チベット「暴動」考
               渡邊理
 
はじめに
 
 2008年3月14日、チベット自治区の省都・ラサにおいて、中国政府のチベット政策に抗議する僧侶や市民に対し、武装警官や組織された治安部隊が武力弾圧を行い、多数の死傷者を出した。その後、デモは甘粛省や四川省アバ県などのチベット族自治州にも拡大し、治安部隊による弾圧が繰り返された。現地での外国メディアの取材は大きく制限されていて、真相究明には程遠い。死傷者の数も、中国政府の発表で市民18人と警察官1人の計19名の死者と多数の負傷者(新華社、3月21日時点)に対し、インド・ダラムサラにあるチベット亡命政府はラサや四川省や甘粛省などでのデモ参加者の死者を約 130人と発表しており、大いに食い違っている。
 本稿では、チベット「暴動」にいたるまでの原因や背景を、特に歴史に注目して、考察を試みる。チベットの歴史は、ミッシング・リンク(missing link)というべき、記録が断片的だったり、ほとんど残されていない部分は多い。故に、通史として連続して論ずることはできない。第1章では、主要なトピックたるチベット史を考察する。(*)
 
 (*)石濱裕美子編著『チベットを知るための50章』(明石書店、2004年)
 
1.中華人民共和国建国前のチベットの状況
 
 古来よりチベット系の民族をさす単語に「羌(きょう)」と「?(てい)」がある。いずれも羊や山羊等の家畜の角を表す象形文字に由来する漢字であり、チベット系の民族が牧畜を主な生業としてきたことを示す。漢民族とチベット系住民との接触は、殷(BC16世紀〜BC1023)の時代にまで遡(さかのぼ)ることができる。殷では、神権政治がなされた。それは甲骨文字の解読や発掘調査などから当時の様子が徐々に解明されつつある。古代社会でも農業が重要であり、殷の神権政治においても例外でない。例えば、豊作の祈願や感謝、雨乞いや日照の回復、時には日食への恐怖など多岐に及ぶ。また、王の後継者や戦争の時期を決めるときにも卜占は重要であった。それは亀の甲羅を用いるのみでなかった。沢山の奴隷が卜占の生贄として用いられてきた。それが西方の羌や?の民であった。数十人という単位で、都合のよい占いの結果が出るまで、生贄の儀式は繰り返され、多くの犠牲者が出た。また、占いの他に人柱が、さかんに行われていた。それが数世紀も続いてきたのである。河南省の殷墟をはじめとする数箇所で、何次にも及ぶ考古学調査から、儀式のために犠牲となった夥(おびただ)しい人骨や動物の骨が出土している。そして、今も考古学調査は継続されている。ちなみに、渡邊の「邊」の字は、白川静『字統』によると、漢民族が異民族との境界線に生贄の首を祭る髑(どく)髏棚(ろだな)を設け、侵入して来る邪悪を祓う呪術上の意味がある。中米に栄えたアステカ帝国も真っ青な血塗られた歴史である。ちなみに、羌はもともと、山西省に居住していたが、上記のような迫害を逃れるために、西方へとのがれていったのである。
 さしもの殷も牧野の戦い(紀元前1023年)に西の新興勢力(のちの周)との争いに敗れ、滅亡した。殷周革命として名高い興亡史には、『史記』や『封神演義』のみでなく、数多くの興味深い物語が存在し、今日に伝えられている。殷周革命の中で重要な人物に、釣師の異称で知られる太公望がいる。周代の斉国の始祖。姓は羌。呂尚・師尚父とも称される。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、周王朝を建国した武王を軍師として助けて殷を滅ばしたという。「六韜三略(りくとうさんりゃく)」で名高い兵書「六韜」は彼に仮託した後世の書である。
 牧野の戦いの前に、武王の陣営で戦の吉凶を占っていた。しかし、数種類の占いを何度もやっても、凶としか出なかった。そこで、戦を延期しようという意見が大勢だった。それに対し、太公望は「草や骨なんかに未来の何がわかるものか」と主戦論を貫き、そして、戦いに勝利した。この時の太公望の言動は、人命重視や科学的思考からなる近代合理主義に通じる部分もあるが、それだけではない。羌という姓のとおり太公望は羌族の出身である。太公望は殷王朝により祭祀の生贄にされつづけたチベット系民族の怨念が、具現化した人物といえよう。つまり、殷の神権政治を滅ぼすことで、生贄にされ続けた同胞の復讐および「生贄」という因習の撲滅を果たしたのである。
 殷と周との大きな違いを考察する。両陣営の決定的な違いは戦争観そのものにある。前者は、祭祀での生贄を必要としたので、敵を生け捕りにする戦術であった。後者は、戦争に勝ちさえすればよかったので、敵を生け捕りにする必要はなく、武器の殺傷力が高く、大勢を殺戮する戦術を採用した。殷周は古代奴隷制社会であるが、それにも違いがある。前者は神官を中心とし、祭祀による神権政治をとっていたに対し、後者は出土した青銅器などが象徴するように、王の権威を頂点に、殷よりも、農業を始め、生産力の水準が高い社会である。言い方を変えると、人類史上、人間を生贄として神のお供え物に終わらせ、労働力たる人命を蕩尽する生産性の低い社会から、人間を奴隷として農業生産なり、大型建築物造営などの労働にあたらせることで、生産力を高める社会への変貌である。
 その後、チベット系民族の活動には大きく目立つものは乏しい。五胡十六国時代に「羌」および「?」の民が王朝を建国し、周辺民族との興亡を繰り広げたことが目につく程度である。
 チベット人のアイデンティティにして、歴史上の表舞台に燦然と登場した本格的チベット人の国は吐蕃である。吐蕃は唐・宋時代の史書に見られる中国人の呼称であり、語源は不明である。チベット人はポゥ(Bod)と自らの王国を称した。7世紀初め、ソンツェン・ガンポがチベット高原に居住する諸部族を統一して、吐蕃を建国した。吐蕃の経済力は若干の農耕があるものの、遊牧狩猟が主であり、軍事力の背景としてしばしば唐は西北方面から侵入された。それに塩をはじめとした交易による利益が国を支えた。経済の話題については、のちの西夏のところで言及する。基本的経済構造が同様であり、引用文献の説明が理解しやすいからである。ソンツェン・ガンポは、チベットを開国した智勇に優れた英邁な王のみならず、観音菩薩の化身として今もチベット人から厚く尊敬されている。チベットで観音菩薩の化身と称されるのは、ソンツェン・ガンポに限らず、王や高僧、それにダライ・ラマやパンチェン・ラマもしかりである。ダライ・ラマの起源については、中国で言えば、清朝の時代にあたるので、のちに言及する。ソンツェン・ガンポは青海の吐峪渾(とよくこん)族を撃破し、唐に侵入したことから、唐の太宗は文成公主を 641年に降嫁させ、懐柔策をとった。前漢の王昭君が匈奴に降嫁したのと同じパターンである。文成公主は唐の優れた文物を吐蕃に伝え、ソンツェンによく尽くしその死後も吐蕃を支えるのに貢献し、チベット人の信用は今日も厚い。一説では、降嫁の際、秘かに蚕を唐から持ち出し養蚕をチベットに伝えたとされる。そして、ソンツェン・ガンポの在位中、唐と吐蕃の間は平和的であった。チベット仏教が栄え、今日にいたる教義や儀式など、信仰に根ざすチベット人の大元たるアイデンティティを確立した国が吐蕃といえる。だが、9世紀の頃より吐蕃は国内部が分裂状態になったり、ウイグルをはじめとする周辺民族との抗争に敗れたりして、王家は衰退した。
 北宋の時代、漢民族に挑戦的姿勢を示したチベット系の王朝として、西夏(1032ー1227)が存在した。チベット系タングート(党項)族が国号を大夏と号し、建国した。この名称は、「直接には皇帝を称した李氏発祥の地夏州に由来し、すでに継遷のとき契丹から夏国王の封冊を受けていた。中国古代に夏朝があり、夏とは元来中国の雅称である。宋としては、辺外の「小戌(しょうじゅう)」党項(タングート)が夏を称するなど、僭越(せんえつ)の極みと考えざるをえなかった。宋はその西方に位置するところからこれを西夏と呼んだ」(1)。国号からして、漢民族に対し、挑戦的である。西夏開祖の李元昊(り げんこう)は、その人となりを「雄毅にして大略多し」と評され、次のような逸話がある;父李徳明(り とくめい)が「わが国はいま戦いに疲れている。わが族が30年にわたって錦や絹物を着ることができたのは宋の恩だ。これに背(そむ)いてはならぬ」と諭したのに対して元昊は、「皮衣や毛衣を着、畜牧を仕事とするのがわれわれの本来の姿です。人生まれて王覇(おうは)となるのが英雄というもの、錦や絹物なんぞ問題にもなりません」と答え、宋に屈することを拒否した(2)。李氏はもともと、宋遼の両国に臣下の礼をとり、従属していた。それは貿易の利益をねらった名目上の和平であったが、事実上は国内では皇帝を称していた独立政権であった。徳明の30年近く対宋和平によって蓄積した国力をもとに元旻は名実ともに独立国たらんとして西夏を建国したのであった。
 西夏は西夏文字として知られる独特の文字がある。詳しくは、西夏文字の研究で有名な西田龍雄氏の本を参照してください(3)。漢民族に対する敵対心は、西夏文字にも表れており、譬(たと)えていえば、中国人を「虫国人」というふうに、虫偏で漢民族を表記するほどである。
 元旻崩御後の西夏は徳明の時代のように、基本的には貿易立国として存在した。しかし、圧倒的戦力で征西するモンゴル軍の前になすすべなく滅ぼされる。西夏は吐蕃ほど有名なチベット系民族の国家ではなかったが、漢民族に対抗した個性的国家であった。
 中国史上、元が滅亡した原因の一つに、ラマ教に多額の費用を蕩尽し、インフレを起こし経済上弱体化した点が挙げられる。
 元とチベットとのかかわりを考察する。元は西域出身の色目人を重用した反面、漢民族を冷遇した。漢民族の文化について言えば、科挙を廃止したことをはじめ、漢民族の教養人、つまりエリート層を冷遇した。他方、演劇や小説など大衆文化に根ざしたものはモンゴル族は受容した。つまり、難解で煩瑣(はんさ)な文化よりも理解しやすい大衆受けする文化が元では受け入れられた。ラマ教もモンゴル族の受容した文化の一つである。パスパ文字で有名なラマ僧パスパをフビライは重用し、その王権の偉大さを演出させた。石濱氏は次のように紹介している。「パスパは、フビライを仏典に説かれる理想的な王、転輪聖王になぞらえ、さらにフビライの王権が疫病や飢饉や外国軍といった災いから護られるように王座の上に白傘盖(はくさんがい)(白い絹製の天蓋(てんがい))をおいた。この白傘盖は都市を様々な災いから護る力を持つという白傘盖仏の省長であり、年に一度行われる白傘盖の祭りにおいて、王座の上からおろされ、輿にのせられて大都を一周して都の不祥を払った。この祭りは『元史』にも記録され、フビライとパクパ(パスパのこと)の白傘盖信仰は後の世にまで伝えられた」(4)。元は都を大都(今の北京)に定めたが、もとの都カラコルムと往復している。年に一度の往復で都の機能を分散させるのみでなく、モンゴル族の先祖からの地と習慣、つまり、民族の起源を忘れないためでもある。白傘盖はユルタ(モンゴル族伝統の移動式テント、中国名「包(パオ)」)を想起させ、モンゴル族の民族のアイデンティティや嗜好を満たすものであった。つまり、モンゴル族が世界を統治しているというプライドをくすぐる大イベントである。また、今日でも、チベット系住民の住むネパールやインド・ラダック地方では、仮面劇が大々的に行われる(5)。ラマ教の教えに基づく劇は、しばしば大掛かりな舞台演出となり、費用がかかる。それで、元の財政を圧迫した。もちろん、豪勢なラマ教寺院にしても、その建築および維持・管理費用は多額であった。この当時のラマ教普及により、モンゴル系民族の多くの信者を獲得し、今日にまで影響が及んでいる。
 また、石濱氏は前掲書の中で次のように紹介している。「チベット仏教はその時代で最も豊かでゆとりのある世界帝国に布教を行い、その帝国の支援を受けて仏教の伝統を維持してきた。最初はモンゴル帝国、次には大清帝国、そして、現在はアメリカ人や台湾の華僑と、チベット仏教は常に経済的に豊かな人々の精神性を涵養し、その返礼として経済的支援を得てきた。」(6)とある。モンゴルや清朝についての石濱氏の意見に対し、小生は納得できる。しかし、正直の所、アメリカ人や台湾人がチベット仏教の熱心なパトロンというのは、小生は知らなかった。一方、中国はチベット僧院を支える豊かな経済力も、仏教を理解する精神的ゆとりもない社会主義政権の貧しさとする石濱氏の意見には小生は賛成できない。中国は現在オリンピックを開催できるほどの豊かな経済力がある。また、中国人は、仏教を理解するほどの精神的ゆとりがないというよりも、宗教がらみで王朝変遷を繰り返した歴史から宗教全般について、不信感が根強い、と小生は考える。例えば、オウム真理教の教祖の麻原彰晃(あさはら しょうこう)(本名:松本智津夫)が中国でオウム真理教を布教しようとしてケ小平に面談を求めたが、事実上、門前払いされて、ロシアに布教することに方針転換した。淫猥(いんわい)さで日本でも悪名の高かった韓国の「摂理」という教団の教祖は、中国東北部に潜伏していたところ、中国公安当局に逮捕され、即刻韓国へ身柄を引渡されている。法輪功の教祖こそ中国国外へ逃亡できたものの、政府からいかがわしいと目された中国国内の新興宗教の教祖は、容赦なく死刑にしていくほどの国である。カール・マルクスが、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で「宗教は民衆の阿片である。」という以前に、中国人の宗教に対する不信感は根深い。
 元朝末期から明朝初期のチベット仏教界は堕落が目立ち、邪教的儀式でそれぞれの歴代皇帝の愛顧を得ようとした。チベット仏教のいかがわしい堕落を改革する動きが14世紀末明の永楽帝の時代に、「アムドの聖者」と称されるツォンカパがラマ教の改革をはかった。アムドはチベット東北部、今日の中国・青海省の大部分の地域に相当する。彼の主張は厳格な戒律主義で、他宗派のような妻帯を禁じた。その結果、彼の二大弟子からダライ・ラマ(チベット仏教ゲルク派法王、ダライはモンゴル語で大海の意)とパンチェン・ラマ(チベット仏教ゲルク派副法王)が転生したとされたことをはじめ、この派はゲルグ派(黄色帽)と称され、チベット人民の帰依を漸次集めるようになった。 明朝自体とチベットとの交流で目立つ話題は少ないので、清朝の時代について考察する。
 1643年に清朝が成立するが、その前年1642年はチベット史において重要な年である。ダライ・ラマ政権政権がラサで樹立した。その後、首都ラサにポタラ宮を造営し、ダライ・ラマは観音菩薩の化身として政教両面にわたるチベットの法王となる。つまり、チベット版宗教改革により、今日にいたるチベット政教体制が成立した年こそ、1642年である。それはオイラト(西モンゴル)のグシ=ハンの軍事力を背景になしえたことであった。元朝以来、モンゴル系民族とチベット仏教との関連は少なくない。満州族もチベット仏教を信奉していたので、チベット仏教界とは、直接全面対決することはなかった。だが、チベット仏教界とのいくつかの衝突はある。
 1720年、清朝がチベットに軍隊を派遣した。現在の中国では、この事件をもってチベットの直接統治の始まりと位置づけている。石濱氏は「ダライ・ラマ7世を青海からチベットにダライ・ラマ位につけるための護衛軍であった。しかも、清朝の皇太子が文殊菩薩の軍を名乗り指揮していた。(7)」とし、チベットを清朝に併合する動きでないとしている。この事件以来、清朝はラサに定期的に駐蔵大臣を派遣するようにしている。小生は、チベットを直接統治する意図でない点では、石濱氏の主張を尊重する。他方、注7と同じページに時のチベットの実力者ギョルメナムゲルが清朝を軽視してジュンガル(西モンゴル)との連携を強める動きをみせたり、次節で紹介するガルダンの件もある。つまり、チベットの清朝に敵対する不穏な動きを察知し、事前につぶすための諜報員的存在であったのではなかったかと、小生は愚考する。中華民国の時代でも、基本的には清朝時代の組織と大差のない駐蔵大臣をはじめとする官僚達が、チベットの動向を常に中央政府に伝えていたのだから、そう推察するのである。
 清の康熙帝の時代、ジュンガル部の首長だったガルダン=ハン(1644ー1697)が、青海・天山南路・外モンゴルに進攻し、清に敗北したことがあった。表向きは、清の新疆侵略に対する抵抗であったが、裏では、チベット仏教界が一枚かんでいた。以下、石濱氏の前掲書より紹介する;1682年にダライ・ラマ5世が逝去した際、その遺言によって摂政サムゲギャムツォ(1653ー1705)が15年間、ダライ・ラマ5世の死を秘匿して政治を行った。その間、ダライ・ラマ5世がツァム(隠遁修行)に入ったとか、ダライ・ラマ5世の影武者を立てて5世の死去を隠してきた。その間、摂政はダライ・ラマに忠実であったガルダンを操作してダライ・ラマ政権と距離をおくハルハ部(東モンゴル)と清朝に全面戦争をしかけた。ガルダンは善戦するも及ばず、1697年に毒をあおぎ自殺した。進退窮まったサンゲギャムツォはダライ・ラマ5世の死を発表して、これまでの混乱の責任をすべてガルダン一人の責任とし、清朝との関係改善を試みた(8)。哀れな話だが、ガルダンは、あわよくば清朝を牛耳り、ダライ・ラマの権威をかさにチベットの実効支配をしたいという野心を抱いていた摂政の捨て駒にされたのである。ちなみに、新疆に住むモンゴル族は、ガルダンをチンギス=ハーンに次ぐ優れた英雄として見なしている。義に篤(あつ)く、勇敢な指導者として、現地で語り継がれて来たためである。
 乾隆帝の時代に至り、乾隆帝はチベット仏教界から文殊菩薩の化身、またはフビライの再来に認められるに至った。チベット寺院建立や白傘盖仏を祀るなど、乾隆帝がチベット仏教を理解し受容したとして、石濱氏は前掲書の11章で説明している。もっとも、乾隆帝はチベット仏教のみを重視したのではない。元朝のように、漢民族の文化や思想、社会制度などを冷遇せず、充分に受容している。乾隆帝は自らを「十全老人」と名乗っている。これは清の領域のありとあらゆる文物や社会制度などを完全に理解した、いわば、万能の支配者であることを意味している。つまり、チベットに大きく肩入れしているのではなく、漢民族の社会や経済システムを母体に、今日の中国領域の民族の融和をはかったのが、清朝の実像である。結局、満州族は出身地の沿海州をロシアに奪われるのみならず、満州文字の読解をはじめとする満州固有の文化を失っていく。石濱氏は中国政府に対し、乾隆帝と同様にチベット仏教の受容し、自らもその世界を共有する姿勢を見せない限り、チベット族と漢民族との関係改善は難しい、としているが、そこまですることはおそらく困難であると、小生は推察する。それができるならば、武力により、ダライ・ラマ14世をチベットから亡命させずに、毛沢東や周恩来は中国政府の都合よい象徴としてパンチェン・ラマ同様ダライ・ラマをチベット統治に利用したであろうからである。
 清朝とチベットとの関係をおおまかに総括する。清朝としては、元朝のような轍を踏まないとして、漢民族の文化や教養を受容し、満州族自らを次第に漢化させて行った。ラマ教にしても、元のように財政難をもたらすほどのめり込まなかった。そして、チベット仏教界の権威を尊重したことで、チベットを中華世界の勢力圏におけた。他方、チベット側は、元朝のように宮廷に入り、権勢を誇ろうとしたが、そこまで親密な関係になれなかった。時に、清朝に敵対するも、名目上ダライ・ラマ政権を維持できた。つまり、互いの面子を立てあうことで、互いに実利を得たとし、必要以上に干渉し合わない、とする玉虫色的関係で推移していった。
 中華民国期では、イギリス、ロシアが、中国の新疆やチベットを舞台に「グレイト・ゲーム」と称される勢力争いを展開していた。詳細は金子民雄著『西域 探検の世紀』(岩波書店、2002年)を参照してください。スウェーデンのヘディン、イギリスのスタイン、ロシアのプルジェバルスキーやコズロフ、日本の大谷光瑞など、綺羅星の如き西域探検ブームの陰に、スパイによる資源や自国へなびきそうな地域の有力者などの情報収集をおこなっていた。中華民国は、探検隊が遺跡調査の際、勝手に壁画や発掘されたミイラなどの文物を国外に持ち出すことを苦々しく思っていたのみでなく、中華民国からの分離独立を外国が幇助しかねないと強い警戒心を抱いていた。そこで中華民国は例えば、チベットに対し、イギリスやロシアになびかないようにするため、高度な自治を認めた。チベット独自の紙幣や入国許可証を発行することを黙認するほどであった。他方、中国側に都合の良いように、パンチェン・ラマを擁立し利用することで、チベット仏教界の分断をはかり、チベット社会の分断を狙おうとした。その手法をより強烈に実践したのが、中華人民共和国である。それについては、次章で述べる。
 ちなみに、日本からチベットにいった人物に河口慧海(1866ー1945)がいる。詳しくは2度のチベット旅行日記を参照してください(9)。慧海はダライ・ラマ13世との謁見をはたしている。そして、仏典の収集や修行をした。
 チベット族は今日の姿からはチベット仏教信仰に根ざした非暴力や平和主義を標榜する民族であり、中国政府の迫害を受けている悲惨な人権状況を連想する悲劇的な民族である。他方、勇猛果敢な戦闘民族や権謀術数をもって時の有力な勢力や帝国とわたりあうしたたかさもチベット族は有している。チベット族と漢民族との間の歴史は、平和的状況の時期があったものの、基本的には、「胡漢陵轢(こかん りょうれき)」の語の如く、互いに血で血を洗うような凄まじい興亡の歴史が目立つ。漢民族にとり、チベット人は優越感と恐怖心とのアンビヴァレンス(ambivalence)から成り立つ差別の対象であった。そして、チベットを漢民族が勢力圏におけたという根拠は清代であり、いわば、「夷をもって夷を制す」の類の話である。そして、漁夫の利のごとく、清朝の成果を漢民族のものとして、チベットが中国に属するとする根拠にしたのであった。それにより、少なくともチベットから漢民族領域に進軍することはないので、国防上、安全性が増す。次に中華人民共和国におけるチベットの状況について考察する。
 
2.中華人民共和国建国後のチベットの状況
 
 まず、ダライ・ラマ14世(在位1935年ー現在、テンジン・ギャツォ)がインド亡命に至るまでの過程をマイケル・ダナム『中国はいかにチベットを侵略したか』(1)をもとに考察する。この本は現在入手しやすく、中国共産党政権がチベットを武力制圧し実効支配する過程およびそれに伴うチベット民衆に対する虐殺や弾圧の様子がよくまとめれれているから参考にするのである。ただ、小生は他方で中国共産党側の意見も紹介して考察する。いかにチベットをめぐり中国の主張とチベット人をはじめとする国際世論と乖離しているかを比較検討するためである。
 まず、「チベット解放」について考察する。現代中国史の立場からいえば、長くイギリスの影響下にあったダライ・ラマ政権からの解放、つまり、「帝国主義からの解放」を意味した。1950年に人民解放軍はチベットに進撃を開始し、1951年5月「チベット平和解放に関する17条協議」を締結した。同年10月、ダライ・ラマの同協議擁護表明、解放軍ラサ入城によって「チベット解放」は達成された、とされる。
 17条協議の成立過程については不明な点が多い。中国外交部見解によると、ダライ・ラマの意向や談判に関係なく、人民解放軍のチベット進軍は既定方針とある。また、1951年時点では、チベット旧来からの政府機構と支配構造が維持されていることに象徴されている。マイケル・ダナムは次のように記している。「毛沢東はチベットに象徴的に君臨したいだけなのだ。僧院の既得権が中国共産党によって守られるなら、後のことなど大したことではない。」(2)、というラサの三大僧院長の考えを紹介している。要は、ダライ・ラマ14世の許可なく、勝手に中国側と17協議に調印したものであった。ところが、毛沢東は三大僧院長らチベットの特権階級の思惑のはるか上を行くマキャべリストであった。ダライ・ラマ14世が17協議を承認した既成事実をもとに、外国からの干渉を排し、チベット併合をするのである。
 次に、1959年の「チベット動乱」について考察する。1959年3月を頂点とするチベット人地域の混乱である。一般には、人民解放軍がダライ・ラマ観劇招待にかこつけて、ダライ・ラマ連行を企てている、と危機を感じたラサ市民が集結し、人民解放軍と全面対決した最中、ダライ・ラマがインドへ亡命した事件を指す。この事件の真相については未だ不明の点が多い。その結果、3月28日に中国政府はチベット地方政府を解散し、チベット自治区を成立させ、ダライ・ラマ不在中、パンチェン・ラマを代理主任委員とした。現代中国史の立場から言えば、「労農人民の解放」は、上記の事件を契機に、封建制度の解体と農奴への土地分配を主な内容とする「民主改革」を実現した、として「チベット解放」の完成と位置づけている。
中国側の主張にそった内容の文献に、 ストロング女史の『チベット日記』がある(3)。著者のアンナ・ルイス・ストロング(1885ー1970)は、中国においてエドガー・スノー(1905ー1972)、アグネス・スメドレ(1894/90/92ー1950)とともに「3S」と言われ、中国革命を支援したアメリカ人ジャーナリストとして高く評価されている。1946年にストロングが解放区に滞在した際、毛沢東の「原子爆弾は張子の虎」論を聞き出したことで知られる。この日記は、地主や僧侶の残虐な支配下にあった農奴が解放され、未来のチベット建設に歩む姿が感動的に描かれている。農奴制の存在やその制度下の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の事実について、小生は否定しない。だが、チベットの貴族達によって起こされた「叛乱」というのには、僧侶や地主階級と貴族が対立することそのものに、疑問を抱いていた。なぜならば、例えば、フランス革命のように、旧体制における僧侶(第1身分)と貴族(第2身分)と対立した商人・職人・農民などの平民(第3身分)とのかかわりが頭をよぎり、不自然に感じたためである。こうした小生の疑問は、マイケル・ダナムの前掲書から単純に読み解けば、チベット社会にとり、中国政府に協力する「裏切り者」ということになる。
 チベット人の人権抑圧状況については、マイケル・ダナムの前掲書やダライ・ラマ14世の自叙伝に詳しいので、そちらのほうを参照してください。また、ダライ・ラマ14世の亡命については、マイケル・ダナムの前掲書の8章に詳しいので、ここでは一言だけ記す。ダライ・ラマの側近らはチベット独立闘争継続のためにラサ脱出を進言していたが、ダライ・ラマ14世はチベット人民への裏切りとしてラサ脱出を固辞していた。そして、ダライ・ラマのインド亡命の成功にはCIAが手を貸したからという憶測についてはダナムの前掲書の206頁にあるようにCIA関係者がチベット人の手による事実として明白に否定している。つまり、チベット人の執念がダライ・ラマ亡命の離れ業を成し遂げたのである。そして、今日まで、チベット人は自民族のアイデンティティを堅持している。
 のちに周恩来は、ネルーに次のようなことを述べている。「チベットに共産主義を浸透させることができるなどと考えたのは幻想に過ぎなかった、チベットは非常に遅れており、共産主義とは凡そ無縁な国だ」(4)。周恩来の発言を受けたネルーは、チベットに関心をもたなくなり、同じ仏教徒としてチベット人に同情的なインドの国民世論と乖離した。別な見方をすれば、その発言はチベットに対する差別と同時に、中国のチベット政策の矛盾の吐露である。つまり、中国指導部は、チベット進攻の大義の曖昧さを認めたことになる。
 中華人民共和国が、チベットを武力で併合した背景を考察する。毛沢東の「中華帝国」としての領土的野心のみに結論付ける事は、あまりに浅薄で一面的である。小生は経済面から次のように推量する。日中戦争以来、中国は工場を四川省方面に移転した。いわゆる、奥地工作である。沿岸部は日本の侵略、そして、国共内戦から東西冷戦期で中ソ対立が鮮明になるまでは、アメリカに対する国防上の不安があり、内陸部で工業生産することを通じ経済力を維持するねらいがあった。そこで、四川省と境界となるチベットの動向が気になった。チベットが、インドやアメリカといった外国と内通し、中国を挟撃する形を政府は恐れた、と推察する。清や中華民国の時代のように、チベットとの対立をさけ、曖昧に高度な自治を容認するゆとりが中国政府になかったのではないか、と小生は考えるからである。もちろん、四川で生産した工業製品を売る市場としての価値もチベットに対し、中国政府は見出していた点も否定しない。
 パンチェン・ラマについて、考察する。石濱氏の前掲書47章にあるように、一言で言えば、ダライ・ラマの陰画のごとき存在である。パンチェン・ラマは、前述したようにゲルク派の副法王であり、チベット第2の都市シガツェに住む大地主でもある。もともとは象徴的存在であったが、18世紀に政治闘争の激化する中で、ダライ・ラマの夭折者(ようせつしゃ)が相次ぎ、比較的長寿だったパンチェン・ラマが存在感を増した。ダライ・ラマとパンチェン・ラマとの関係は微妙になった。例えば、ダライ・ラマ13世(在位1876ー1933、トゥプテン・ギャツォ)がイギリスや中国の軍隊に追われて、モンゴル・北京・インドと逃亡の旅をして不在の間、パンチェン・ラマ9世(在位1883ー1937、ゲレクナゲル)がチベットの最高指導者のごとく振舞っていた。
 1913年にダライ・ラマがチベットに戻ると、軍隊の創設、英語学校の建設などチベットの近代化を目指した。それにともない、必要な費用を僧院や大地主に要求したので、パンチェン・ラマはダライ・ラマの不在中における自らの行状へのペナルティーと考え、1923年タシルンポ寺を秘かに脱出し、中国へと落ち延びた。これが、中国とパンチェン・ラマとの密接な関係のはじまりである。
 ダライ・ラマ14世(在位1935ー )とパンチェン・ラマとの関係は以下のようになる。1952年4月28日、中国軍のラサ占領を受けてパンチェン・ラマ10世(在位1938ー1989、ロサンティンレールンドゥプチューキゲルツェン)はチベットに戻ることができ、ダライ・ラマ14世と30年ぶりに公式な和解を実現した。しかし、1959年にダライ・ラマ14世がインドに亡命したのに対し、パンチェン・ラマ10世は中国に残り別々の道を歩むことになった。パンチェン・ラマは中国政府に唯々諾々であったわけでない。1962年にパンチェン・ラマは中国政府の失政を批判したため失脚し、その翌年から9年8ヶ月にもわたる監禁生活を余儀なくされたからである。もっとも、その間、中国人女性の李潔と結婚し一女をもうけていたことは、チベット人にとり衝撃的であった。ゲルク派は、前章でも記したように、厳しい戒律主義をとり、妻帯を禁じていたからである。ましてや、中国人女性との間に子供までなしていたことは、チベット人には信じがたい背徳行為であった。それでも、パンチェン・ラマ10世は、文化大革命で破壊されたチベット仏教の寺院や仏塔の再建に貢献してきた。1989年1月、歴代パンチェン・ラマの仏塔が再建され、10世はその落慶供養を行うために久しぶりにタシルンポ寺に帰郷できた。中国政府がパンチェン・ラマの本拠土地を北京に置いたためである。目的は無論、パンチェン・ラマがチベットにいることでチベット人のナショナリズムを刺激したりしないように監視するためである。1月28日、パンチェン・ラマは突然胸の痛みを訴え、急逝した。死因は何日にも及ぶ儀式を厳冬期に行ったため、心臓病を起こした、というものから、式典の最中に中国政府を批判するスピーチをしたため、当局に暗殺されと、というものまで様々な憶測が流れた。
 石濱氏のパンチェン・ラマ10世評は次のとおりである。パンチェン・ラマは中国人からは「愛国人士」と評され、外国人からは「中国の傀儡(かいらい)」ないしは「中国に利用された情けない存在」「売国奴」と断罪される。しかし、彼が制約された状況下において、チベット人の立場を護るために活動し、本土(中国側チベット)に残ったチベット人にとって身近な宗教的シンボルとして機能し続けていたことも事実である。パンチェン・ラマの複雑な立場を一言で定義、もしくは断罪は難しいであろう(5)。
 上記の評価に触発され、小生は次のことを考えた。パンチェン・ラマを譬えて見ると、汪精衛(汪兆銘)が、似た存在である。中国史では、漢奸(漢民族の裏切り者)として汪は知られるが、1990年代以降、日本や中国で研究が進むと、汪はただの裏切り者ではなく、中国人民を守るために南京に踏みとどまり、時に日本側に抵抗した形跡が明らかになりつつある。人物像は蓋棺事定(がいかん じてい)として、一面を固定的に捉えるべきでない事例といえる。
 また、ダナムはダライ・ラマとパンチェン・ラマとの関係を次のように記している。「1954年には、毛沢東はパンチェン・ラマの政治的地位を好きなように利用できたけど、彼生来の能力を左右するわけにはいかなかった。パンチェン・ラマ10世は共産党のスローガンを忠実に副賞はしたが、生まれつきの指導者とはいえなかった。ダライ・ラマ14世の地勢は誰しもが認めるように抜群だったが、パンチェン・ラマはいささか回転が鈍いといわれた。まずいことにパンチェン・ラマの教育は偏っており、彼の存在は無限に重要だということ以外何の教育も受けていなかった。彼が当然だと思っている敬意が払われないと怒ったりいらいらしたりする代わりに、思考停止状態に陥ってしまうのである。少し年上のダライ・ラマはそういう彼に同情した。二人の間には毛沢東が思ってもみなかったような近親感と友情が芽生え、深まっていったのである」(6)。ダライ・ラマとパンチェン・ラマとの間柄はチベット民族のアイデンティティといった公式の関係のみならず、人質のような状況で北京にいた不遇な境地を生き延びた、いわば、兄弟のような関係であった、と小生は推察する。
 パンチェン・ラマは現在、ダライ・ラマ14世がその転生者として認めたパンチェン・ラマ11世(在位1989ー現在、ゲンドゥン・チューキ・ニマ)がいるが、中国政府は当時6歳の少年であるパンチェン・ラマ11世を拉致し、この少年の認定に関係した僧侶らを処罰した。世界最年少の政治犯として知られるパンチェン・ラマ11世は今も行方不明である。中国政府は代わりのパンチェン・ラマを擁立するもチベット人民には受け入れられていない状況である。とりあえず、中華人民共和国期のチベットの歴史を考察してきた。以降、今年2008年におけるチベットについて考察する。
 チベット「暴動」の起こった3月14日の前に、アイスランド・レイキャヴィーク出身の女性歌手、ビョーク・グズムンズドッティル(1965ー )氏が中国・上海の公演でチベット独立を連呼した事件を紹介する。出典はウィキペディアからである。2008年3月2日、「Declare Independence」をビョークが歌った際、チベットを連呼し中国文化省を激怒させた。中国では「営業性演出管理条例」に基づき、コンサートの演奏内容を事前に提出し、許可を得なければならない。ビョークはそれをしなかった。中国文化省は規定に反して個人的な芸術活動を政治利用し、中国人民の感情を傷つけたと非難した。同時に、中国国内外のアーティストへの制限を強化する意向も表明している。一方のビョークも自分は政治家でなくミュージシャンである、また中国当局の方針は芸術活動を冒?(ぼうとく)するものとして、自身のサイトで表明している。ちなみに、ビョークは、アジア系のハーフではないとのことである。
 結果的には、チベットにおける人権問題を、ビョークは、先取りした形になった。1948年に採択された「世界人権宣言」の第1条では、「すべての人間は、生まれながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互いに行動しなくてはならない。」と謳(うた)われている。人権に国境はないとして、意見を表明すること自体はよい。だが、あとで触れる聖火リレーのときのように、一部の暴力沙汰については賛同しない。また、人権擁護の表現手段にも節度が必要である。ビョークは2008年2月の日本公演の際、上海コンサートでの同上の曲でコソボを連呼し、セルビア公演をキャンセルされている。ビョークはアイスランドの国民的人気の歌姫にとどまらず、音楽を通じて人権擁護のメッセージを世界に発すること自体、小生は敬服する。アジアの歌姫として今も慕われているテレサ・テン(本名、ケ麗君、1953ー1995)のように、客死することなく、これからも元気に活躍して欲しい。
 チベット暴動にまつわるいくつかの話題を考察する。まず、チベット暴動発生を世界に伝えたメディアについて考察する。米政府系ラジオ局「ラジオ・フリー・アジア(RFA)」である。チベット語の短波放送を流していて、情報統制の厳しい中国において、インド・ダラムサラから、ダライ・ラマやチベット亡命政府の様子などの貴重な情報源となっている。RFAはチベット語のみでなく、ミャンマー語、ウイグル語など様々なアジア地域の言語で放送している。ちなみに、他にチベット語の短波放送を流している局は米政府系の「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」、ノルウェーの民間団体が支援する「ボイス・オブ・チベット(VOT)」などがある(7)。こうした情報媒体は今回のチベット問題に限らない。情報統制や政情不安などのために、事実を知りたくても知らない当該の人民のみならず、その地域で何が起こっているのかという事実を知らない世界の人民が真実を知り、国際世論を形成し、窮状を救う契機となる。時に従軍カメラマンのような命がけの仕事になることもあるが、世界の人民のために無事に報道してくれれば、と願う。
 上記の短波ラジオ放送は中国領チベット住民のみならず、ネパールやインドなどへ亡命できたチベット人のリスナーもいる。チベットからの亡命は急峻(きゅうしゅん)なヒマラヤ越えをせねばならないうえに、中国の国境警備隊の監視網をくぐらなければならなず、文字通り命がけである。昨年、チョモランマ(英語名:エベレスト)登頂を目指していた外国の登山隊が、ヒマラヤの峰峰を撮影していた際、偶然、中国の故郷警備隊が少年僧を含むチベット人亡命者を虐殺していた場面を記録していた。それを帰国後、ネット配信したことで中国に対する国際世論及びチベット人への同情があった。中国政府はそのネット配信以来、海外からのヒマラヤ登山に関して、チベット側からの入山はもとより、ネパール政府に協力を得て海外からの登山者、特に人権思想を標榜する人物のヒマラヤ登山を制限している。
 無事に亡命できても、国境を越え、中国の警察などが亡命チベット人を監視し、時には、チベット独立運動に暴力などの圧力をかけている場合がある(8)。ダライ・ラマ14世は、暴力で中国政府や漢民族に報復したいというチベット人に対して一環して非暴力を訴えている。そして、ダライ・ラマはチベットの独立でなく、チベットに高度な自治権を求めるとし、中国の内政問題として国家主席との対話を中国政府に求めている。そうしたチベット人による自制に応えるべく、国際社会はチベット人の状況に関心を関心を持ち続けるべきである。また、中国政府は胡錦濤国家主席とダライ・ラマ14世との対談を実現することで、チベット人をはじめとする国際世論に対し、説明責任を果たすとともに、中国の内政問題という以上、チベット人の基本的人権を尊重し、チベット人と漢民族との平和友好関係を築くべきである。ちなみに、胡錦濤国家主席はチベットとの対談に関し、不都合な過去がある。1988年チベット自治区党委書記(1990年からはチベット軍区党委第1書記兼務)時代に、1989年6月4日の天安門事件当時、チベットでも自由を求めるデモの要求があった際、武力鎮圧を命じた人物こそ胡錦濤その人であり、それ以来、国家主席に登りつめるほどの出世をしている。つまり、チベット人からすれば、胡錦濤は自分達を生贄に国家主席にまで出世した非道な人物として怨恨の対象である。それでも、過去の贖罪および中国およびアジアの政情安定のためにも中国とチベットの責任者による対談の実現を小生は希望する。
 青海チベット鉄道が、2005年に開通した。孫文が自身の著作『実業計画』の中で、三峡ダムとともに、中国全土を鉄道で結ぶことを悲願としていた。それが、青海チベット鉄道開通で、また一つ、孫文以来の中国政府指導部の悲願の一つが実現した。この鉄道はチベットに膨大な物流や人の流れをもたらした。漢民族の商人が多くチベットで商業活動を活発化させたことで、チベット人が細々と得ていた商売上の利益を奪うこととなった。また、漢民族をはじめとする観光客も多くチベットに来た。その観光収入も地元チベット人の利益に繋がらないでいる。また、漢民族をはじめ外国の観光客の中には、チベット人の静かな仏教信仰や伝統文化を軽視し、チベット人の反発を招くことも少なくない。こうした不満も3月のチベット暴動に繋がった。 青海チベット鉄道については、将来次のような可能性を秘めている。ダライ・ラマ14世が懸念することだが、百万人規模で漢民族をチベット移住させる時の輸送手段である。その移民の中には先の四川大地震で被災し、生活困窮者となった方々も含まれる、との予測が存在する。新疆ウイグル自治区では、三峡ダムに関連してすでに百万人規模の漢民族の移住をさせている。漢民族と現地の少数民族とは、打ち解けている状況でなく、対立が懸念されている。あたかも「偽満州国」に集団入植した際の日本人と中国人との関係が想起される。そして、1931年の万宝山(まんぽうざん)事件で日本軍に護衛された朝鮮人入植者と中国農民とが流血の衝突があったが、同様な衝突が将来発生しかねない。さらに、チベット高原は四川省からの地質の関連からレアメタルが埋蔵されている可能性があり、中国政府がチベットにおける権益を放棄することは考えにくい状況である。小生には、青海チベット鉄道と満鉄とが、全く別個の存在とは思えない。無論、組織からして満鉄は、一企業でなく、東インド会社のごとき存在である。要は、鉄道としての利用方法が近似している要素があると推察するのである。
 聖火リレーをめぐる騒動について、小生の感想を述べる。聖火リレーは、4月1日に北京を出発し世界五大陸をめぐり、8月8日の北京五輪開会式を大々的に開催すると言う中国が国家の威信をかけたイベントであった。しかし、3月のチベット「暴動」をうけ、4月6日ロンドン、翌7日パリで、激しいチベットにおける人権侵害に激しく抗議する活動が見られた。フリー・チベットの旗を掲げたり、フリー・チベットのロゴ入りT−シャツを着たりして、聖火を消そうとするなどの妨害があった。その結果、それぞれ35人と28人の拘束者を出している。その後も、世界各地を聖火リレーはめぐり、暴力をともなう大きな混乱はなかったものの、9日のサンフランシスコでは、突如リレー・コースを変更したり、その後も各地で厳重に警備されているリレー走者が走る側で北京五輪支持の中国系の市民(中国人や中国人留学生なども含む)とフリー・チベットを訴える市民と小競り合いが起こり、けが人や逮捕者もでている。日本では、26日に長野で聖火リレーが実施された。善光寺が同じ仏教徒が弾圧されたとしてスタート地点の辞退をしたり、妨害行為で6人の逮捕者が出るも、大きな混乱はなかった。28日北朝鮮・ピョンヤンで、文字通り混乱のない聖火リレーが実施された。5月2日に香港、5月4日海南省三亜にて中国国内を聖火リレーを開始し、今も中国国内をリレーしている。四川大地震をうけての自粛ムードや新疆やチベットでの暴動などを警戒して予定より規模を縮小している。
 海外での聖火リレー妨害に対し、中国の一部世論は過剰と言える反発を見せた。典型例は4月18日に中国雲南省などで反仏デモとしてフランス系スーパーのカルフール不買運動が激化した。欧米でも、BBCやCNNなどのチベット関連の報道が、一方的に中国の評判をおとしめているとして、デモが見られた。小生は中国人の聖火リレーを守ろうとする行き過ぎた反発に非常に不満を抱いていた。なぜならば、国際世論を聞きもせず、いたずらに反発することで、中国人自信の手により、評判を自ら毀損(きそん)し、国際的に中国を孤立させてしまう虞(おそれ)があるからである。「理性的な中国人なら、そんなばかげたデモに参加するはずはない。デモに参加する前に懸命に研究活動やビジネス活動をしている。」と小生は考えていた。
 聖火リレー妨害に対する中国世論の反発に関し、朱建栄・東洋学園大学教授の興味深い心理分析がある。「中国人は近代以来、(帝国主義列強の侵略を受けてきたという)被害者意識がある。(2005年の)反日デモは人々の被害者意識の裏返し、自信のなさのあらわれである。今回の聖火リレーの妨害でも多くの中国人が侮辱されていると感じ、その反発が反仏デモにつながった。長野でも我々が聖火リレーを守らないと祖国がなめられると思い、多くの中国人が集まって過剰に反応してしまった。中国社会の中で外国を知らない、生活改善の見込みがなく自信を持てない人ほどこういう被害者意識やナショナリズムに走りやすい。その克服が中国の課題です」(9)。一面納得する。中国人の自信のなさについて言えば、日本でも凶悪犯罪に及ぶ加害者の心理状況にも通じる、と小生は考える。それに加えて、中国の経済成長著しいことから、中国人が金の力でなんとでもなると傲慢になった部分がある。それは日本のバブル経済期にエズラ・フォーゲル著『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を「ジャパン・イズ・ナンバーワン」と勝手に解釈して思い上がった日本人の心理を想像すれば、理解しやすい。もっとも、四川大地震で、聖火リレーに対し、中国人は関心を減少させ、家族や友人そして国際社会の大切さを顧みることになった。尊い犠牲であったが、ある意味、中国人を正気に戻すきっかけとなった。
 5月12日の四川大地震以来、世界におけるチベットに関する話題も激減した。それにしても、チベットの人権抑圧反対とか、フリー・チベットとの世界各地での叫びは、一体なんだったのだろうか。素朴にチベット人に対する人権抑圧に抗議したかったのか、あるいは一過性のブームで悪乗りして暴力的手段で聖火リレーを妨害したかったのか、小生には判断に苦しむ。現実に苦難にあるチベット人は存在する。一過性のブームとして、無責任に騒ぎ立てるのではなく、今後もチベット人の人権状況に関し、無関心でいないことが、国際世論に求められる。
 
3.付言
 
 漢民族とチベット人との関係について考察する。チベット人と漢民族との違いは生活習慣からして大きい。チベットでは、訪問客に対し、バター茶でもてなす。ところが、漢民族は乳製品を普段から口にしないため、拒否する場合が少なくない。初対面の挨拶からしてチベット人と漢民族との関係はあまりうまくいかない。今日の中国において乳製品を食する漢民族は増えてきているが、それでも中国国内の遊牧を生業とする少数民族と乳製品で友好を交わせられるほど、漢民族に乳製品は深く浸透していない。
 思想でも大きな違いがある。「漢民族のどこが信じられないって、連中 ドンデ(チベット語で幽霊やゾンビを指すことば)を迷信だっていうんだぜ。ドンデも信じないやつは、まっとうな人間じゃない!」(1)、というチベット人学生の証言がある。要は霊魂の不滅を信じるかどうかの問題であるとのことだが、小生は若干違った感想を持つ。儒教に基づき「怪力乱神を語らず」の要素も漢民族にある。しかし、広東省方面などの南方の漢民族の中には占いや迷信に凝(こ)る場合が少なくなく、道教のみならず、イスラム教やキリスト教などの様々な信者がいる。だから、漢民族の全てが霊魂の不滅を信じないわけではない。要は漢民族は来世での利益よりも現世での利益を求める傾向が強い。だから、人知を超える話題に対する関心が薄いと推測する。加えて、中国史におけて宗教が王朝変遷を齎(もたら)したことから、宗教団体に対する警戒心が強いことも考えられる。
 漢民族がチベット人に対し、差別心がないのかといえば、皆無とはいえない。今日でも、チベット人との結婚を反対する漢民族の親御さんがいることを小生は聞いたことがある。また、1959年の「チベット動乱」の際、中国人民解放軍の中には、チベット人女性を「文明化」「浄化」と称して集団レイプがあった(2)。1990年代の旧ユーゴ内戦時、特にボスニア内戦でイスラム教徒の女性がセルビア人兵士に集団レイプされたことを想起する。これはセルビア人のミロシェビッチ大統領が、セルビア至上主義のもと、民族浄化を唱え、他民族や他宗教の人々に対する残虐行為を支持した。集団レイプというおぞましい蛮行もその一環であり、いかなる民族であっても、絶対許すことのできない重大な犯罪である。さらに、1990年代後半の中国には、次のような言葉があった。「ニュージーランド(新西蘭)に住むよりも、世界のはて(天南海北)に住みたい」。これは、言葉遊びである。ニュージーランドの中国語訳の新西蘭は、順に新疆、西蔵(チベット)、蘭州(甘粛省の省都)をさす。世界のはては、順に天津、南京、上海、北京をさす。つまり、漢民族の多くは西部の「貧困地区」よりも、沿岸の都市部に居住したいのである。
 中国政府は国内の少数民族に対する様々な優遇政策(例えば、一人っ子政策免除や大学入試時に漢民族より低い合格点数の設定ないしは少数民族向けの合格枠)や政治経済上の平等を唱えている。漢民族の多くが中国政府が少数民族を貧困などから救済している、と信じている。しかし、それぞれの民族にまつわる歴史事実やそれぞれの民族の風俗や習慣を知り、対話することで相互理解をはかることが必要である。さもなければ、漢民族の独善に反対する、とばかりに暴動が起こる危険性がある。
 
おわりに
 
 チベット事情を考える上で、「五輪と政治は関係ない」という中2の少女の投稿記事から次の教えを得た。「私はチベットの人々が何を求めているのかよく分りません。ニュースでは抗議のようすばかりが伝えられ、チベットの人たちがなぜ、どんな自由を求めているのかということはあまり知らされていない気がします」(1)。チベット人の声として部分的には、「基本的人権が尊重され、静かな信仰の自由を。」と漏れ聞くことは小生にもある。だが、上記の投稿記事にもあるように、暴力による聖火リレー妨害が目立ち事の本質を十分に伝えにくくしている。胡錦濤とダライ・ラマ14世との対談を実現させ、ただ会うだけにとどめず、実りある話し合いをし、世界中に現状の説明責任を果たすべきである。
 また、聖火リレーをめぐる一連の騒動は、五輪とはなにかを改めて考えさせる契機となった。武装警官に警護させたという疑惑すらあった聖火リレー自体、5月12日の四川大地震の悲劇により、中国国内からも関心を集めなくなった。多額の金をかけた国威発揚のためのイベントたる聖火リレーを継続するよりも、目の前で苦しむ被災者を助けることに集中し、リレーを中止すべしという中国国内の世論も出た。
 中国では、四川大地震からの復興に加え、8月8日からの北京五輪があり、多忙を極める。しかし、胡錦濤とダライラマ14世との対談は、うやむやにされることなく、今年中に実現して欲しい。中国政府とチベット側とで、双方の指導者の対談を実現するたまの交渉が公式非公式を問わず、なされている。そうした双方の努力が結実することを期待する。また、チョモランマ頂上で実施した漢民族とチベット族共同の聖火リレーよりも、市民レベルで漢民族とチベット族との対話がなされるほうが意義深い。中国の安定は世界の模範となるし、世界の安定にも通ずる。血塗られた歴史を清算するためにも、中国は国内の少数民族との平和・友好の姿勢をお題目にとどめず、実践することを願う。
 また、マイケル・ダナムの前掲書の訳者・山際氏は次のように述べている。「今、チベット本土の人口は、占領と共に雪崩れ込んできた中国からの移民がチベット人をはるかに上回り、何倍にも膨れ上がっている。日本もかつて満蒙開拓団とか何とかいって大量の日本人を中国に移し、当時の最新技術を駆使した満州鉄道、いわゆる満鉄を敷設し、中国の資源を日本に運んだが、欧米に石油補給路を断たれるやついに世界戦争に突入していった経路を思い浮かべるがいい。歴史は繰り返す、などと他人事(ひとごと)みたいにいっている場合ではなかろう。」(2)とあるが、小生も同感する。チベットに無関心であることは、今のチベット人を見殺しにするばかりでなく、他地域で人権抑圧にあっている人民そして、未来の人民を見捨てることになると思うからである。中国のチベットをめぐる問題一つ見ても、日本がかつて行ってきた歴史を髣髴(ほうふつ)させる。小生としては、今回の考察を経て得た今後の課題の一環として機会を捉えて戦前・戦時の日本と現状の中国の比較検討を試みたい。
 
 
1.中華人民共和国建国前のチベットの状況
 
(1)周藤吉之(すどう よしゆき)・中島敏(なかじま さとし)著『五代と宋の興亡』講談社、2004年、 138頁。
(2)同上書、135ー136頁。
(3)例えば、西田龍雄・NHK取材班著『NHK大黄河 第二巻〜異境の民とオルドス   の興亡』日本放送協会、1986年第1刷、または、西田龍雄著『アジア古代 文字   の解読』中央公論社、2002年初版など。
(4)石濱裕美子編著『チベットを知るための50章』明石書店、2004年、75ー76頁。
(5)例えば、陳舜臣・樋口隆康・NHK取材班著『シルクロード ローマへの道 第7   巻 パミールを越えて パキスタン・インド』(日本放送協会、1983年)の第4章   に写真入で仮面劇の紹介がある。
(6)石濱裕美子、前掲書、48頁。
(7)同上書、77頁。
(8)同上書、69ー70頁。
(9)河口慧海著、長沢和俊編『チベット旅行記』白水社、1983年第8刷(1978年第1   刷)及び河口慧海著『第二回チベット旅行記』講談社、1981年第1刷。
 
2.中華人民共和国建国後のチベットの状況
 
(1)マイケル・ダナム著、山際素男訳『中国はいかにチベットを侵略したか』講談社、2008  年第6版(2006年初版)。
(2)同上書、86頁。
(3)A.L.ストロング著、西園寺公一訳『チベット日記』岩波書店、1961年第1刷。
(4)ダナム、前掲書、134ー135頁。
(5)石濱裕美子、前掲書、294ー295頁。
(6)ダナム、前掲書、105ー106頁。
(7)『朝日新聞』2008年6月6日付け朝刊、8面。
(8)『朝日新聞』2008年6月5日付け朝刊、8面。
(9)『世界』岩波書店、2008年7月号、no. 780、69ー70頁(興梠一郎・朱建栄・東郷   和彦「座談会 日中は新たな関係を築くことができるか―胡錦濤訪日の意義」)。
 
3.付言
 
(1)田島英一著『「中国人」という生き方―ことばにみる日中文化比較』集英社、2001   年、 185頁。
(2)マイケル・ダナム、前掲書、 233頁。
 
おわりに
 
(1)『北海道新聞』2008年5月25日(日)付。
(2)マイケル・ダナム、前掲書、 274頁。
 
参考資料
 
下中邦彦編『世界大百科』平凡社、1967年3月28日 初版第3刷、(1966年8月15日初 版)。
新村出編『広辞苑 第6版』岩波書店、2008年1月11日 第6版第1刷 。
天児慧・石原享一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎『岩波現代中国事典』岩波書 店、1999年。
白川静著『字統』平凡社、2000年4月5日 新装版第三刷(1994年3月10日 初版第一 刷)。
ダライ・ラマ著、木村肥佐生訳『チベットわが祖国ーダライ・ラマ自叙伝ー』中央公論社、 1989年。