資治通鑑

 

巻第二百一十七              ( 156922頁)

                  渡辺 理 訳

 

*安史の乱勃発

 

 唐紀三十三(閼逢敦牂[エンホウトンソウ](甲午)から柔兆涒灘[ジュウチョウトンタン](丙申)による4月、凡そ2年余りの記録)。

玄宗が大聖大明孝皇帝を称するに至るまでの内容。

 

十三戴(甲午、754

 

 1.新春、巳亥(1月30日水曜日節分)、安禄山が朝廷に参内した。この時、楊国忠は安禄山は必ず謀叛を起こすでしょう、と言い、更に「陛下、試しに安禄山をお召しください。きっと来ないでしょう」と言上した。玄宗は安禄山を呼ぶために使者を送ったところ、安禄山は命を受け直ぐに参上したのだった。庚子(1月31日木曜日)、華清宮にて玄宗に謁見し涙ながらに訴えた。「臣は胡人(異民族)の身ながらも、陛下のご寵愛によりここまで出世できました。そのため、楊国忠から憎まれました。臣は日を待たず死を賜ることでしょう!」玄宗は憐れに思い、多額の恩賞を下賜した。この一件から玄宗は安禄山を益々信頼する一方、楊国忠の言葉を受け入れなかった。皇太子も安禄山が必ず謀叛を起こす、と言ったが聞き入れなかった。

 

 2.甲辰(2月4日月曜日)太清宮で学士(崇玄館の)・李其が次の様に上奏した。「玄宗皇帝陛下が紫雲に乗っているのが見えます。国が長く繁栄するとのお告げです。」と。

  

 3.唐の初め、勅書は中書省(注1)や門下省(注2)の文才豊かな高い官僚が担っていた。乾封(注3)年間(666-668頃)以降、元万頃、范履冰らを始めとする文士を召喚して、諸文辞の草稿を書かせるようにした。彼らはいつも北門を出入りしていたので、時の人々は「北門学士」と称した。中宗の治世では、高官の昭容がこの仕事を専有した。玄宗が即位すると、始めに禁廷(宮中。禁裏)のすぐそばに翰林院(注4)を設けた。文章の担当者のみならず、下は僧侶、道士、書家、画家、琴の演奏者、棋士、数術の匠をみな、ここに居住させた。これを「侍詔」と言う。刑部尚書・張均も、弟で太常卿のじ(土へんに自)も、翰林院供奉だった。玄宗は安禄山を同平章事(注5)に加えたいと思い、張じ(土偏に旁は自)に急いで辞令を準備(注6)させた。すると楊国忠が諫めて言った。「禄山に軍功があると言っても、文盲です。どうして宰相にすることができましょうか。もし宰相の命令書(注7)として出されようものなら、周辺の異民族は唐を軽侮する虞があります」。玄宗はすぐ取りやめた。乙巳(2月5日火曜日)、禄山を左僕射(左大臣)とし、息子らにそれぞれ三品、四品の官位を下賜した。

 

  注1) 中書省:唐代では皇帝の発する命令(勅書)の内容を決める権限を有する。皇帝の秘書的存在であり、宰相の職と呼ばれる。

  注2) 門下省:唐代では臣下の上程した上奏文の審議および中書省の起草した詔勅の審議を職掌とする。だが、時代の経過とともに、中書省に権限を吸収される。

  注3) 乾封:唐・高宗の治世に用いられた元号。666年旧正月〜668年旧暦3月の期間。

  注4) 翰林院:勅書の起草に当たった役所。738年(開元26年)に唐の玄宗が翰林学士院を設けたのが起源。

  注5) 同平章事:同中書門下平章事の略。宰相にあたる官職の名。中書と門下を合わせた官の意。

  注6) 草制:草以(手偏が付く)制書。<新唐書・薛元超伝>“省中有盤石、道衡為侍郎時、常据以草制、元超毎見輒泫然流涕”

  注7) 制書:おふれ。宰相の命令書。

 

  4.丙午(2月6日水曜日)、玄宗は華清宮(華清池にある宮殿)に戻った。

 

5.安禄山は(節度使として治める領地で)閑厩・群牧の兼任を(玄宗に)要求した。甲辰(2月2日月曜日)、禄山を閑厩・隴右の群牧の節度使に(玄宗は)任じた。禄山はさらに、総監の兼務も要求した。壬戌(2月22日金曜日)、総監の兼務も任じた。禄山は、御史丞(監察官の長官)・吉温を兵部侍郎として閑厩副使とするように上奏した。楊国忠はこれ故に温を憎んだ。禄山は信用できる側近を密かに派遣し、壮健な軍馬を千頭選ばせ、別途飼育させた。

 

  6.2月、壬申(3月4日月曜日)、玄宗は朝献(注)を受けた。上(玄宗)聖祖は大聖祖高上大道金闕玄元大皇太帝の尊号を称した。癸酉(3月5日火曜日)、太廟を訪れ、高祖を神堯大聖光孝皇帝、太宗を文武大聖大広孝皇帝、高宗を天皇大聖大弘孝皇帝、中宗を孝和大聖大昭孝皇帝、睿宗を玄真大聖大興孝皇帝と諡をした。漢の諸帝皆に、諡に「孝」の文字が入っているのに因む。甲戌(3月6日水曜日)、群臣が玄宗に、開元天地大宝聖文神武証道孝徳皇帝の尊号を唱え、天下に知らしめた。

 

  注) 朝献:天子に接見して貢ぎ物を奉ること。

 

7.丁丑(3月9日土曜日)、楊国忠は司空(注)に昇進し、甲申(3月16日土曜日)、軒に吊して公布した。

 

  注) 司空:役職としては最高位に相当する。

 

  8.巳丑(3月21日木曜日)、安禄山が次の様に上奏した。「臣(わたくし)所属の将士は、奚、契丹、九姓、同羅などを討ち、非常に多くの武勲を上げてきました。破格の恩賞や昇進をどうか臣(わたくし)の軍に賜りますことを強く願い奉ります。」安禄山を除く将軍で500人余り、中郎将で2000人余りに及ぶ。禄山は謀叛を企てていたので、先に部下を手なずけようとしたのだった。

 3月朔(ついたち、太陰暦の記録)、丁酉(3月29日金曜日)、禄山は范陽(都より北東へ2500里。現在の河北省州市)へ帰還する前に拝謁した。玄宗は御衣を脱ぎ、禄山にこれを賜れた。禄山はこれを受け取り驚き喜んだ。楊国忠が留めるように上奏するのを恐れ、疾駆して関を出た。乗船して河を下る際、船夫に板を縄で縛り、岸に向けて立てかけさせた。15里(約60/h)もの速度で昼夜を問わず航行したので、一日に数百里(中国の1里で約500m)も進んだ。いくつもの郡県を通過しても船を下りようとしなかった。これによって禄山は謀叛を企てていると訴えるものは皆、捕らえられ入牢の憂き目にあった。そのため、皆、禄山が謀叛を企てていることは分かっていたが、敢えて言う者はいなかった。

 禄山が長安を発つ際、玄宗は高力士を長楽坡まで見送りさせた。帰還後、玄宗は尋ねた。「禄山は心穏やかだったか?」高力士は答える。「見たところ、さっぱりと落ち着いてました。宰相に取り立てるのを取り止めた件、間違いなく知っています。」と。玄宗はこのことを楊国忠に告げたところ、国忠は次の様に言った。「この件は他の者は知りません。張じ(土偏に自)兄弟が告げたに決まっています。」と。玄宗は怒って、張均を建安太守に、じ(土偏に自分の「自」)を廬渓司馬に、じ(土偏に自)の側近の給事中叔(叔には土偏が付く)を宜春司馬にそれぞれ左遷した。

 哥舒翰の部下達も論功を得ていた。勅により、隴右(州。現在の青海省西寧市)十将から火抜州都督、燕山郡王の火抜帰仁を驃騎大将軍と特進し、河源軍使の王思礼も特進し、臨洮太守の成如璆(せい・じょきゅう)、討撃副使で范陽の魯Q(ろ・けい)、皋蘭府都督の渾惟明を雲靡将軍に加え、隴右討撃副使の郭英乂を左羽林将軍とした。英乂は知運の子息である。翰はさらに厳挺之の子息・武を節度判官に、河東(現在の山西省太原市)の呂煙(「えん(煙)」は火偏でなく言偏)を支度判官、元・封丘尉・高適を掌書記、安邑の曲環を別将とすべきと上奏した。

 

  9.程千里が阿布思(アブス)を捕らえ、闕(注1)の下に引き出し、斬った。甲子(4月25日木曜日)、千里を金吾大将軍、封常清を権北庭(注2)都護、伊西節度使とした。

 

   注1) 闕(que[第4声]):1)宮門前の両側にある望楼;<>帝王の住まい、2)廟や陵の前に立つ石の彫刻

  注2) 参考までに北庭節度使が当時庭州と呼ばれ、現在の新疆吐魯番(トルファン市)にあった。

 

  10.夏(旧暦での表記。古い表現で、中国をさす意味に非ず)、4月、癸巳(5月14日火曜日)、奚を撃破し、その王・李日越を捕虜とした、と安禄山は玄宗に報告した。

 

  11.6月朔(ついたち)、乙丑(6月25日火曜日)、日蝕が起こったが、鉤のように太陽が残る部分日蝕だった。

 

  12.侍御史(官僚の監察・弾劾を担う)が剣南に滞在後、李宓(楊国忠の領地である剣南の節度使)が7万の軍勢を率いて南詔(今の雲南省方面)を討伐した。閤羅鳳は、太和城深くまで誘い込ませ、守りを固めて積極的に打って出なかった。宓の軍は食糧が尽き、士卒は伝染病や飢餓で7,8割が死に 敗走した。南蛮軍はこれを追撃し、宓は捕らえられ、全軍壊滅した。楊国忠はその敗戦を隠し、戦勝と上奏した。その上、敗戦の報を聞いて直ぐに、本国から兵を増派するも、その戦死者は20万人前後に上った。だが、楊国忠に敢えて派兵中止を訴える者はいなかった。玄宗は以前高力士に言った。「朕は今や老いさらばえているが、朝廷のことは宰相に託し、辺境のことは諸将に託している。なんの憂いがあるというのか!」 高力士は答えて言った。「臣は度々師団が全滅していると聞いています。また、辺境の将軍は大軍を擁しています。陛下はどうやって制御されるといううのですか!臣は一旦、禍が起きたら、事態収拾ができなくなることを憂えています。どうして憂いがないといえるのでしょうか!」玄宗は言った。「卿よ、もう何も言ってくれるな。朕はゆっくり考えて見る。」

 

13.秋、7月、癸丑(8月12日月曜日)、哥舒翰が上奏した。「九曲の開発した土地に洮陽、澆河の二つの郡及び神策軍を置き、臨洮太守・成如璆に洮陽太守を兼任させ、神策軍使に充てましょう。」

 

14.楊国忠は陳希烈を疎んじていたので、希烈は度々辞意を表明していた。玄宗は武部侍郎・吉温を彼と交代させようと思ったが、温は安禄山に同調するので、楊国忠はこれを不可と上奏した。文部侍郎・韋見素は人当たりがよく御しやすかったので、彼を推薦した。8月、丙戌(9月14日土曜日)、陳希烈を太子太師として任じ、政(まつりごと)から遠ざけた。見素を武部尚書、同平章事とした。

 

15.去年から水害や旱魃が相次ぎ、関中(国内)は深刻な飢饉だった。楊国忠は、京兆尹(注)・李峴が自分に靡かない(自分を支持しない)ので、とても嫌っていた。そこで、災害による損害の咎(罪)を峴のせいにし、9月、長沙の太守(都から南に2445里離れている)に左遷した。峴は禕(開元初頭、軍功があり玄宗から寵愛されていた)の子息である。玄宗は長雨で穀物の収穫量が低下することを憂えていたが、楊国忠はよく熟れた稲穂を献上して、言った。「雨が多いと雖も、収穫に害をなすほどではありません。」玄宗は安心した。扶風(扶風郡、岐州、今日の陝西省宝鶏市周辺)太守・房琯が水害の被害を訴えたところ、楊国忠は御史に事態の責任を押し付け、(復旧作業を)繰り延べにさせた。この年、天下に災害について直言するものはいなかった。高力士が側にいるので、玄宗は言った。「忌々しい雨が止まない、遠慮無く言い給え。」答えて言う。「陛下は宰相に権限を与えたものの、その賞罰は不公正です。陰陽のバランスは崩れています。臣に何を申せとおっしゃられるのですか!」玄宗は沈黙した。

 

注) 京兆尹:京師近郊を管轄する行政長官の官名。

 

16.冬、十月、乙酉(1112日火曜日)、玄宗は華清宮を行幸した。

 

17.十一月、己未(1216日月曜日)、内侍監(宦官を監視する役職)2名を配置する。官位は正三品である。

 

18.河東太守兼任本道采訪使(主要道路視察官)・韋陟は斌の兄であり、教養が高いことでとても評判が高かった。楊国忠は彼が閣僚入りすることを恐れ、某人に彼が汚職したと誣告させ、御史に引き渡して訊問させた。陟は中丞・吉温に賄賂を送り、安禄山へ救いを求めさせようとしたが、これも楊国忠の知るところとなった。閏月、壬寅(755年1月28日火曜日)、陟は桂嶺尉(今日の桂林周辺の武官)に、温を澧陽(都の東南1893里)の長史(事務官)に左遷した。安禄山は温の冤罪と楊国忠の讒言を唱えたが、玄宗はどちらも聞き入れなかった。

 

19.戌午(755年2月13日木曜日)、玄宗は宮殿に戻ってきた。

 

  20.この年の統計調査の報告によると、全国で郡は321,県は1538,郷は1万6829、戸数は906万9154,人口は5288万488、であった。

 

十四戴(乙未、755

 

  1.春、正月、蘇毗(su-pi、吐蕃王国の属国、チベットの北部にあった)の王子・悉諾邏(xi-nuo-luo,シイ-ヌオ-ルオ)が吐蕃から来訪した。

 

  2.2月、辛亥(2月6日木曜日)、安禄山が副将の何千年を使者として宮廷に派遣した。漢民族の将に代えて異民族の将を32名登用することを要請した。玄宗は直ぐに勅命を立案し、実行した。韋見素は楊国忠が言わんとすることを述べた。「禄山は前々から二心を抱いていました。そして今、今回の要請があり謀叛の意志は明白です。明日見素めが帝に申し上げます。もし帝が承諾しなければ、宰相殿が後に続いておっしゃってください。」楊国忠は許諾した。壬子(2月7日金曜日)、楊国忠と韋見素は揃って玄宗に謁見した。玄宗は迎えて言った。「卿らは禄山に邪心があると疑っているのであろう?」見素が謀叛の痕跡があり、禄山の要請を許可してはなりません、と訴えた。玄宗は不機嫌となり、楊国忠は言おうか言わないか迷っていた。結局、玄宗は禄山の要請を聞き入れた。後日、楊国忠と韋見素は玄宗に言った。「臣(わたくしめ)に坐したまま禄山の謀を消す策があります。今もし禄山から平章事(注1)の職を解き、宮城を詣でるように呼び、賈循を范陽節度使に、呂知晦を平廬(ここでは営州[現在の遼寧省朝暘県]に設置された藩鎮を指す)節度使に、楊光を河東節度使にすれば、その勢力は自ずと分かたれます。」玄宗は、この案を承諾した。だが、すでに辞令の準備は整っているにもかかわらず、玄宗は手元に留めておき辞令を発せず、更に中使輔・を派遣して素晴らしい品を賜り、心の変化を探った。璆琳は禄山からたっぷりと賄賂を受け取り、帰還後、禄山は忠義報告の臣であり、二心はない、と誇大に報告した。「禄山こそ、朕が誠意をもって応対している。二心など有ろう訳はない。東北の二つの異民族は、禄山が制圧しているのだ。朕自らが禄山のことを保証しよう。卿らは憂えることなかれ!」結局、沙汰止みとなった。循は華原人(今の陝西省朝邑県西の人)で、この時、節度副使だった。

 

注1) 平章事:同中書門下平章事の略。宰相に相当する権限を付与した官職。節度使にも名誉称号として与えていた。

 

3.隴右及び河西(涼州。現在の甘粛省武威市)の節度使・哥舒翰が入朝したが、道中風邪を引き、結局都に留まったまま、外出しなかった。

 

4.三月、辛巳(3月8日土曜日)、給仕中(門下省に属する正五品の清官)・裴士淹を河北宣慰使(河北の辺境地帯における武官)に任命した。

 

  5.夏、4月、安禄山が、奚と契丹を撃破した、と報告してきた。

 

6.癸巳(5月19日月曜日・小満)、蘇毗(su-pi)の王子・悉諾邏(xi-nuo-luo,シイ-ヌオ-ルオ)を懐義王とし、李忠信の名を与えた。

 

  7.安禄山は范陽まで帰還すると、朝廷から使者が来る度に皆、病気と称して出迎えようとせず、武備を盛大に見せびらかしてから、面会するようになった。裴士淹が范陽に到着しても、20日余り会おうともせず、臣としての礼など無かった。楊国忠は昼に夜に禄山の謀叛の動向を探索していた。京兆尹に第(屋敷、邸宅)を包囲させ、禄山の人士・李超らを捕らえ、御史台の牢獄送りとしてから、密かに殺した。禄山の息子・慶宗は宗女・栄義郡主を尊重し、都で公務に当たっていた。密かに禄山にその事情を知らせた。禄山はとても驚いた。6月、玄宗は禄山の息子の結婚を理由に、自ら勅書を書き送ったが、禄山は病気を理由に参上しなかった。秋、7月、禄山は馬3千頭を献上すると表明し、馬1頭に2人の世話担当軍人が轡をとり、22人の異民族の将軍が輸送すると言うのである。河南尹(洛陽を含む郡の長官)・達奚はきな臭いことがあると疑い、上奏して願い出た。「禄山には馬の進呈は冬まで待つべきであり、運搬担当員は役人が担当するので、本隊の軍人の手を煩わせるまでもない、と諭しましょう。」と。ここに至って玄宗は少し目が覚め出し、ようやく禄山に疑念を抱くようになった。かつてが収賄をしていた事実が世に漏れると、玄宗は他の罪状にかこつけて輔を撲殺の刑に処した。玄宗は中使・馮神威を禄山のもとに手招きして諭すために派遣した。の献策に基づいて次の様に言った。「朕は、卿のために新たに温泉を設けた。10月、華清池にて卿を待つ」と。神威が范陽に到着しその旨を宣告すると、禄山はベッドから少し体を起こしただけで,拝礼もせず言った。「聖人は平穏ですか」そして「馬は献上できないが、10月きっかり京師に参詣する」と。そして神威を館舎に置くように側近に命じ、二度と面会しなかった。数日して帰還させたが、見送りもしなかった。神威は朝廷に戻り玄宗に謁見すると、泣きながら言った。「臣はもう皆の者に会えないかと思いましたぞ!」と。

 

  8.8月、辛卯(9月15日月曜日)、今年の租庸を免除した。

 

  9.冬、十月、庚寅(1112日水曜日)、玄宗は華清宮へ行幸した。

 

 10.安禄山は密かに三道を抑え密かに謀叛の企てを準備してから、ほぼ十年、厚く寵愛されていたので、玄宗が崩御するのを待ってから謀叛を起こそうと考えていた。以前から楊国忠と安禄山とは相性が悪く、禄山が謀叛を興すと、しばしば玄宗に訴えてきたが、玄宗は聞く耳を持たなかった。楊国忠は度々禄山を刺激して、早く謀叛を興させることで玄宗の信頼を得たいと欲していた。禄山はこれによって急いで謀叛を興すことを決意し、孔目官(公文書目録担当官)・太僕丞(軍馬を管轄する役人)の厳荘、掌書記(秘書官)・屯田員外郎(主税助[ちからのすけ]と同義。民部省被官)の高尚、将軍の阿史那承慶(注1)

(アシナチョンチン)とだけ密かに謀議し、他の将兵には知らせなかった。ただし、8月以降、しばしば士卒に酒食を振る舞ったり、馬に秣(馬草;まぐさ)を多く与えたり、兵卒の鍛錬が増えたことを訝しむ(奇異に思う)ばかりだった。やがて奏事官(勅書をもたらす役人)が京師(都)から帰還すると、禄山は偽の勅書を作成して、諸将を全員招集してこの偽勅書を示して言った。「禄山は将兵を率いて入朝し、楊国忠を討伐せよ、との密旨が下った。諸君は直ちに従軍せよ。」と。一同は驚愕してお互い顔を見合わせたが、敢えて異論を唱えるものはいなかった。11月、甲子(1216日火曜日)、禄山は指揮下の同羅、奚、契丹、室韋に号令を発し、凡そ15万が集結し、合計20万の軍勢となった。范陽にて反乱軍が蜂起した。

 詰朝(朝廷を訪問する意味。ここでは朝廷に向けて進軍を意味する。)するため、禄山は(現在の北京)城の南から出発した。大規模な閲兵式の場で軍勢に向け誓いを立て、楊国忠討伐を名目とし、全軍に告示した。「異議を扇動する者は三族まで斬る!」と。そして兵を率いて南下した。禄山は鉄の輿に乗り、歩騎は精鋭で、煙塵は千里にわたり、太鼓の音は地を震わした。天下泰平の世が続き、人々は何代にもわたって戦争を知らなかった。突如、范陽から謀叛が起きたと聞いて、遠くの人まで震え上がった。河北は皆禄山の統治する領内なので、通過する州や県では、見張りは瓦解し、太守や県令の中には城門を開けて迎え入れる者もいれば、城を棄てて逃げ出す者もいたり、あるいは捕らえられて殺される者がいたものの、敢えて禄山に抵抗した者はいなかった。禄山は将軍・何千年と高に奚の騎兵隊20を与え先遣部隊とし、腕利きのスナイパー(弓使い)に馬を乗り継ぎ太原へ集結するように伝言を発した。乙丑(1217日水曜日)、北京副留守・楊光が出迎えたので、拉致し連行した。太原の太守からは具体的に状況を上奏してきた。東で降伏した城からも、禄山の謀叛を上奏した。玄宗はなおも禄山を憎む者の虚偽として、信じなかった。

 

  注1)a(1)shi(3)na(4)cheng(2)qing(4))

 

 庚午(1222日月曜日)、玄宗は安禄山が確かに謀叛を興したことを聞き、宰相を召してこの件の審議をした。楊国忠は得意げに言った。「今、謀叛を興したのは禄山一人のことであり、将士は誰も禄山に従いたくありません。旬日(10日間)以内に、必ずその首が行在所に届けられましょう。」と。玄宗は納得したが、大臣達はお互い顔を見合わせ不安を覚えた。玄宗はを特進させ東京(洛陽のこと)へ、金吾将軍・程千里を河東へ派遣し、それぞれ数万人をかき集めて、結集しながら抗戦に従事した。辛未(1223日火曜日)、安西(亀茲[キジ]。現在の新疆庫車[クチャ]市)節度使・封常清が入朝した。玄宗が賊軍討伐の方略を尋ねると、常清は大言壮語で言った。「今は泰平の世が長く続いたので、人は見張りをしても賊軍にひるむのです。しかしながら、物事には逆順があるもので、勢いは変わるものです。臣が馬を走らせ東京にある開府の建物へ行き、勇猛な兵士(注)を募り、馬に鞭打ち渡河して賊軍に挑めば、数日の内に逆賊たる胡人の首を宮殿に献上しに参ります!」と。玄宗は悦んだ。壬申(1224日水曜日)、常清を范陽と平廬の節度使に任命した。常清はすぐに馬を乗り継いで東京へ行き、兵を集めた。10日間で6万人に達した。そして、河陽橋を断ち、防御の備えをした。

 

  注) 驍勇(xiao(1)yong(3));勇猛である,勇ましくて強い

 

 甲戌(1226日金曜日)、博陵(現在の河北省保定市にあった県)の南まで進軍した。何千年らは捕らえていた楊光を禄山に引き合わせた。楊光が楊国忠に従ったことを責め、宣告してこれを斬った。禄山はその将軍・安忠志を精鋭部隊の責任者にした。忠志は奚の出身で、禄山が養子として育てていた。また、張献誠を博陵太守代理に任じた。献誠は守珪の子息である。

 禄山は城まで進軍した。常山(現在の河北省正定県)太守・顔杲卿は抗戦力がなく、長史(行政長官。国介)・袁履謙とともに出迎えた。禄山は顔杲卿に金紫の衣(皇帝しか着ることの許されない色の衣である)を下賜するとすぐに、その子弟を人質にし、常山の守りに従事させた。またその将・李欽湊に数千の兵を与えて井陘口を守らせ、西から来る諸軍に備えた。顔杲卿は帰途、その衣を挿して袁履謙に言った。「なんのためにこれを着るのか。」と。履謙はその意味するところを悟り、密かに杲卿と禄山を誅討するために挙兵の謀略を練った。顔杲卿は、思魯の玄孫である。

 丙子(1228日日曜日)、玄宗が宮殿に帰還した。太僕(兵馬を管轄する役職)・安慶宗(安禄山の子息)を斬り、栄義郡主(安慶宗の妻)に自害の命を与えた。朔方(霊州。現在の寧夏回族自治州霊武市)節度使・安思順を吏部尚書に、思順の弟・元貞を太僕卿に任じた。朔方右廂兵馬使・郭子儀を朔方節度使とし、右羽林大将軍・王承業を太原尹とした。河南節度使を設置し、陳留(現在の河南省開封市南東郊外。古来より交通の要衝)など13郡を領有するものとし、衛尉卿氏の張介然をこれに任じた。程千里を潞州(現在の長治市あたり。山西省南東部に位置する。)長史とした。

 丁丑(1229日月曜日)、栄王琬を元帥とし,右金吾大将軍・高仙芝を副官とし、諸軍をまとめ東征の準備をした。内府の銭帛を拠出し、京師で11万人の兵を募集した。天武軍と号した。10日間で兵を集めたが、皆市井の子弟であった。

 12月、丙戌(756年1月7日水曜日)、高仙芝が飛騎(羽林軍の拡充によって出来た部隊)・騎(従来の府兵に平民を採用し軍務の期間を短くしたり報酬を鎮守負担とした兵士)及び新しい募兵(傭兵)、京師に配備されていた辺兵(辺境を守備するための兵士)合わせて5万人を率いて長安を発った。玄宗は宦官の監門将軍・辺令誠をその軍の監視のために派遣した。陝に駐留した。

 

  11.丁亥(756年1月8日木曜日)、安禄山は霊晶(当時、滑州東部にあった郡名。現在の河南省安陽市に位置する滑県の一地方)から渡河した。壊れた船や草木を縄で縛り河を断つように横たえたところ、一晩で凍結し、浮き橋のようになった。遂に霊晶郡を陥落させた。禄山の歩騎は統制が取れておらず、その数を知る人はいなかった。その軍が通過する所で、略奪をはじめ残酷な破壊が行われた。張介然が陳留に到着してほんの数日して禄山が進撃し、兵を差し向け城に乗り込んできた。皆恐れおののき、とても持ちこたえられそうもなかった。庚寅(1月11日日曜日)、太守・郭納は降伏した。禄山は北郭に入り、安慶宗の死を聞き、慟哭して言った。「我が何の罪で、我が子を殺されなければならないのか!。」と。この時、来た道には降伏した陳留の将士一万人近くいた。禄山は怒りのままに皆殺しにした。軍門にて張介然を斬った。その将・李庭望を節度使に任じ、陳留の防衛に当たらせた。

 

  12.壬辰(1月13日火曜日)、玄宗は臣下の意見を制して親征(天子自らが軍を率いて遠征すること)したがり、城堡の外を守備していた朔方、河西、隴右の兵を皆、行営(陣屋)に赴かせ、節度使自らが将となりこれを率いることとなった。二十日かけて集結した。

 

  13.初め、平原太守・顔真卿は、安禄山の謀叛を知ると、長雨を利用して、城の周囲の堀を完備し、成年男子の官吏をし、倉庫に食糧を満たした。禄山は顔真卿を書生として甘く見ていた。禄山が謀叛を興すに及び、顔真卿の元に通達が来た。平原(現在の山東省徳州市平原県)と博平(現在の山東省聯城市県博平鎮)の兵7千で河津(現在の山西省河津市。同左省の南西部、運城市に位置する県級市)を防衛することである。真卿は平原司兵・李平を派遣し、李平は間道を通って上奏しに来た。玄宗は禄山の謀叛を興した当初、河北の郡県が皆風が靡くように降伏したと聞き、嘆いていった。「二十四郡に、一人の義士もいないのか!」と。李平が到着するに及び、玄宗は大喜びで言った。「朕は顔真卿の事を何も知らないのに、こんなにも尽くしてくれるのか!」と。顔真卿は信頼できる人物を密かに諸郡に派遣し賊軍打倒の通達を届けた。これによって諸郡にそれに応ずる者が多く出た。顔真卿は、顔杲卿の従弟である。

 安禄山は栄陽(現在の河南省鄭州市の県)に向けて兵を率いた。太守・崔無は抵抗したが、禄山の士卒が城に乗り込み、軍鼓や角笛の音を聞くと、雨のように城から飛び落り逃げ出した。癸巳(1月14日水曜日冬の土用)、禄山は栄陽を陥落させた。崔無を殺し、その将・武令にこれを守らせた。禄山の権勢は益々拡張した。その将・田承嗣、安忠志、張孝忠を前鋒に任じた。封常清の率いる募兵は皆素人で、未だに訓練を受けていなかった。武牢(虎牢関)に駐屯し賊軍に抗戦した。賊軍は鉄騎をもってこれを蹴散らし、官軍は大敗した。常清は敗残兵をかき集め、葵園で戦うも、また敗れた。上東門内でも戦うが、また敗れた。丁酉(1月18日日曜日)、禄山は東京(洛陽)を陥落させた。賊軍は軍鼓を派手に鳴らしながら四方の門から乱入し、殺戮や略奪をにした。常清は都亭駅にて戦い、また敗れた。退却して宣仁門を防衛するも、また敗れた。苑西の壊れた牆から西へと逃走した。

 河南尹・達奚は禄山に降伏した。留守役・李とう(登に忄が付く)が御史中丞・廬奕に言った。「我々は国の重責を担っている。力でわないことは知っ分かっているが、決死の覚悟で賊軍と戦うべきだ!」と。廬奕は許諾した。李とう(登に忄が付く)は敗残兵数百で戦おうとしたが、兵は皆李とう(登に忄が付く)を置き去りにして逃げた。李とう(登に忄が付く)は一人府中に座った。廬奕はまず妻子に(印鑑)を託して間道から長安へと落ち延びさせ、朝廷の正装で台中に座った。左右の役人は皆ちりぢりに逃げた。禄山は閑厩で駐屯し、李とう(登に忄が付く)、廬奕それに采訪使・蒋清を捕らえさせ、皆殺しにした。廬奕は禄山を罵り、その罪状を数え上げ、賊党を顧みて言った。「およそ人として物事の逆順を知らねばならない。我は死しても節を失わない。どうして後悔し恨むことがあろうか!」と。李とう(登に忄が付く)は文水(現在の山西省呂梁市に位置する県名)の人。廬奕は懐慎の子である。蒋清は欽緒の子である。禄山はその仲間である張万頃を河南尹に任じた。

 封常清は敗残兵を伴って陝まで来た。陝郡太守・芝廷は、既に河東へ逃げだし、官民皆離散していた。常清は高仙芝に言った。「常清は連日血戦しましたが、賊の先陣を食い止めることができませんでした。それに潼関には兵がいません。もし賊どもが関に入ってきたら、長安は危険です。まず潼関(現在の陝西省西安市の東)より撤退して賊軍に抗戦したほうがよいでしょう。」と。高仙芝は潼関の西に偵察兵(斥候)を放った。賊軍は至る所を探索し、官軍は狼狽して逃げだし、部隊は持ち場に戻ることはなく、兵士や馬で踏みつけ合い、甚大な死者が出た。高仙芝が潼関に着き、守りを完備すると、賊軍が来ても、関に入れず去った。禄山はその将・崔乾祐を陝に派遣して駐屯させた。臨汝、弘農、済陰、濮陽、雲中の郡は皆禄山に降伏した。この時朝廷は諸道で兵を徴集していたが、まだ集まっていなかったので、関中では恐れおののいていた。禄山は皇帝を僭称し、東京から進軍しなかったので、朝廷は準備期間を得て、兵士も少し集まった。

 禄山は張通儒の弟・通を睢陽太守に任じ、陳留長史・楊朝宗と胡騎千余りで東方を攻略させた。郡県の官の多くは相手の勢いを察知して、降伏したり逃げ出した。ただ、東平(現在の山東省泰安市の県)太守嗣・呉王、済南太守・李随は挙兵し抗戦した。の弟である。賊に従わない郡県の人は、皆呉王を頼り大義名分とした。単父尉・は官民を率いて南下し睢陽を攻撃し、張通晤を斬った。李庭望は兵を率いて東進しようとしたが、この報を聞き、敢えて進軍せず引き返した。

 

  14.庚子(1月21日水曜日)、永王・璘を山南節度使に、江陵長史・源を副使に任じた。穎王・げき(「激」の部首が氵の代わりに王)を剣南節度使に、蜀郡長史・崔円を副使に任じた。二王とも高閣を出なかった。は光裕の子である。

 

  15.玄宗は親征を討議していた。辛丑(1月22日木曜日)、臣下の意見を制して皇太子を監国(注)に任じるとし、宰相に言った。「朕は在位50年にも及び、政務に憂勤(一生懸命心を尽くすこと)に情熱を持てなくなった去年の秋、皇太子に位を譲渡したかったが、水害や旱魃が相次いぎ、災害の後始末を子孫に押し付けたくなかったので、豊作になるまでは、と思いとどまったのである。不意に逆賊の胡人が乱を起こした。朕が親征を行い、太子が監国すべきである。乱を平定した日には、朕は枕を高くして後顧の憂いが無くて済む。」と。楊国忠は大いに恐れ、退出後、韓、、秦の三夫人に言った。「皇太子は昔から我が一族の専横を憎んでいた。もし帝位に就いたら、私も姉妹方も命がなくなるぞ!」と。ともに肩を寄せ合い泣いた。三夫人は楊貴妃に玄宗が宮廷に踏みとどまり、命を長らえるように説得させた。遂に玄宗は親征を思いとどめた。

 

  注) 監国;天子が地方を巡幸する間、太子が国政を代行すること。また、その任に当たる皇太子。

 

  16.顔真卿が勇士を募ると、10日間で1万人以上が集まった。真卿は、涙を流しながら、安禄山討伐挙兵の正当性を訴えた。士卒は皆、義憤を感じた。禄山は仲間の段子光に李とう(登に忄が付く)、廬奕、蒋清の首を携行させ、河北諸郡を見せしめのために巡行した。平原(現在の山東省徳州市平原県)まで来た壬寅(1月23日金曜日)、顔杲卿は段子光を捕らえ、見せしめに腰斬に処した。三人の首を取り、で作った身体に繋げ、棺桶に納めて埋葬した。泣哭が混じる慰霊祭で、弔われた。禄山は海運使・劉道玄が摂景城太守だったとして、清池尉・賈載と塩山尉河内・寧に道玄を斬らせた。これによって、甲杖船(武装船)50余艘を得た。そして道玄の首を携え長史・李に掲げ見せた。李は厳荘の宗族を拘束し、悉く誅殺した。この日、道玄の首が平原に送られた。顔真卿は戴、寧及び清河尉の張を平原に呼び寄せ軍事計略を練った。陽(現在の河北省衡水市の県)太守・廬全誠は城に立てこもって、交代を受け付けなかった。河間司法・李奐は禄山が任命した長史・王懐忠を殺した。李隋は遊将・嗣賢を済河に派遣し、禄山の任命した博平(現在の山東省聯城市県博平鎮)原太守・馬を殺した。それぞれの兵力は数千から数万にのぼった。共に顔真卿を盟主として推し、軍事は皆これに受け継いだ。禄山は、張献誠に上谷・博陵・常山・趙郡・文安の5つの軍から兵1万人を与え、陽を包囲した。

 

  17.高仙芝の東征において、監軍の辺令誠が度々干渉したが、仙芝は大部分従わなかった。辺令誠は上奏するため宮中に入り、高仙芝の言動や封常清の惨敗ぶりを具に語った上でこう言った。「常清は賊軍の戦力を大袈裟に吹聴して我が軍に動揺を与えました。仙芝は陝の領地数百里も放棄し、また我が軍の兵糧を着服しています。」と。玄宗は激怒し、癸卯(1月24日土曜日)、軍中において即刻、高仙芝と封常清を斬るように勅命を出し、辺令誠を派遣した。安禄山の謀叛当初、封常清がすでに敗戦した時、三度派遣された使者が賊軍の形勢を記した報告書を奉ったが、玄宗はそれら全てを見なかった。封常清は自ら宮中に出向こうとしたが、渭南まで来た時、官爵剥奪及び高仙芝の軍に戻り、自害するようにとの勅命が届いた。常清は遺書をめて言った。「臣が死んだ後、陛下が賊軍を甘く見ないことを希望します。どうか臣の言葉を忘れないで下さい!」と。この時の朝廷での会議では、皆禄山は(非常識で不道徳な言動をすること)のであり数日以内にその首が届くと考えていたので、封常清はこう言い残したのだった。辺令誠が潼関まで来て、まず封常清の身柄を引き取り、この勅命を読み上げた。常清は辺令誠の読み上げた勅書に従ったのである。常清は既に死に、その亡骸はゴザ(籧篨qu(2)chu(2)、きょじょ)に置かれ晒し者にされた。高仙芝が帰還し、このことを聞いた。辺令誠は百人余りの捜査官を自ら率いて、高仙芝に言った。「大夫にも勅命があります。」と。高仙芝が跪くと辺令誠は勅書を読み上げた。高仙芝は言った。「我が敵と遭遇し撤退したことは、死罪にあたるのはもっともなことである。だが、今天地神明に誓って、我が軍の兵糧をかすめ取ったことはでっち上げ(;故意に事実を偽って、告げること)である。」と。この時、目の前にいた兵士達は大声で「そうだ!これはでっち上げた!」と叫び、この声は大地を揺るがすほどであった。たが高仙芝は斬られた。将軍・李承光がその兵卒を代理で指揮下に置いた。

 河西・隴右の節度使である哥舒翰は病気のため退役し自宅にいた。玄宗は彼の威光を利用しようと考え、且つ、平素より禄山と不仲であることを知っていたので、哥舒翰を呼び寄せ謁見した。兵馬副元帥の位を授け、八万の兵を率いて禄山を討伐するよう命じた。また全国津々浦々に、兵を進め、洛陽(にいる賊軍)を攻撃せよ、と勅命を出した。哥舒翰は病気を理由に固辞したが、玄宗は許可しなかった。田良丘を御史中丞に任命し、行軍司馬(参謀長として戦闘指揮をする役割)を担当させた。起居郎・を判官に任じ、蕃将(異民族出身の将軍)・火抜帰仁らにそれぞれの部隊を率いて従軍させた。高仙芝の旧兵を併せて、合計20万の軍で潼関の防衛に従事した。翰の病は治らなかったので、軍政はすべて田良丘に委ねられた。良丘もまた決断力がなく、王思礼に主に騎兵を、李承光に主に歩兵を担当させたが、二人で主導権争いをして、統制がとれなかった。翰は容赦なく厳しく軍法を適用したので、士卒は皆、だらけてしまい(弛緩してしまい)、闘志が無かった。

 

  18.安禄山の大同軍使・高秀巌が振武軍を襲撃したが、朔方節度使・郭子儀が撃破した。子儀は勝った勢いに乗って静辺軍を圧倒した。大同兵馬使・薛忠義が静辺軍を襲撃した。子儀は、左兵馬使・李光弼、右兵馬使高、左武鋒使・僕固懐恩、右武鋒使・渾釈之らに逆襲させ、これを大いに打ち破り、その騎兵七千を生き埋めにした。進軍して雲中(現在の山西省大同市にあった古い県名)を包囲した。別の将軍・に2千騎を与え馬邑(現在の山西省朔州市。同左省の北西部に位置する)を攻撃させ、これを圧倒し、東陘関を開いた。甲辰(1月25日日曜日)、子儀を御史大夫に加えた。懐恩は、哥濫抜延の(ひまご)であり、代々金微(僕骨部とも。[石勒とも]の一部をなす北方騎馬民族)都督を務めていた。釈之は渾部の酋長で、代々蘭(現在の甘粛省蘭州市の県)都督を務めていた。

 

  19.顔真卿が挙兵し、参軍(軍事参謀)・馮虔、前真定例令・賈深、(現在の河北省石家荘市の市轄区)尉・崔安石、郡人・翟万徳、内丘丞・張通幽らは皆に加担した。また太原尹・王承業に使者を派遣し、密かに相通じていた。顔真卿は平原から杲卿の甥・を派遣し、顔杲卿に告げた。共同戦線をとって禄山の帰路を断ちたい。そうすれば、西から入り込もうとする思惑がはずれる。その時禄山は配下の金吾将軍・高を幽州で徴兵のために派遣していたが、まだ帰還していなかった。顔杲卿は禄山の命令と偽り李欽湊を招き、師団兵全員をご馳走するとして呼び寄せさせた。丙午(1月27日火曜日)、薄暮、欽湊がやってくると、杲卿の命令を受けた袁縷(糸偏でなく尸)謙と馮虔らが酒や妓女や楽団を携えて出向き、彼等の労をねぎらった。その師団全員が大いに酔った頃を見計らって、李欽湊の首をはね、その武装兵団は収容し、全員捕縛し、翌朝、これらを斬った。井陘(現在の河北省石家荘市に位置する市轄区)にいた賊軍は悉く逃げ去った。暫くして、高が幽州から帰還しに到着した。杲卿は馮虔を派遣しこれを捕らえた。また、南の境界から何千年が東京(洛陽のこと)から来たとの報告があった。崔安石と翟万徳が泉駅(現在の陝西省咸陽市礼泉県の旧称)から何千年を出迎えにはせ参じ、またしてもこれを捕らえた。その日の内に郡下まで護送した。何千年は顔杲卿に意見を求められたので言った。「今太守は王室のために尽力したいと望まれておられ、すでによくなり始めているので、ここは慎ましくまとめるべきです。この郡は、募集に応じた烏合の軍であり、この兵で敵に立ち向かうのは困難です。溝を深くし防塁を高くすべきであり、敵とまともに交戦すべきでありません。朔方軍の到着を待って、合同で進軍し、趙と魏に燕と薊の要衝を断て、と檄文を伝えるのです。更に今『李光弼が歩騎兵一万を率いて井陘に向け出発した』と宣伝し、その上で張献誠に使者を派遣してこう説得するのです。『貴殿が率いる配下の兵の多くは、固い鎧や鋭利な武器を装備していない。これでは剽悍な山西の兵とは戦えません』と。張献誠は必ず包囲を解いて逃げ出すことでしょう。これもまた、奇策の一つです。」と。杲卿は悦んでその策を採用した。張献誠は果たして逃げ去り、その兵団は潰滅した。杲卿は使者を派遣し、彼等を饒陽城に迎入れ、将士を慰労した。崔安石らに諸郡で次の様に触れ回らせた。「大軍はすでに井陘を軍門に下したぞ。朝夕にでも到着し、まず河北諸州を平定するぞ。早く降伏する者には賞を取らせるが、遅れを取る者は誅殺するぞ!」と。ここにおいて河北諸郡は喧伝に応じ、およそ17郡が朝廷に帰順した。その兵力は合計20万余りだった。一方、禄山に付いたのは、范陽、廬龍、密雲、漁陽、汲、鄴の六郡だけだった。

 顔杲卿はまた、密使を派遣し范陽にいたを招いた。陝城(現在の河南省三門峡市の市轄区である陝州)出身の馬燧が循を説得するために言った。「禄山は天子の恩義に背いた道義をわきまえない裏切り者である。洛陽を奪還したとはいえ、最終的には夷敵を潰滅させねばならない。公がもし勅命に従わない諸将を誅殺し、范陽を国に帰順させ、賊軍の根拠地を傾ければ、これは不世の功績である」と。はこれに納得したものの、なおもて実行に移さなかった。別将の牛潤容がこれを知り、禄山に報告した。禄山はその仲間の韓朝暘にを呼び寄せさせた。韓朝暘は内密の話があると招き、壮士に循の首を絞め殺させた。そしての一族を根絶やしにした。別将の牛延が范陽軍事になったことを通知した。史思明、李立節の両将軍は蕃、漢の歩騎兵1万人を率いて博陵、常山を攻撃した。馬燧は西山(北京にある山)に逃げ込んだ。隠者の徐遇がったので、難を逃れることができた。

 

  20.初め禄山自らが将となり潼関を攻めたかったのだが、新安(現在の河南省洛陽市にある県)まで来た時、河北で事変が起きたのを聞き、引き返した。蔡希徳が兵1万人を率いて河内を北上して常山を攻撃したのだった。

 

  21.戌申(1月29日木曜日)、栄王琬が薨去し、靖恭太子のが贈与された。

 

  22.この年、吐蕃の賛普乞梨蘇籠猟賛(さんふこつりそろうりょうさん)(注1)、が卒し、子の婆悉籠猟賛(ぼしつろうりょうさん)、(注2)が王位に就いた。

 

 (注1)zan(4)pu(3)qi(3)li(2)su(1)long(2)lie(4)zan(4))、ザン・プ・チィ・リ・スゥ・リェ・ザン)

 (注2)po(2)xi(1)long(2)lie(4)zam(4)、ポ・シィ・ロン・リェ・ザン)

 

 至徳元載(丙申、七五六)

 

  1.春、正月、乙卯(2月5日木曜日)朔、禄山は自らを大燕皇帝と称し、聖武と改元した。達奚を侍中に、張通儒を中書令に、高尚と厳荘を中書侍郎に任じた。

 

  2.李隋が(現在の河南省商丘市の市轄区)に到着した。兵力は数万だった。丙辰(2月6日金曜日)、李隋を河南節度使に任じ、前任の高要尉・許遠を太守兼防禦使に任命した。濮陽(現在の河南省濮陽市)の客・尚衡が禄山討伐のために挙兵した。郡人・王栖曜を衙前総管に任じ、済陰を攻め抜いた。禄山の将・邢超然を殺した。

 

  3.顔杲卿がその子泉明、深、万徳に李欽湊の首と何千年・高の身柄を京師へ献上させようとした。張通幽が泣きながら願い事を言った。「通幽の兄(通儒)は賊軍の手に落ち、捕らえられています。泉明と共に行くことをお願い申し上げます。宗族を救いたいのです。」と。杲卿は哀れに思いこの願いを許可した。一行が太原に到着すると、張通幽は王承業に取り入りたいと思い、彼に泉明等をこの地に留めておくように教えた。更に上奏文を書き、功績の多くを横取りし、顔杲卿を大した功績がないと誹謗した。それを別の使者を京師に派遣し献上した。顔杲卿は挙兵してからたった8日であり、守備はまだ完備されていなかった。そこへ史思明と蔡希徳が兵を率いて城下まで進撃した。顔杲卿は王承業に緊急事態を告げた。王承業は既に顔杲卿の功績を盗んでいたので、落城した方が都合がよいとして、遂に抱えている兵で救援しなかった。顔杲卿は昼夜を分かたず抗戦したが、兵糧も矢も尽きてしまった。壬戌(2月12日木曜日)、城は陥落した。賊はに1万人余りの兵を殺し、顔杲卿と袁履謙を捕らえて洛陽に送った。王承業の使者が京師に到着すると、玄宗は大喜びした。王承業を羽林大将軍に任命し、そので官爵を受けた者は、ゆうに百人を超えた。顔杲卿は忠誠の証として衛尉卿に任じられた。この朝廷からの命(めい)が届く前に、常山はすでに陥落していた。

 顔杲卿は洛陽まで護送されると、禄山は彼の罪状を数え上げて言った。「汝は范陽の戸曹にすぎなかったものを、我が上奏して判官に取り立ててやったおかげで、数年経たないうちに太守にまでなれたのだ。それなのに何故、汝は我に反逆したのだ?」と。顔杲卿はキッと睨み付けて罵った。「汝こそ、もとは営州で羊飼いをしていた(石勒[テュルク;トルコ系騎馬民族]出身の五胡の一つ)の奴隷だったものを、天子が汝を3つの節度使に抜擢した。他に類を見ないほどの恩幸を授かりながら、何故汝は謀叛を興したのだ?我は代々唐の臣下であり、禄も位も皆唐があってのもの。汝は我のことを上奏し推薦したというが、どうして汝に従って謀叛に加担できようか!我は国のために賊を討ったのだ。汝を斬れなかったことが恨めしい。それが何で謀叛なんだ!ど腐れの狗め、何でとっとと我を殺さないのだ!」と。安禄山は激怒し、袁履謙等共々中橋の柱に縛り付け(注1)した。顔杲卿と袁履謙は絶命するまで、安禄山ら賊軍を罵り続けた。顔氏一門は30人余りが刀鋸で殺された。

 

  注1) 冎(か);「人の肉を骨までそぎ落とす」という特殊な単語。(麻生川静男著『本当に残酷な中国史〜大著「資治通鑑」を読み解く』角川SSC新書、2014年9月25日、第1刷、76頁)

 

 史思明、李立節、蔡希徳は既に常山を克服し、兵を率いて諸郡の抵抗勢力を攻撃した。通過する所では非道の限りを尽くし、これまでに鄴、広平、鉅鹿、趙、上谷、博陵、文安、魏、信都等の郡は再び賊軍の手に落ちた。饒陽太守・廬全誠は一人賊軍に従わなかたので、史思明等はこれを包囲した。河間司法・李奐が将となり7千を率い、景城長史・李はその子であるの8千の兵を与え共に饒陽を救援しようとしたが、史思明に皆敗れた。

 

   4.玄宗は郭子儀に次の様な勅命を下した。「雲中の包囲を止めて、朔方に帰還し、兵を増強して東京奪還に向け進軍せよ。さらによい将軍を一人選び兵を分け与え、まず井陘を出て河北にねらいを定めよ。」と。子儀は李光弼を推薦した。癸亥(2月13日金曜日)、光弼を河東節度使とし、朔方の兵一万を分け与えた。

 

  5.甲子(2月14日土曜日)、哥舒翰に左僕射・同平章事の官職を加えた。残りの官職は現状維持だった。

                                                                             

  6.南陽節度使を設置し、南陽太守・魯をこれに任じた。嶺南、中、襄陽の子弟5万人を葉北(現在の河南省汝州市葉県の北部を指す)に駐屯させ、安禄山に備えた。魯を穎川太守兼防禦使に、龐堅を副使に任じた、と上表した。は元の太子・瑛の妃兄である。龐堅は玉の曾孫である。

 

  7.乙丑(2月15日日曜日雨水)、安禄山がその子慶緒に潼関を攻めさせたが、哥舒翰がこれを撃退した。

 

  8.己巳(2月19日木曜日)、顔真卿に対し戸部侍郎兼本郡防御使の位を加えた。真卿は李韋をそれらの位の副官とした。

 

  9.二月、丙戌(3月7日日曜日)、李光弼に魏郡太守と河北道采訪使の官位を加えた。

 

  10.史思明らが饒陽を包囲して29日になるが、落城できなかった。李光弼は蕃(異民族)と漢民族との歩騎混成部隊をを1万人余り、太原に駐留している弩(ボーガンのような武器)の使い手三千人を率いて井陘から出陣した。己亥(3月20日土曜日)、常山に着いた。常山の民間武装組織兵が胡兵三千人を殺し、安思義は捕らえられ、賊軍は投降していた。李光弼は安思義にいった。「汝は殺されて当然であると知らないわけあるまいな?」と。思義は答えなかった。光弼は言った。「汝は長く戦争をしているが、汝の目から我が軍を見て、史思明に敵うか否か?今我が軍のために何か計略を立てることができるか?汝の策が採用するに値するものなら、汝を殺さないでおく。」と。安思義は言った。「大夫の士卒や馬は遠方より来ていて疲弊しています。唐突に大敵と一戦交えれば、恐らく容易成らざる事態に陥ることでしょう。軍を遠くに移動させず入城し、早々に防禦を備え、まず勝算を立ててから、出陣すべきです。胡騎は精鋭といえども、落ち着きがありません。勝利を得られなければ、意気阻喪することでしょう。その時こそチャンスです。史思明は今、饒陽にいます。ここから二百里(中国の1里は500m。つまり、100q)も離れていません。昨夕の羽書(伝書鳩や雁書に当たる)がすでに往来しています。計算すると先鋒隊は明日早朝には必ず到着します。そして大軍が続いてやって来ます。この地に留まってはなりません。」と。李光弼は悦んでその縄を解き、即軍を入城させた。史思明は常山が官軍の手に落ちたことを聞き、すぐに饒陽の包囲を解いた。翌日の朝までに、先鋒隊は既に到着し、史思明らがこれに続き、合計二万の軍勢となった。直ちに城に向けて進撃した。李光弼は歩兵5千人を東門から出撃させ戦った。賊軍は城下に侵入して来た門を守り退かなかった。光弼は五百の弩兵に城の上から一斉に射掛けさせ、賊軍は少し退いた。そこで光弼は弩手千人を四隊に分け、矢を次々に浴びせかけさせた。賊軍は攻めることができず、道の北に軍を集結させた。李光弼は五千人を出兵させ、道の南に槍城をなし、と呼ばれる所に来て布陣した。賊軍は何度か騎兵で戦いを仕掛けたが、李光弼の兵がこれを射て、人馬の大半が矢に当たった。それで賊軍は退却し、歩兵を待つために小休止した。地元の村民が次の様に報告した。「賊軍の歩兵が饒陽から五千来ました。昼夜を分かたず170里を行軍し、九門(常山の東側に位置する)の南にある逢壁(急拵えの壁}で小休止しています。」と。李光弼は歩騎二千を派遣した。兵士等は旗や太鼓を隠し、水路に並行してこっそり進んだ。逢壁まで来ると、賊軍は食事中だった。思う存分攻撃し、これをした。史思明はこれを聞くと勢いを失い、退却して九門に入った。この時、常山の9県のうち7県は官軍に付いていた。九門と藁城だけが賊軍の支配下にあった。李光弼は裨将(将軍輔佐)・張奉璋に五百の兵を与え石邑を守りに派遣し、残った三百で常山を守らせた。

 

  11.玄宗は呉王を霊晶太守・河南都知兵馬使に任じた。は雍丘(現在の河南省杞県。杞憂の故事で有名な地)まで前進した。その数二千の兵である。これより先に焦郡(戦国時代中山国のあった場所。現在の河北省北部地区に相当する)太守・楊萬石が郡ごと安禄山に降伏し、真源(現在の河南省鹿邑県城を指す古い地名)令で河東の張巡に長史となり賊軍を西の拠点として迎えるように迫った。張巡が真源まで来ると、軍の最高司令官や官吏や民が玄元皇帝廟で哭泣し、賊軍討伐の挙兵をした。官民それに音楽演奏者など数千人が立ち上がり、張巡は千人の兵を選りすぐり、西の雍丘まで来て、と合流した。

 以前、雍丘令・令狐潮は安禄山に県ごと降伏した。賊は彼を将軍に任命し、東に進軍し淮陽(現在の河南省周口市に属する県)で襄邑(同左に存在していた県の名前)を救援に来た兵を打ち破り、100人余りを捕らえ、雍丘に抑留した。この将を殺し、李庭望との会見に出向いた。淮陽兵は遂に守護者を殺した。潮は妻子を棄てて逃走したので、はその間に雍丘に入ることができた。庚子(3月21日日曜日)、令狐潮は賊軍の精鋭を率いて雍丘を攻撃した。は出陣したが、敗北し死んだ。張巡は奮戦し、かろうじて賊軍を撃退した。だから、領地を兼務し、自ら呉王先鋒使と称した。

 三月、乙卯(4月5日月曜日)、令狐潮は再び賊将の李懐仙、楊朝宗、謝元同ら四万余の兵力で城下まで包囲した。兵士等は恐怖し、断固たる志を持てなかった。張巡は言った。「賊軍は精鋭だから、我々を甘く見ている。今出撃して不意を突けば、連中は必ず狼狽して潰れる。賊軍の勢いを削げば、当然、城を守れるぞ。」と。そして千人を城の防衛に参戦させた。自ら千人を率い、数隊に分け、開門して突撃した。張巡自らが士卒の先頭に立って、敵陣を直接襲撃した。人馬は驚きのあまり、持ち場を離れだし、賊軍は遂に退却した。翌日、賊軍は再び城に進攻した。百の砲台(礮;pao[4]、ほう、ひょう)を設けて城を囲み、高殿(たかどの)や堞(ひめがき)は皆破壊された。張巡は城の上に木の柵を立てて、敵の侵入を阻止した。賊軍は蟻のように城壁をよじ登ってきた。張巡は油脂に浸した藁束に着火して投げ落とし、賊軍が城に登ってくるのを阻止した。時には賊軍の隙をうかがって出撃したり、敵陣営に夜襲をかけたりした。六十日余りで大小三百余りの戦いが積み重なった。甲冑を着たまま食事をし、傷だらけになりながらも戦い続け、賊軍は遂に敗走した。張巡は勝ちに乗じてこれを追撃し、胡兵二千人を捕獲して帰還した。勝ち鬨(勝利の雄叫び)で大いに沸いた。

 

  12.以前、戸部尚書・安思順は禄山の謀叛を察知したので、入朝し上奏した。禄山が反旗を翻すに及んで、玄宗は安思順が前もって上奏していたので、これを罪無しとした。哥舒翰は日頃から安思順との間に隙間風があった。それで哥舒翰は禄山が思順に宛てたとする偽の手紙を捏造し、関門で思順を捕らえて偽の手紙共々献上した。そして、安思順の罪状を7つ挙げ、これを誅殺することを願い出た。丙辰(4月6日火曜日)、安思順と弟で太僕卿・元貞は連座で死罪となり、残された一族は嶺外に追放された。楊国忠は彼等を救うことができなかったので、哥舒翰を恐れ始めた。

 

  13.郭子儀は朔方に到着すると、よりよい精兵を選んだ。戌午(4月8日木曜日)、于代へ進軍した。

 

  14.戊辰(4月18日日曜日)、呉王が謝同元を攻撃し、これを敗走させた。この功により、陳留太守と河南節度使の官職を拝命した。

 

  15.壬午(5月2日日曜日立夏)、 河東節度使・李光弼を范陽節度使と河北節度使に任じた。顔真卿には河北采訪使の官職を追加した。真卿は、張を支使(官名。上役の指示に基づいて実行する役人)に任じた。

 まず清河の客・李がやって来た。年齢は20歳余り。郡人(注1)が師団の派兵を求めていることを顔真卿にて言った。「公は大義を唱え、河北諸郡は公のことを長城として頼みにしています。今、公の西隣に位置する(現在の河北省市に位置する県)は国家が普段、江・淮・河南の銭帛を集め、北軍に供給しており、『天下の北庫』と呼ばれています。今、この地には布三百余万、帛八十余万、銭三十余万緡(さし;銭を束にするために通す紐。それが数として表される)、食糧が三十万斛(さか;古代の体積の単位。1斛[さか]10[180リットル])あります。昔、(注2)を討伐した時、武器を清河庫に貯えました。今、その数は50余万あります。清河の戸数は七万、人口は十余万人です。概算すると、財力は平原の3倍、兵力は平原の倍以上です。公が誠に士卒を派遣し、これを慰撫すれば、2郡は腹心となり、残りの郡は四肢となり、思うままに役立つこと請け合いです。」と。顔真卿は言った。「平原兵は招集したばかりで、まだ訓練が十分になされていない。自分たちのことだけでも覚束ないのに、どうして隣のことにまで手を貸すゆとりがあろうか!しかしながら、仮にそなたの請願を受諾するとして、どうしようとするつもりかな?」と。李萼は言った。「清河が公に玄宗の命を受けて(銜命)拙者(私め)を使者として派遣したのは、清河が実力が無くて賊軍に嘗められているというのではありません。大賢として明らかに義に耳を傾ける人物であるか否かを観察するためです。今、ご意向を窺ってみたところ、未だに決断されるご様子ではありません。拙者がこれ以上何を言うことがありますか!」と。顔真卿はこの人物を奇貨(容易に得難い優れた人物[補注])と思い、この若者に兵を分け与えたくなった。しかし取り巻きの軍人等は李萼が若輩者だと軽んじ、に兵を与えても、必ず無駄になる、と意見した。真卿はやむを得ず、この提案を断った。李萼は館に着くと、再び顔真卿を説得するために書簡をめた。「清河が逆賊から去り、朝廷に従順であろうとして、軍資として食糧や布帛や兵器を献上しようとしているのに、公はこれを疑って受納しようとしない。拙者が帰還した後、清河は孤立できず、必ず賊軍と結託するでしょう。公の西隣に強敵が出現することになっても、公は後悔しませんか?」と。顔真卿はとても驚き、その館に出向き、李萼に兵六千を貸すことにした。境界まで見送り、手を取り合って別れた。顔真卿は質問した。「兵はすでに君の手にあるが、これからどうなさるおつもりか?」と。李萼は言った。「聞くところによりますと、程千里将軍が精兵十万を与えられ、賊軍討伐のため淳口(「じゅん」は氵でなく山偏;相州西山にある地名。現在の河南省安陽市にあたる)に出陣しました。しかし、賊軍が山の稜線づたいに官軍に抗戦すれば、程千里将軍は前進できません。今、兵を率いて先に魏郡(現在の河北省邯鄲市)を討ち、禄山が任命した太守である袁知泰を捕らえ、元の太守・司馬垂に治めさせ、西南主人として役立ってもらいます。兵を分け、淳口(「じゅん」は氵でなく山偏)を開き、程千里の軍勢の出口を確保します。汲(現在の河南省衛輝市南西に当たる)や(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を彼等が討つことによって、北の幽陵(現在の北京周辺)に至る郡県で官軍に降伏しないものも倒すことになります。平原・清河の諸同盟の軍勢は合計10万人になります。南に隣接する孟津(現在の河南省孟津県)は兵を分けて渡河し、要害を守ることで、北への退路を制圧します。東制する官軍は20万人を下らず、西へ向かう河南の義兵もまた10万人を下りません。公は朝廷に上奏文を書き守りを固めて、決して戦闘しないで下さい。一ヵ月も過ぎないうちに、賊軍は必ず内部崩壊を起こし、同士討ちを始めます。」と。顔真卿は「善し!」と言い、録事参軍(衛門尉の別称。律令制度における軍事関連の官司)の李択交及び平原令の笵に将として兵を率いるように命じ、兵四千及び博平(現在の河北省県西部に位置する地名)兵千人の軍で堂邑(現在の山東省聯城市にかつて存在した県)の西南に布陣した。袁知泰はその将・白嗣恭等に二万余りの兵を与え逆襲してきた。三郡の兵は一日がかりで魏兵を大敗させ、1万人余りの士卒を斬首にし、千人余りを捕虜とし、馬千頭を得る、といった甚だしい軍功をあげた。袁知泰は汲郡へ敗走した。ついに魏郡を陥落させ、勝ち鬨が大いにした。

 

  注1) 郡人;郷村在住の民間人。村落を指導する立場にいた庶民地主層。(布目潮風・栗原益男著『隋唐帝国』講談社学術文庫、19971010日第1刷、305頁)

  注2) 默啜;阿史那 默啜(呉音:あしな もくせち、漢音:あしだ ぼくせつ、ピンイン:A[1]shi[3]na[4] Mo[4]cuo[4]、?−716年)は東突厥第二汗国期の可汗。阿史那 骨咄禄の弟。『オルホン碑文』におけるカプガンカガンにあたる。初め、武則天のために契丹討伐をするなど良好な関係だったが、698年(聖暦元年)に默啜が武則天の養子になるとか東突厥の地に農機具や種子が欲しいなどの要求が拒否されたので、周を唐に戻すとして反旗を翻した。東突厥軍の勢いは止まらず、9月、武則天が唐の廬陵王を皇太子としたので、ようやく默啜は兵を引いた。716年(開元4年)6月、九姓鉄勒のバイルク部への北討の際、大勝に警戒を緩めていたところ、暗殺された。

 

 この時、北海(現在の山東省青州市にあった郡)太守・賀蘭進明も挙兵した。顔真卿は、書面を送り連合するように呼びかけた。進明は歩騎五千で渡河した。真卿は迎えるようにして兵を整列させた。進明と真卿は馬上で互いに拱手(注)し、感涙した。互いの軍もこの様子に同調した。賀蘭進明は平原城の南に布陣し、士馬を休憩させた。顔真卿は事ある毎に賀蘭進明に相談していたので、軍における権限は少しずつ進明に移管していったが、真卿は意に介さなかった。真卿は堂邑の功を進明に謹呈した。進明は功績について任意で取捨して、上奏の手紙を書いた。勅命により賀蘭進明は河北招討使が加えられたが、李択交や笵はほんの少ししか昇級できず、清河や博平で功のあった者達は皆記録がなかった。賀蘭進明は信都郡(現在の河北省冀州市の一部)を攻めたが、長らくこれを陥落できなかった。録事参軍の長安第5部隊所属のという人物が進明に勧めたようにお金をかけて勇士を募集したので、ついにこれを陥落できた。

 

  注) 拱手(きょうしゅ);中国の敬礼で両手の指を胸の前で組み合わせておじぎすること。

 

  16.李光弼と史思明は40日余り対峙した。史思明は常山への食糧運搬ルートを切断した。城の中は馬草が乏しくなり、馬はゴザやムシロを食べる有様だった。李光弼は車500乗で石邑(現在の河北省保定市曲陽県の古称)へ草を取りに行かせた。将も車も皆武装し、弩手千人が護衛し陣形を成して進んだので、賊軍は草を奪い去ることはできなかった。蔡希徳が兵を率いて石邑を攻めたが、張秦璋がこれをギリギリのところで退けた。李光弼は使者を派遣して郭子儀に急を告げた。郭子儀は兵を率いて井陘を出た。夏、四月、壬辰(5月12日水曜日)、常山まで来て、李光弼と合流し、蕃・漢の歩騎は合計十数万になった。甲午(5月14日金曜日)、九門城南において、李光弼と郭子儀は史思明と戦い、史思明は大敗した。中郎将・(咸には王編が付く)李立節を射殺した。(咸には王編が付く)は釈之の子である。史思明は敗残兵をかき集めて趙郡(現在の河北省石家荘市趙県)へ敗走し、蔡希徳は鉅鹿(現在の河北省市平郷県南西部に相当する)へ敗走した。史思明は趙郡から博陵を攻めた。この時すでに博陵は官軍に降伏していたが、史思明は軍官をことごとく殺した。河朔(現在の河北省を中心とした地域)の民は賊軍残党による横暴に苦しみ、至る所でたむろして徒党を組んでいた。多いところで2万人、少ないところでも1万人はいて、それぞれの地域で陣営を設けて、賊軍に抗戦した。郭・李の軍勢が到来すると、争うように命がけで出陣した。庚子(5月20日木曜日)、趙郡を攻め、一日で降伏させた。士卒の多くが捕虜として捕らえられた上、無理矢理従軍させられた者達だった。李光弼は城門に座り、捕らえた捕虜を、ことごとく帰したので、民は皆悦んだ。郭子儀は捕虜を4千人生け捕りにし、これを皆斬り捨てた。その中には、禄山が任命した太守・郭献もいた。李光弼は進軍し博陵を包囲したが、10日経っても、城の守りを崩せなかった。それで桓陽まで撤兵して補給活動をした。

 

  17.楊国忠は士卒の中に将が勤まる者がいないか、左拾遺・博平の張に尋ねた。張は左賛善大夫・永寿(現在の陝西省咸陽市の県)の来を推薦した。丙午(5月26日水曜日)、来を穎川太守に任じた。賊軍は度々これを攻撃しても、来は前後して、とても多くの賊兵を打ち破った。それで、本郡防禦使の官職を加えた。人は「来嚼鉄」と呼んだ。

 

  18.安禄山は平廬節度使・呂知誨に安東副大都護・馬霊をおびき出させ、これを殺した。平廬の遊弈は(現在の河南省焦作市の県)出身の劉という客奴、先鋒使・及び安東将・王玄志が共謀して呂知誨を誅討した。踰海と真卿に使者を派遣し、このことを伝え、自分の命に代えても范陽を取りたいと願い出た。顔真卿はこれを助けるために判官の賈戴に兵糧と戦士衣を届けさせた。時に真卿には子供が一人しかいなかった。名を頗という。僅か十数歳だったが、人質役の客奴として派遣させた。朝廷はこれを聞き、客奴を平廬節度使に任じ、正臣の名を賜った。併せて、王玄志を安東副大都督に、を平廬兵馬使に任じた。

 

  19.南陽節度使・水(現在の河南省東南部)の南に柵を立てた。安禄山の将である武令、畢思がこれを攻めた。

 

 

(巻217唐紀33 終了 6961頁)

 

 

参考) HP「資治通鑑邦訳計画」渡辺省訳「資治通鑑巻217」

        布目潮風・栗原益男著『隋唐帝国』講談社学術文庫、19971010日第1刷

    麻生川静男著『本当に残酷な中国史〜大著「資治通鑑」を読み解く』角川SSC新書、2014年9月25日、第1刷

 

参考資料)

十節度使表

 

 節度使名

 

       所在地(現在地)

 

  兵数

 

 安西節度使

 北庭節度使

 河西節度使

 朔方節度使

 河東節度使

 范陽節度使

 平廬節度使

 隴右節度使

 剣南節度使

 嶺南五府経略使

 

 

 亀玆[キジ](新疆ウイグル自治区庫車[クチャ]市)

 庭州(新疆ウイグル自治区吐魯番[トルファン]市)

 涼州(甘粛省武威市)

 霊州(寧夏回族自治区霊武市)

 太原(山西省太原市)

 幽州(北京市)

 営州(遼寧省朝陽市)

 鄯州(青海省西寧市)

 益州(四川省成都市)

 広州(広東省広州市)

 

 

  24,000

  20,000

  73,000

  64,700

  55,000

  91,400

  37,500

  75,000

  30,900

  15,400

 

典拠) 布目潮風・栗原益男著『隋唐帝国』講談社学術文庫、19971010日第1刷

      162頁