が重要である。貿易、政治、宗教、文化である。
16世紀から商業革命が、大航海時代が始まった。コロンブス(35)やヴァスコ・ダ・ガマ(36)の活躍によってであり、それは15世紀末のことだった。
北イタリアではすでに都市共和国が出来ていた。これらはその後少し変質した。国家規模では近代民主革命は、オランダ、イギリスが早いが、都市の規模では北イタリアが早い。
宗教ではカトリック改革が出たが、カトリック自体はイタリアでは変わらない。ヨーロッパではプロテスタンティズムが発生した。そのためカトリックの側で反宗教改革が発生した。
ルネサンスは14世紀にフィレンツェで最盛期を迎え、15世紀にイタリアに広まり、16世紀にはイタリアからヨーロッパ各国へ広まった(37)。
(1) スクルインニコフ『イヴァン雷帝』成文社;アンリ・トロワイヤ『イヴァン雷帝』中央公論社。
(2) タミム・アンサーリー『イスラームから見る「世界史」』紀伊國屋書店。
(3)西川和子『スペインの貴公子 フアンの物語』彩流社。
(4)ベルニエ『ムガール帝国誌』一,二、岩波文庫。
(5)西川和子『スペイン フェリペ2世の生涯』採流社。
(6)江村洋『カール五世』講談社。
(7)佐竹謙一『浮気な国王フェリペ四世の宮廷生活』岩波書店。
(8) 宮崎正勝『ザビエルの海』原書房。
(9) 青木道彦『エリザベス1世』講談社。
(10) 羽田正『東インド会社とアジアの海』興亡の世界史15,講談社。;増田義郎『大航海時代』世界の歴史13,講談社。
(11) C・ヴェロニカ・ウエッジウッド『オラニエ公ウィレム』文理閣;拙稿「近代の曙ーーーウィレム・ファン・オランエ」(『松山大学論集』21巻4号)
(12) 長谷川輝夫『聖なる王建ブルボン家』講談社。
(13) ポール・ケネディ『大国の興亡』上。
(14)『地中海』2,91ページ。
(15)マクニール『ヴェネチア』講談社学術文庫;塩野七生『海の都の物語』5冊、新潮文庫。ブローデル『ヴェネチア』岩波書店。
(16) 高階秀爾『フィレンツェ』中公新書;『フィレンツェ』ATS Itaria Editrice.
(17) マッシモ・ウィンスピア『メディチ家』リヴォルノ sillabe 2000
(18) 森田義之『メディチ家』講談社;『メディチ家』世界文化社。
(19) 西川和子『狂女王フアナ』彩流社。
(20) この結婚をきっかけの1つとして、フェリペ2世の息子ドン・カルロス王子 の喜悲劇がおこり、後年、フリートリヒ・シラーは『ドン・カルロス』を 書き、それに基づいてヴェルディはオペラ『ドン・カルロス』を作曲する。 だがこれらは史実ではない。(西川和子『オペラ ドン・カルロスのスペイ ン史』採流社。)
(21)『イタリア史』では、斉藤寛海は書く。(250ページ)代官は「しかし、フェ リペの時代にはもっぱらカスティーリヤから選出され、短い任期で任地を頻 繁に交代するようになった。」同じ書で、北原敦はこう書く。(272ページ)「フェリーペ二世はスペイン国王即位前後の1555−56年に、ミラーノ公国、 ナポリ王国、シチリア王国にかんして、あらたなイタリア諮問会議を設置した。 メンバーはスペイン人三名とミラーノ、ナポリ、シチリア各国の代表一名ず つからなる六名で・・・」とある。矛盾していないのだろうか。
(22) Peter Geyl, The Revolt of the Netherlands 1555-1609. London.
(23) 石島晴夫『スペイン無敵艦隊』原書房。
(24) 桐生操『王妃マルグリット・ド・ヴァロア』PHP文庫。アレクサンドル・ デュマの歴史小説になった。『王妃 マルゴ』文芸春秋。
(25)『イタリア史』山川出版、304ページ。
(26)プッリャ州に、近年世界遺産になったアルベロベッロのトウルリ(トウルッロ の複数形、伝統的な家屋群)があり、16世紀半ばから開拓農民によって建 てられた。
(27)桐生操『王妃カトリーヌ・ド・メジチ』新書館。
(28)高山博『中世シチリア王国』講談社。
(29) 羽仁五郎『ミケルアジェロ』岩波新書。
(30) 『カラヴァッジョ』西村書店。
(31)シュテファン・ツヴァイク『エラスムスの勝利と悲劇』みすず書房。;『エラスムス』世界を作った人々12,平凡社。
著作として、エラスムス『痴愚神礼賛』岩波文庫、エラスムス『平和の訴え』岩波文庫。
(32) 清水純一『ルネサンスの栄光と頽廃』岩波新書、44ページ。
(33) 13世紀初めにアッシジの僧フランチェスコによって始められた、清貧と無所有を旨とする会派。
(34) ブルーノの著作に、『無限、宇宙および諸世界について』清水純一訳、岩波 文庫、がある。
(35) 『コロンブス航海誌』平凡社。
(36) 生田滋 『ヴァスコ・ダ・ガマ』原書房。
(37)西本晃二『ルネサンス史』東大出版。
(参考文献)
『南欧史』山川出版
『イタリア史』山川出版
藤沢道郎『物語イタリアの歴史』{I}、II、中公新書。
フェルナン・ブローデル『地中海』五冊、藤原書店
John M. .Headley, Tommaso Campanella and the transformation of the world. Princeton Univ. Press 1997
Paul Lafargue, Thomas Campanella, in: Kautsky・Lafargue, Vorläufer des
neueren Sozialismus, 3. Band. Stuttgart/Berlin 1922, S.62-120.
小森谷賢二・小森谷敬子『ナポリと南イタリアを歩く』新潮社
森田鉄郎『中世イタリアの経済と社会』山川出版。
モンタネッリ、ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』上下、中公文庫。
ブレンダ・ラルフ・ルイス『ローマ教皇史』原書房。
追記 カタカナ表現のいくつかを、太田浩一先生に教わった。