沖縄 旅行

 

 20152月最終週に沖縄へ行った。沖縄は暖いだろうし、行ったことがないからである。ツアーに参加したのだが、特別の企画らしく、値段の安さが1番の理由であった。ただしワイフは40年ほど前の返還直後に行ったことがある。

 2月の平均気温は17度である。2月は観光シーズンだった。気温は夏でも35度を越えることはなく、それは周りが海だからである。気候は大体は亜熱帯に属する。

 2005年に県人口は136万人である。

 羽田から白人・黒人の若いアメリカ人が飛行機に乗ったが、米軍関係ではないかと思う。

 日本プロ野球の春期キャンプがこの時期に行われ、ほとんど全球団がそれぞれ違った町

へ来る。沖縄は地震が少ない。

 

 沖縄の中部の恩納(おんな)村の、みゆきハマバルリゾートというホテルに着いた。もっとも、われわれはリゾートで来たわけではない。夕方7時に着いたので、ホテルの夕食が付いている。沖縄料理が並んでいて、なかなかよい。今まで絵で見ただけの料理なので面白い。もずく、アーサー(告F海草、あおさ)の味噌汁、野菜のてんぷら、ゴーヤーのてんぷら、グルクン(県の魚、たかさご)の天ぷらがあり、ころもはナゲットのようにあついものだった。ここでは、てんぷらにウスターソースを付ける。苦菜、小さい厚揚げのチャンプルー(チャンポンという意味)、沖縄風おじや、それ以外には、普通の食べ物であって、野菜サラダ、春雨、マカロニ・グラタン、 チキン、カレーライス、である。有名な海ぶどうは出なかった。デザートは、パイナップル、タンカンという小さな蜜柑、これは甘くて美味しい。レモン、サーターアンダギー(小さいドーナツ)であり、サーターは砂糖、アンダギーは油で揚げるという意味である。小さなケーキ、である。

 部屋から東シナ海が見える。

 

 事実上の一日目

 

 このホテルから出発した。添乗員は千葉さん、この人は岩手県の出身で、寒さが嫌で、関西の大学へ行き、卒業し、旅行会社に就職し、沖縄で働いているという、面白い人だ。運転手は島袋さんである。ガイドは大城麻美さん、ガイドの説明はとても上手であった。このツアーが良かったのは、このガイドさんの話のうまさ、内容の良さ、に負っている。

 

 まず、名護市を通過し、1つの島を通過した。奥武島(オウブジマ)という。ここは人が住まず、墓だけの島である。立派な墓が島中にたくさんあり、コンクリート製のものが多い。家の形をしていて、ベトナムの墓に似ている。沖縄は祖先崇拝と自然宗教が重視されるそうで、それは台湾や中国と似ている。

 沖縄の島々は、かなりの割合で橋でつながっている。屋我地島を通り、古宇利(こうり)大橋を越えて、古宇利島へ渡るが、この橋は長い、2km程ある。沖縄第2の長い橋だと紹介された。この島は沖縄民族発祥の地だという神話がある。青い海を見渡す絶景スポットへ行く。ここは海岸までの散歩道があり、海岸をそぞろ歩く人もいたが、われわれは、小高い見晴らし場から海を眺めるだけにした。今後の体力を考えたからである。青色の海が綺麗だ。そこにはフルーツなどを売る店があり、見物した。カニシテルというフルーツを買って食べたら、ドリアンとサツマイモを混ぜたような味の果物だった。他に、アセロラやグアヴァがある。

 帰り際に運天港が見えた。沖縄最古の港だそうだ。バスではガイドが、「途中で桜が見えます」と言うので、見ると南の桜で、花が下を向いている。むしろ赤い。小さい梅の花に似ている。もう開花しているのだ。沖縄では冬でも色々な花が咲く。

 

 沖縄の名称のいわれは、2説ある、1つは、ガイドは、沖に縄のように並んでいるから、と紹介した。島は161あると言うが、沖縄本島とその周りの島のことだろう。全県で363の島から成るともいう。多分無人島も入れてだろう。

 県庁所在地は那覇である。沖縄の中部と南部は、那覇市、沖縄市(旧 ゴザ市)を中心に、都市化と人口集中が進み、そのため、そのあたりは人口密度は高い。北部は山原で、ヤンバルと発音し、動物・植物で貴重な物が多く、天然記念物としてヤンバルクイナが有名である。アメリカ軍基地が北部を多く占有している。演習でもされると、これら動植物が減少するだろう。またこの北部を横切る形で道路建設がされる予定であり、さらに自然環境が悪化するだろう。

 

 この辺は本部(もとぶ)半島である。

 名護パイナップル・パークへ行った。パイナップルの成長過程を見て、店に入る。各種パイナップル製品が売られている。パイナップル・ワインやお菓子など試食・試飲する。大体は美味しい物である。パークといっても、要するに売店である。

 

 やんばる・いこいの森という店で昼食をした。別名、お菓子御殿というが、後から地図を見ても、どこだか分からない。夫婦それぞれ違った物を予約しておいた。出てきた1つは、沖縄そばだが、これは蕎麦粉を使わない。だから、うどんである。海ぶどう(海草の一種)が出た。おいしいものだ。これは新鮮でないとだめだそうだ。また豚の角煮の薄切り(ラフテイ)も出た、これは名物だ。もずくもおいしい。

 沖縄では「紅いも」という濃い紫色のさつまいもが名物で、折角なので、このいもを使ったケーキでお茶をした。

 

 この近くで歴史民俗資料館があって、すぐそばに見える。だから1人の人は、「こういう物があると教えてくれていたら、入ったのになあ」と言っていた。我々もそうと知っていれば見に行ったのに、時間がない。このツアーはハイライトを見るのである。

 

 海洋博公園へ行く。本部町にある。ここに、美(ちゅ)ら海水族館がある。巨大な施設である。花も綺麗に飾り植えられ、立派な物だ。傾斜地にそって長いエスカレーターもある。ただし併設して歴史資料館があった。初めから分かっていれば、この水族館には入らないで、こちらに行きたかった。観光会社としては水族館の方が一般的なので、こちらを見せたいのだろう。尤も、それなりに面白いことは確かで、珊瑚、南洋の魚、マントウつまり大きなエイ、そして最大の見世物は、巨大水槽の中にいる3頭のジンベイザメである。数メートルの巨大なサメなので圧倒される。

 

 ここから伊江島が見える。この島は金持が住んでいると言う。島の中央に高い山があり、わかりやすい。そこには民宿が沢山あるとのことである。

 

 備瀬のフクギ並木と家々を見る。岬の端の方にある。昔ながらの民家が残されていて、これは興味深い。大体が橙色の瓦屋根で、屋根の中央に魔除けの狛犬が1つ載せられている。漆喰を焼いた物だとかである。シーサーという。道は雨でぬれていた。フクギという木は、防火・防風によいそうだ。生活の知恵である。

 沖縄では雨が多く、旅行には傘を持っていった方がよいとされる。今回はあまり降られなかった。

 

 海岸を走って、道の駅「許田」を見物する。ここから那覇までハイウエイが通じている。私は沖縄煙草を買ってみたら、強かった。アイス、お菓子、揚げ物、土産物、多種多様な物が売られている。よく言えば庶民的なところで、北海道の道の駅のように整ってはいない。しかしここは、旅行者のアンケートで全国1気に入ったところだと、張り紙があった。

 

  ホテルへ戻った。見物場所が沢山あったので、くたくたである。そこでホテルで夕食をとることにした。添乗員に、「昨日と同じ物ですよ」と言われていたのだが。普通は近くの食堂で沖縄らしい物を食べるのであろうが、タクシーで行き来するには、くたびれすぎた。実際、同じホテルで夕食を摂る人は、我々のグループにはいなかった。我々だけだった。沖縄では泡盛が有名なので泡盛を注文した。沖縄ではオリオンビールが有名だが、私はビールはなるべく飲まない。

 ここに新しく団体が2つ入った。中国人である。多分台湾人だろうと思える。

 ツアーの途中で、シークワーサーという飲み物を販売機で買ったら、なかなかおいしい。沖縄の小レモンが原料である。三品花茶という茶もある。

 

 事実上の2日目、

 

 このホテルから出発した。8時半集合だから、早起きしないといけない。6時起きは、つらい。

 恩納村(オンナムラ)の万座毛(マンザゲ)を見物した。ここは海岸国立公園であり、広く海が見渡せるし、絶壁のような海岸岩がある。象の鼻のような岩がある。散歩は数分で終わるのだが、有名なところらしく、近くに土産物店が並んでいる。食べ物の類いはあまりないようだ。白珊瑚やハンカチなど売っている。「ま、話だけでも聞いて」と、売り場の中年女性が言うので、聞いていると、白珊瑚2万7千円に、これもつけてあれもつけて、「どう、1万円で、お買い得」などと言われる。すごい値下げである。

 

 沖縄の海岸にはマングローブが多い。農村ではサトウキビの畑が多い。サトウキビはバイオエタノールにし、ガソリンの何%かに使うらしい。食べ物をガソリンとして使うのはもったいない。

 沖縄の中部は岩山、北部も岩山で、南部は珊瑚礁からなる。沖縄では赤土が多く、雨が降って赤土が海に流れ込む。途中で、岩を採掘している場所を見た。

 

 琉球では12世紀に王が出た。14世紀から3つの国に分かれ、対立が始まる。三山という。中山王・察度は明へ進貢する。中国との冊封関係が始まる。つまり中国の支配下に入ったのである。その後、南山王・承察度も、北山王・怕尼芝も、中国に朝貢する。15世紀に、尚思紹・尚巴志(しょうはし)父子が最終的に琉球を統一した。彼らは中山王・武寧を滅ぼし、ついで北山、南山を滅ぼし、1429年に統一し、第一尚氏王統が成立した。

 

 読谷(よみたん)村に座喜見城跡があり、見学する。これは御佐丸(ゴサマル)が作った。彼は中山軍の武将だった。後に、琉球王朝の砦にもなるのである。

 この砦は高い丘の上に立っている。我々は松林を通り、石の城に入る。戦争で壊されたので復元され、その際、1部は元々の石を用いたそうだ。城は2つの部分から成り、城壁だけが残されている。1方の部分には、かつて建物があった。その土台石だけ今は残っている。城壁の上に立つと見晴らしが良い。軍事的には絶好のところだろう。見学が終わって、入り口のあたりに、やはり民俗資料館があって、入りたいが、時間がない。館の前には色つきの壺が並んで置いてあった。昔の骨壺だ。ここに高倉がある。高倉は食料などの保存所で、地上階は柱だけの倉である。小動物や湿気をさけるためである。神の宿るところ、つまり拝所もある。

  読谷(よみたん)村は、焼き物で有名だ。元米軍基地もあった。また着物や帯の花織りでも有名だ。沖縄には他に、ミンサー織りがある。  

 

 琉球村を見学に行く。ここはテーマ・パークである。ここへ入る前に、食堂や土産物店などが、ここを巡る建物の中にある。

  典型的な屋敷が種々ここに移築されている。ハブ・センターもある。ハブとマングースの戦いのショーは禁止されたそうで、今はやっていない。ハブは猛毒を持つ。ハブを捕まえるにはコツがあって、後ろから頭をつかむそうだ。細い蛇であった。我々は触ってみたが、指で触った印象は、つるつるして冷たい。パークの中心地に池があって、鯉が沢山飼われている。鯉のえさ100円というのが、観光客向けに売られていた。鯉は、そのえさが投げられると。大急ぎでやってきて口をぱくぱく開けて食べる。だからえさ不足ではないかと思える。カジュマルの木があった。細い何本もの幹がかたまっている樹である。キジムナーという、座敷ワラジが、カジュマルの木に宿り、これは心の清い人しか見えない、という。このキジムナーのキャラクターが隋所に置かれている。

 ここで、サトウキビ・ジュースが売られていたので、注文したら、品切れであった。やむなくアイスクリームにする。三線体験、お茶体験などもあったが、時間がない。ハイビスカスが綺麗だ。

 ここを出て、建物内だが、予約していた昼食を食堂で食べる。豚肉の味噌鍋であった。ワイフは、豆腐チャンプルーで、野菜の鍋であり、炊き込みご飯がついた。伝統的な着物を着てそれを写真にとる店もあった。これを着て是非撮りたいとワイフは言うが、1200円なので、やめてしまったようだ。

 

 黒糖工場へ向かう。ここは観光のために昔風の黒糖作りの過程を見せている。サトウキビを茹でて絞って、その液を乾燥する。多種多様な黒糖が売られていた。黒糖は沖縄名物で、美味しい。ここは安いらしい。

 

 道の駅「かでな」、へゆく。ここから米軍基地がよく見えるというのだった。コンクリートの建物の四階から基地を見た。かつての日本軍の飛行場を接収して、拡大して嘉手納基地にした。金網の柵で囲まれている。上空は米軍の支配、中空は自衛隊の支配、下空は民間機が利用できるというものだ。この基地には米軍の家族も住み、大学まである。戦闘機の格納庫が500トン爆弾でも耐えられるといい、莫大な予算で作られた。ガイドは「思いやり予算で、です」と語る。後で「基地の説明はどこまでしてみるか、難しいです」と言っていた。普段は飛行機の爆音がすさまじいらしく、我々が見ている時はそれほどでもなかった。米軍機が飛んでいなかったからである。県民総所得の14%がアメリカ軍基地からの収入だから、大きい。米軍は本島の18%の面積を占める。主に3つの地域から成る。

 

 首里城公園へ行く。首里城のある所だ。観光としてはここが1番の見せ所だろうと思う。立派なお城である。

 初めに「守礼之邦」という朱塗りの門を通る。これは綺麗である。城に入る初めの門は「歓会門」で、右手に井戸がある。首里城は水のよく出る所を選んだ。その後、「漏刻門」を通る。時刻を知らせる門である。ついで「広福門」を通る。広場に出て、ここから正殿に入るには有料となる。折角なので入ってみた。立派な建物である。朱色の建築で、戦災で壊されたのを、1部はかつての材料を使いながら復元した物だ。1992年に正殿などが復元された。旧日本軍がここの地下に司令部を設けていたので。米軍が攻撃して破壊したのだった。御殿の前の広場は、式を行なうためのもので、役人が階級毎に並ぶのである。これはベトナムのグエン王朝でもそうだった。首里城も橙色の瓦屋根でふいてある。ここから町を見下ろすと、目の前の、大きな重要な建物が、大学と小学校だが、橙色の瓦屋根でふいてあり、町の美観のためだそうだ。こういうことはよい試みである。

 

 ちょっと歴史を記そう。

  琉球王国は、尚巴志から続き、その後 1462年に重臣・金丸が王位について、第二尚氏王統の時代になる。これはクーデタによるという説もある。尚巴志以来、首里城は改築され、立派な城になった。首里城だけでもゆっくり見れば二時間もかかるので、観光目的地として今後も発展するだろう。

 琉球国は、中国や日本以外に、日本より早く、マラッカなど東南アジアと交易した。だが薩摩藩・島津に支配される。こうして中国と日本に二重に支配された。

 1853年に、アメリカのペリー提督が来航している。

 明治4年、琉球処分で、そして明治12年に沖縄県になる。琉球王国はしかし450年の歴史を持つ。

 戦後はアメリカに占領されたが、1972年に本土復帰した。

 

 首里城見学の終わりに土産物店があったので、首里城に関する本を買った。首里は那覇の郊外にある。

 

 ひめゆりの塔を見学した。糸満市にある。壕が残されている。壕はガマという。この地下壕は野戦外科病棟になって、女学生たちが看護したのである。ここには資料館があって、当時のひめゆり部隊の悲惨な写真や手紙が展示されている。対米沖縄戦争で、学徒隊は女子であり、つまり13才から17才くらいまでの少女たちだ。少年部隊は戦闘に参加した。これら若い人々の命を奪った戦争の展示は衝撃的で印象深く、参加者の一人は、こんなことをした当時の首相を八ツ裂きにしたい、と言ったらしい。当時の首相は東条英機である。

   米軍の戦術は巧妙であり、初め1945年4月1日に南から陽動作戦をし、実際は中部の読谷(よみたん)村から上陸した。アイスバーグ作戦と言い、この中部で西から無血入島し、そのまま東側へ到達し、これで全島を分断した。その後、南下して攻撃をする。

 日本の司令部は首里城から、摩文仁(まぶに)へ移る。6月22日に攻撃され、23日に終わる。沖縄の日本兵は北海道出身者が最も多い。その慰霊塔もある。この沖縄戦で10万人が亡くなった。

 

 我々は、那覇へ入り、パシフィック・ホテルに泊まった。多くの人は、有名な国際通りへ沖縄料理の食事に行ったと思う。われわれは、また疲れ切ったので、ホテルで食事をした。これもまた、そういう人はいないだろう。しかし明日の行程は不参加にしようと思ったほどである。

 ワイフは寿司を注文したら、沖縄でとれる魚をいく種か使った寿司であった。寿司のネタの魚は熱帯魚のように派手な入りをしている。ウエイトレスが気を利かせて、それら魚の写真表を持ってきてくれた。そでイカ、イラブチャー(ブダイのこと、濃紺である)、赤いアカマチ(ハマダイのこと)、カジキまぐろ、などが入っていた。値段はホテルとしては安かった。従業員も丁寧であった。寿司は、本土の寿司と味はよく似ているとのことである。

 このホテルのショップで、チョコレートなどを買ったのだが、ドイツやスイス、その他の国からの輸入であった。中国の物もあったが、中国のチョコレートが売れるとはとても思えない。私は、紫芋バターを買った。別にバターがはいっているわけではない。帰ってから食べたが、とてもおいしい。瓶に店の名があったので、後に注文したくらいである。

 札幌に、沖縄の産品をうる店があって、気がついた。沖縄旅行をしていなかったら、気がつかなかっただろう。そこでワイフは、モヅクがおいしいので、時々買っている。ムラサキ芋バターはなかった。

 

 土産物など品が増えたので、不要衣類とともに郵便で送ることにした。10キロなので、大変なのだ。国内旅行の時は、大抵、終わり頃、荷物を送っている。

 

 三日目 

 

 琉球ガラス村を見る。糸満市にある。といっても、工場と売店のことである。この会社は大きくて、ヴェトナムにも会社があるそうだ。建物は小さな四角の色ガラスを多数、模様を描きながら貼り付けてある。これらはヴェトナムで作ったという。大ぜいの職人が働き、色を重視してガラスを作るようだ。併設のショップも大きい。ここで沖縄ぜんざいがあったので、食べようと思ったら、開店前だったので、食べられなかった。

 比嘉酒造へ行った。ここはかなり古い酒造家で、泡盛を作る。沖縄の名物は泡盛である。つまり焼酎だ。古ければそれだけ美味しくなるという。その製造過程を見た。各種泡盛が、展示、販売されていた。今日から社名変更するそうで、大変な賑わいである。最も有名だというわけではなかった。

 

 沖縄の経済

 

 沖縄の第1次産業は2%で、第2次産業は12・4%、経済の85・5%が第3次産業に属し(平成22年)、つまり商業・金融・観光だが、そのうち観光に大いに依存している。 サトウキビが移出の第1で、第2はパイナップルだ。

 沖縄は水不足になりやすい。ただし水は飲める。山が低く、川が短いので 水不足になる。そこで屋根の上に給水タンクをおく建物が時々ある。北部から南部へ水の導入が進み、海水淡水化施設が出来、これでほぼ水不足が解消された。ただし離島は水不足だ。

 沖縄の所得は日本で最低に近い。最低賃金は653円(2012年で)である。

   平成23年で、第1次産業が   604億円

          第2次産業が   4889億円

          第3次産業が 32367億円で。

          合計     37860億円である。

  1人あたり県民所得が 202万円で、全国平均は272万円である。

 

 タクシーは那覇で初乗り五〇〇円(2015年)。平均月収は低い。物価は、食べ物の1部は安い物があり、また家賃は安いそうだが、実際は概して物価はそれほど安くはないとのことである。本土からの移入品には運賃がかかるからでもある。就職では縁故採用が多いそうだ。中国に似ている。沖縄にあこがれて移住する人も、最近は多いが、甘くない。

 仕事そのものはある。だが若年男性に働く意欲そのものが低い(大角説)。高い失業率で、全国一の失業率だ。平成9年 全国が3・4%、沖縄が6・0%、若年層は 全国が5・8%、沖縄が11・8%である。生活保護世帯も急増している。女性はよく働く。

 沖縄空港ハブが北にあり、物流がセンターあり、全アジアに数時間で運ぶ。二四時間体制である。

 

 観光客は2014年に700万人を越える推計で、最高となった。近年は観光客は570万人で、国内が550万人、海外が25万人で、その海外からのうち、75%が台湾からであり、多い。台湾資本の直行便が台北・那覇を結んでいる。沖縄は九州と台湾の中間にある。海外観光客では台湾人の次に多いのはアメリカ人だ。

 夏は観光客は少ない。バスガイドは正規社員と臨時社員などに分かれる。

 日本復帰後、県民が期待した産業は、1992年アンケートで観光がトップになった。沖縄への入域観光客は 2008年=平成20年に 6〇〇万人余、収入は45〇〇億円余である。

       平成22年に 570万人 収入 4000億円。これはリーマンショックによる。    平成23年に 553万人 収入 3800億円。(内閣府の調査)

 観光が県総所得の一割になる。観光客の一人あたり消費単価が下がり続けている。外資系ホテルが参入している。観光業は若者にとって魅力的な職場ではない。低賃金で、キャリアに結びつかないからだ(大角説)。那覇の有名な国際通りの食堂は、多くが県外資本である。

 沖縄も格差社会で、しっかり働いている人は高所得である、そうでない人はほとんど所得がない。

 売上高経常利益は高水準で、全国平均を上回る。特に、小売、飲食店、宿泊業は企業の利益率が高い。利益率が高いのは人件費の低さにある。零細企業や個人事業主の経営は脆弱だ。基地の仕事は人気が高い、待遇と労働環境がよいからだ。

 

 本土復帰後、本土が沖縄振興に費やしたのは10兆円だが、県内で循環せず、県外に流出した。麻薬経済も一原因だ。沖縄政府は、そこで経済発展を考えた。IT関係とマルチメディ産業に力を入れようとした。これは、ある意味で成功した。まず、IT関係が平成23年で22000人の雇用となった。平成16年には米軍基地の従業員が8500名だったから、それ以上になったのだ。情報通信企業が237社、沖縄に進出した。だが実際はコールセンターが多い。沖縄には魅力的な雇用機会がないので、頭脳流出している。もっとも、これは、日本の諸地方もそうだ。

 沖縄は、米軍基地に依存した経済だとされる。しかし返還された地域では経済が発展した。米軍基地があるのに、沖縄人が英語が出来るわけでもなく、大学生も英語は苦手だ(大角説)という。ただしこれは日本人全体に言えることだろう。

 

 その他の事項を述べよう。

 モノレールが那覇・首里間にある。これは便利なようだ。

 南部は戦争遺跡が多い。これはアメリカ軍の戦術により、そうなった。

 

 琉球には文字がなかった。これはアイヌ文化と似ている。そのため、適宜漢字を当てはめた。「メントーレー」は「いらっしゃい」。「ちゅら」は「美しい」。だから「チュラカーギー」というと「美しい顔」となる。島ごとに方言がある。「ハイサイ」は、男性語で、1日中使える挨拶語で、女性語は「ハイタイ」である。「グスク」は「城」。「チャンプルー」は、チャンポンのこと。

 

 お菓子は、サーターアンダーギー、チンスコーが、有名だ。チンは王で、スコーは献上する意味で、王様に献上するお菓子のことである。それほどおいしい物ではなく、他のお菓子にもっとおいしいものがある。

 食事は、ほとんどのものがおいしい。

 沖縄市は、旧ゴザ市で、沖縄の人はゴザ市と言う。なぜ変えたのだろうか。そこは第2の都市であり、第1は那覇である。デイゴが県花だ。

 首里には赤瓦(橙色)が多い。糸満は、最南端の市で、山はない。漁業が盛んだ。富見城はトミグスクという。

 姓では、比嘉が1番多く、次いで金城、3番目が大城で、あと国仲などがある。名前で出身地が分かるそうだ。

 沖縄時間というのがあり、私的には、約束して30分や1時間、遅れることがあるそうだ。わが町で、小樽時間もあったそうだから、同じところがあるわけだ。

 働きたくないという人が随分沢山いるそうだ。勉強も比較的熱心ではないそうだ。それはそれで仕方ないだろう。

 沖縄は台風が夏に来襲する。台風を知らない観光客が、「台風の体験ができてよかったと言っていました」と、ガイドはジョークを言った。

 ガイドは、宮古島観光を推薦した。跡でネットで見てみると、海が非常に美しく、自然が魅力のようである。

 沖縄は日本一の長寿県であり、ストレスが少ないからだとされた。だがそれは昔の話で、女性は日本でトップだが、男性は2000年に26位に落ちた。肥満率はワースト1だ。癒やしの島と言われているが、社会インフラが整っていない。実際は住むとなると閉鎖的である(大角説)。これはしかし、日本中そうだろう。人間関係は相当田舎風らしい。だが観光で行くには少なくとも楽しいところではある。数日のバスの観光で、ほとんど名所が見られてしまうのではないか。観光地としては、首里城が一流の価値があり、あとはほとんどない、自然の美しさがよいのだろう。しかし楽しいところである。

 ワイフが、安い、というので行って見た。二度目もいってみたいが、団体旅行だと、ほとんど同じ所を二度みることになりそうである。

 沖縄は日本で最も貧しい地域だそうで、本土は、物心ともよく考えた援助をするべきだろう。

 

 (参考) 『沖縄の世界遺産』JTBパブリッシング 2013年。

           中野・新崎『沖縄戦後史』岩波新書

            宮良ルリ『私のひめゆり戦記』新日本教育図書 1994年

            大角玉樹「沖縄の観光と経済」

             『まっぷる 沖縄ベストスポット』昭文社