『マオ』の読後感
 
                                渡 邊  理
 
 20世紀を代表する巨人としてのみならず、現代中国研究において重要課題は、毛沢東研究である。毛沢東に関する研究は世界中でなされているが、到底語り尽くせない程スケールが大きい人物である。毛沢東に関する未公開資料の存在は決して少なくない。毛沢東の関係者の証言をはじめ、今後もいかなる資料が公開されるのか、想像できない程である。他方、毛沢東に関する資料が公開されなかったり、革命の英雄として神格化されてきたことから、イメージ先行となり、毛沢東の実像を客観的に分析することは容易ではなかった。例えば、貝塚茂樹著『毛沢東伝』(岩波書店、1956年)のように限られた情報や当時の社会情勢では、毛沢東を完全無欠の革命聖者のように扱ってしまったのは、やむを得なかった。
 しかし、丸山真男著『日本の思想』(岩波書店、1961年 )には次のような指摘がある。「つまり、本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実を作り出していく。」(1)実際、毛沢東時代の中華人民共和国史の大部分が上述の指摘に該当していた。それに伴い、毛沢東研究もまた、影響を受けてきた。
 ユン・チャン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳『マオ(上・下巻)』(講談社、2005年)は、合計1119頁もにわたり、新たな資料と綿密なインタビューによる証言に基づいて毛沢東の生涯を検証した意欲溢れる大著である。「人間」としての毛沢東を描写すること自体、現代中国において重大な禁忌であるので、極めて勇気のある行為である。日本で言えば、「天皇制」を論ずる程に困難、重大、それに果敢な行為である。『マオ』の大胆な仮説の面白さと骨太な筆致に思わず引き込まれて一気に読了した。また、実際読んでみて新しく学んだ事実や「人間」としての毛沢東の生々しい描写から大いに触発を受けた。
 小生は毛沢東研究の専門家ではなく、このような膨大な大著から専門家のように広大かつ深淵な読み込みはできない。しかし、素人なりにこれまでに読んできた数冊の著作を頼りに学んで得る事のできた『マオ』の読後感を述べたい。
 なお、『マオ』からの引用については、以下(上巻、323頁)のように記す。
 
 まず、「人間」毛沢東を冷静に見る上で役立った著作に高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』(講談社、2004年)がある。第1章の陳勝(ちん しょう)・劉邦(りゅう ほう)にはじまり、朱元璋(しゅ げんしょう)、李自成(り じせい)、洪秀全(こう しゅうぜん)、そして、第5章の毛沢東からなる。盗賊の側からの歴史として中国史上、有名な人物を面白く紹介している。1989年に『中国の大盗賊』が出版されたが、紙面数の制限と当時、「社会主義中国」を信じる人が多かったという背景から「毛沢東」の部分を廃棄して出版した。その後、読者から「毛沢東」の部分も読みたいとの要望が多くあり、完全版の出版となった経緯をたどった著作である。
 「盗賊皇帝」としての視点に反発を感じる人もいるかもしれない。しかし、悠久なる中国史を視点を変えてみた時、中国の歴代皇帝としてのスケールの大きさを毛沢東にみてとることが可能である。20世紀の中国は、100年以内に2度も統一政権が革命によって交替したという中国史上初の経験を経た。そこで、前世紀における蒋介石と毛沢東を比較してみる。
 前者は杜月笙(と げっしょう)、後者は康生(こう せい)(毛沢東の第四番目の夫人、江青(こう せい)とは別人)というマフィアのリーダー出でスパイをはじめ、裏の汚い仕事を請け負う人物を暗躍させていた点では、共通項がある。小生は蒋介石と毛沢東の大きな違いの一つにカリスマ性の大小があると考える。前者は「蒋・宋・孔・陳」のいわゆる「四大家族」による開発独裁の国の独裁者水準であったが、後者は個人崇拝を強固に推進し、周恩来が宰相役を演じ、輔弼(ほひつ)するような状況であり、さながら、歴代王朝の皇帝を彷彿させる。『マオ』には「蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍隊を動かした。そして、そのような弱点とはまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。」(上巻、524頁)との指摘があるが、小生は共感する。
 高島氏の平易で要領を得た著作からは『マオ』を理解する上で大いに役立った。例えば、井岡山に関しては、「井岡山の道」(2)の章にある古来の盗賊のしきたりからの解説で納得できた。後で、毛沢東と女性たちとの関わりのところでも触れるが、毛沢東は家族に対してさえも非情であった。例えば、高島氏は敗走した劉邦が、背後から敵の騎兵が迫ってきた際、車を軽くするために同乗していた子供たちを次々と車から突き落としたことが紹介されている。(3)毛沢東も我が子に対し、愛情が酷薄だったという『マオ』での指摘がある。非情さにおいても皇帝級の人物だったという印象を小生は得た。そして、中国史上で稀有な存在ではなく、これまでも類似した傑物が存在したとして落ち着いて『マオ』について、考えられるようになった。
 
 毛沢東と女性たちとの関わりについて感想を述べる。鋭く厳しく批判的に描写されており、『マオ』を読んでいて最も印象的なテーマであった。特に、楊開慧(よう かいけい)に関する新発見には驚いた。小生は、毛沢東は生涯最も愛していたのは楊開慧であったとばかり思ってきた。そう思ってきた理由は次のとおりだ。エドガー・スノーらアメリカ人ジャーナリストが、革命に殉じた素晴らしい女性として印象的に語っていた。また、楊開慧との間に生まれた長男、毛岸英(もう がんえい)が朝鮮戦争で戦死した時の司令であった彭徳懐(ほう とくかい)をその時は許したものの、後に大躍進政策に反対したことを理由に罷免し、不遇な境地に追い込んだ。その理由の一つには、やはり長男に関する復讐であると小生は思っていた。
 しかし、『マオ』には、「毛沢東は悲しい表情ひとつ見せず、不幸があったことを疑わせるような一瞬の陰りさえ見せなかった。それどころか、毛沢東は、まるで岸英が生きているかのように、彼について冗談を飛ばしたりしていた。」(下巻、90頁)とある。岸英のことを自分の後継者とばかりに期待していたと、小生は想像していたことがあったので、非常に驚いた。あえて周囲に対する芝居をしたのではなかったのかと、『マオ』の記述を疑いたくなる程驚いた。
 さらに、「第七章 さらなる野望、妻の刑死」を読んだ時に得た衝撃は大きかった。楊開慧は毛沢東を愛していたものの、毛沢東の共産主義思想には懐疑的であった。そして、上巻の156〜159頁の楊開慧の文章からの引用にあるように、毛沢東に無視された挙句、見殺しにされていた。「救おうと思えば、容易に救えたはずだ」(上巻、159頁)の言葉に著者の怒りを感じた。女性を弄んだ挙句、捨て去るといったものだ。
 そうした女性軽視の毛沢東の姿勢は、毛沢東の第三番目の夫人、賀子珍(が しちん)(ホー・ツーチェン)についての記述でも著者の怒りの姿勢は如実に出ている。賀子珍にとって毛沢東は人生最大の後悔ともいえる存在だった。下巻の213〜215頁にあるように毛沢東の気まぐれのために回復不可能な精神異常をきたすに至る悲惨な人生だった。
 毛沢東の漁色と形容できる女性に対する執着については、彭徳懐の回想録に相当する  彭徳懐 著、田島淳 訳『彭徳懐自述』(サイマル出版会、1984 年)や『マオ』の中でも、彭徳懐が毛沢東を厳しく批判していることが詳しく紹介されている。京夫子(チン・フーズ)著、船山秀夫編訳『毛沢東 最後の女』(中央公論新社、1999年)で紹介されている張毓鳳(ちょう いくほう)という毛沢東の側近であり、看護師だった女性からみた毛沢東像も貴重である。そして、李志綏(り しすい)(リ・チスイ)著、アン・サーストン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活(上、下巻)』(文藝春秋、1994年)には、著者が毛沢東の侍医だったので、書名どおりに詳細に記されている。例えば、毛沢東の第四番目の夫人、江青について、『マオ』では、「何よりも、江青は夫を恐れていた。」(上巻、452頁)、と指摘しつつも、どんなに汚いことも実行できる悪女として描写している。江青悪女観は今日の中国人の考えとしては一般的である。李志綏は江青の権力基盤は毛沢東の権威であり、毛沢東に捨てられることをひどくおびえていた、と鋭く指摘し、江青もまた、毛沢東の犠牲者として分析している。看護師と医者が出てきたところで、次に毛沢東の健康状況について触れる。
 
 李志綏の前掲書は毛沢東の健康状態を詳細に紹介している。それについて、要約している著作がある。小長谷正明(こながや まさあき)著『ヒトラーの震え 毛沢東の摺(す)り足』(中央公論新社、1999年)である。「神経内科からみた20世紀」というサブタイトルにあるように、著者は神経内科の専門で、読みやすく毛沢東の病気について紹介している。
 毛沢東は筋萎縮性側索硬化症(ALS)だった。この病気は「脳からの命令が伝わる通りみちである側索と、その命令を中継して伝達する前角神経が、ゆっくりと機能しなくなり、運動神経からの支配を喪失した筋肉がやせて萎縮してしまう。手足は麻痺することをはじめ、食事や言語障害を生じ、ついには呼吸障害まで引き起こし、死に至る病である。今日でも治療法は存在せず、毛沢東の医者たちは30年間の臨床経験でわずか2例しか診たことがなく、ちなみに日本では10万人に5人ぐらいの頻度の難病中の難病である。」(4)
 『マオ』の中では、毛沢東の性欲をはじめ、異常なまでの猜疑心、被害妄想や心気症などの精神異常を指摘している。また、仕事を始めると、昼夜を問わないほど不規則で周囲の秘書や医師団らは大変であったことも指摘している。
 また、林克(リン・クオ)・凌星光(リン・シンクワン)共著、凌星光訳『毛沢東の人間像』(サイマル出版会、1994年)でも夜行性で気ままな日常だった、と記されている。この著作は元毛沢東の秘書だった林氏と、中国社会科学院で日本経済などを研究し、福井県立大学など日本の教壇に立たれた凌氏との対話形式で、毛沢東の人間像を語っている。『マオ』と読み比べれば、抑制がきており、遠慮している部分もある。それでも、非常にバランスのとれた意見であり、偏りが目立つと批判のある『マオ』と読み比べると、『マオ』が根拠薄弱のものではないことがわかるともに、毛沢東の人格の多面性と非凡な魅力について別な角度から知りうる好著である。
 
 『マオ』を読んでみて正直のところ、一番抵抗のあったのは、日中戦争期の記述である。例えば、「日本語版によせて」で「日本軍による侵略が毛沢東の政権奪取を助けたのは確かです。」(上巻、4頁)とある。ちなみに中国共産党軍が日本軍とあまり熱心に戦闘しなかったという記述は、ピョートル・ウラジミロフ著、高橋正訳『延安(えんあん)日記』(サイマル出版会、1975年)にある。著者はコミンテルンから派遣されたロシア人記者で、延安における凄惨な権力闘争に関する記述では、『マオ』との共通項が多い。
 しかし、それでは日本軍は一体誰と戦っていたのか? 中国の国民政府の抗戦力については、石島紀之著『中国抗日戦争史』(青木書店、1975年)で実証研究がなされている。実際、蒋介石は共産党との戦争に備えて兵力を温存していた。付言すると、アメリカは当初、国民政府と共同で中国大陸から日本軍を撃退することを考えていた。しかし、国民政府が消極的態度であったため、アメリカが単独で太平洋の群島づたいに日本軍を撃退する方針に転換した。一方の日本軍は「八路軍(はちろぐん)(バロー:日本軍の蔑称)狩り」と称して残虐な掃討作戦を展開するほど八路軍を恐れていた。そして、八路軍や中共が恐ろしかったと語る旧日本軍人は少なくない。著者の記すように、国共軍が抗日戦争(中国語では、一般に日中戦争をこのように表現する)にあまり関与していないのならば、100万人もの日本軍はなぜ、南方の戦線に行けずに足止めのように中国大陸で戦闘を継続せざるをえなかったのか。例えば、アヘン戦争後の平英団のような民兵組織が日本軍に対し、強い抵抗をしていたのならば、少しは首肯できる。また、皖南(かんなん)事変(ワンナン事変)に関する記述(上巻、394頁)で共産党が国民党に比べて宣伝がたくみであったと指摘している。しかし、正直の所、今でも信じられないという感想を有する。
 また、第26章の「革命的阿片(アヘン)戦争」(上巻、458頁)で共産党が農民に阿片を栽培させていたという記述にも驚かされた。日本軍が中国で阿片の製造・販売していた事実は江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波書店、1988年)で知っていたが、それに共産党が本当にかかわっていたとしたら、中国でのアヘン事情に関する研究に大きな波紋を投げかけることになる。
 日中戦争期に関し、最近出版された著書に、劉震雲(りゅう しんうん)(リュウ・チェンユン)著、竹内実監修、劉燕子(りゅう えんし)訳『温故一九四二』(中国書店、2006年)がある。この著書は日本軍が中国の農民から略奪した食料を河南省で日照りとイナゴの大群で被災した農民に対し、食料を分け与えたという史実を小説にしたものだ。当時の国民政府は被災者を救援するどころか、農民から厳しく食料を取り立てていた。そんな折の救援に恩義を感じた農民は国民政府に歯向かった。著者は飢餓と戦争で苦しんだ当時の農民と成長に取り残された現代中国の農民と姿が重なるという。『マオ』もそうだが、異なった視点で歴史をとらえることは重要である。しかし、一方で日本が行った侵略戦争の免罪符のように扱われることがあってはならない。現在の日本では、「自由主義史観」と称し、歴史の歪曲を謀る集団がいる。例えば、Iris Chang “Rape of Nanking” PENGUING BOOKS, 1997.のように日本人に対する差別や偏見があるなど不適切さが目立つとはいえ、この著書をもとに南京大虐殺を中国人のでっち上げとして悪用されたことがある。ちなみに、アイリス・チャン氏への批判については、J・A・フォーゲル氏の論文(5)が詳細で理解しやすい。同様な事が今後も発生する虞(おそれ)があり、警戒して注視しなければならない。
 
 朝鮮戦争に関する『マオ』の記述には、「スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成(キムイルソン)の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月十九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。」(下巻、65頁)とある。正直のところ、それは言い過ぎではないかと考えた。例えば、朱建栄(しゅ けんえい)著『毛沢東の朝鮮戦争』(岩波書店、1991年)がある。この著書はサブタイトルの「中国が鴨緑江(おうりょっこう)をわたるまで」にあるように、中国国内外の多様な資料をもとに、多角的視点から毛沢東の朝鮮戦争参戦する経緯を実証研究している。端的に述べると、当時の中国は国共内戦で疲弊しており、建国間もない時期においては、戦後復興をはかりつつ、権力基盤を安定させ、内政を充実させる必要があった。また、対外参戦に伴う重大な負担をかけることは、中国の経済発展を遅らせ、深刻な経済問題を引き起こす虞があった。故に、毛沢東は参戦したくなかった。しかし、国家建設にあたり、ソ連の協力は重要だった。また、国民政府時代にソ連に事実上与えてしまった中国・東北部の権益を取り戻すためにも参戦は必要だった。さらには、米軍主体の国連軍が中国国境にまで迫ってきており、中国領内にまで戦線が拡大する虞があった。そうした諸事情があったこそ、「援朝抗美戦争」(中国語で朝鮮戦争のこと)になったのであり、毛沢東個人の野望に参戦理由の重点を置いた『マオ』での扱いに対し、小生は賛成できない。なぜならば、参戦した主な理由を中国は東西冷戦に巻き込まれたために、朝鮮戦争に参戦せざるを得なかったと見るからである。
 
 中国経済史に関心のある小生にとり、「第31章 共産中国ただひとりの百万長者」の中にある土地改革をめぐる記述(上巻、547頁)にも驚いた。これまでは、結果として、土地改革に関しては、国民党は不徹底なために失敗し、共産党は徹底したので成功したという真剣な議論を聞いてきた。例えば、長岡新吉・西川博史編著『日本経済と東アジア −戦時と戦後の経済史ー』(ミネルヴァ書房、1995年)はそれぞれの土地改革に関し、要領を得た説明がなされている。それが共産党の土地改革が宣伝から来る美名であり、実際は農民から土地を収奪するのみの行いであり、しかも、凄惨なリンチ殺人込みの地獄絵図であったのには心底驚かされた。ところで、丁抒(てい じょ)(ディン・シュー)著、森幹夫訳『人禍』(学陽書房、1991年)には、山西省において興味深い次のような事実が紹介されている。
 「初級合作社が成立したとき、農民たちはあれこれためらったが、結局、協同化にもある程度の利点があるはずだと信じた。ましてや土地や農具はまだ自分の名義のままで、そこからも配当を受けられるし、そのうえ共産党はいつでも自由に退社する権利を保証していたので、最終的には加入を申し出たのである。ところが、わずか一、二年後に、地区によっては数ヶ月も経たないうちに、上級から高級合作社を組織せよ、と指示された。そこで農民たちは、遅ればせながら、為政者の約束はあてにならないことに気づいたのである。
 彼らには高級合作社に参加しない権利が認められなかったばかりか、初級合作社を脱退する自由さえも失ったのである。衆人環視の中で脅したり、大会で名指ししたり、三日三晩眠らせなかったりしたのでは、どんなに意志の強固な男でもがんばり通せなくなった。こうして農民たちは屈服し、自分の土地や農具・役畜に対する所有権を放棄して、毛沢東の社会主義を受け入れたのである。」(6)
 『人禍』は1958〜1962年の大躍進政策にともなう2000万人もの餓死者を出した悲劇を記した著書である。『マオ』の下巻、「第40章 大躍進ー国民の半数が死のうとも」とも合致している凄惨な記録である。一方、『人禍』の中にある加々美光行氏の解説「人禍の悲劇と現代史の画期としての中国革命の評価」と『マオ』を比較すると興味深い意見の違いがある。
 例えば、前者は1970年代に対米接近を晩年の毛沢東が図ったことについて、「毛という人物が、他のいかなる指導者にもまして、国際世界への視野をもちつづけていたことを知ることも、現代中国の理解のためには不可欠である。」(7)と毛沢東を擁護する内容が顕著である。しかし、『マオ』では、「毛沢東主義の宣伝は、インドシナでも世界でも行き詰まった。が、機略縦横の毛沢東は、脚光を浴びるための新しい計画を思いついた。アメリカ合衆国大統領の訪中である。」(下巻、421頁)と冷ややかな評価である。事実を認めつつも、毛沢東を否定しきれないのは、加々美氏のみではなく、中国をはじめとする世界中の多くの人々に言える。小生も同様である。
 『マオ』と並んで注目すべき著書に北海閑人(ほっかい かんじん)著、寥建龍(りょう けんりゅう)訳『中国がひた隠す毛沢東の真実』(草思社、2005年)がある。北京在住の中国共産党の古参幹部がその統治手法と毛沢東の実像を紹介している。淡々とした調子(リズム)で記されているが、率直な表現であり、説得力がある。今日の中国共産党の統治手法を批判するのみならず、毛沢東時代を生きてきた人々の声を後世に残そうとする姿勢は、『マオ』と同様である。『マオ』とともに一読の価値がある。
 毛沢東の人間像を正視することは、重要である。なぜならば、毛沢東の権威を悪用し、中国人民をはじめ世界の人々を欺き、時として害をなす虞があるからである。例えば、『マオ』のエピローグには、「今日なお、毛沢東の肖像と遺体は首都北京の中心部にあって、天安門を威圧している。現共産党政権は自らを毛沢東の後継政権と位置づけ、全力で毛沢東神話の不朽化をめざしている。」(下巻、512頁)と、記されている。また、1970年代のカンボジアのポルポト政権や、今日では、ネパールやインドの農村部などで暗躍する「マオイスト」が存在する。彼らは目的遂行のためには、虐殺に至る暴力をも辞さず、それを正当化する論拠として毛沢東像を歪曲し、悪用している。それは毛沢東を冒?することにもつながる。さらに、日本のように負の歴史を直視することを避けることで同じ過去の過ちを繰り返す虞がある。中国においても過去の歴史を直視することは中国のみならず、世界平和のためにも必要である。特に将来、若い世代に正しい歴史を伝える義務がある。
 
 蛇足ながら、小生の毛沢東像に関する浅薄な考察を述べる。実は、井波律子著『破壊の女神』(新書館、1996年)から着想を得た考察である。この著書はサブタイトルの「中国史の女たち」にあるように、中国史上、有名な女性の物語をわかりやすく、興味深く記している。特に、西太后に関して興味を抱いた。
 毛沢東は部分的に西太后と重なる要素がある。
 1.経済に関する概念の欠如。前者の大躍進政策時の土法高炉(どほうこうろ)に象徴されるような大規模な浪費と後者の宮中での奢侈(しゃし)による浪費。具体的には、前者は人民から鍋、釜、鍬、鎌といった鉄製の日用品を供出させ、大量のグズ鉄を生産させた。後者は宮廷での衣食住はもちろんのこと、頤和園(いわえん)をはじめとする豪華な庭園の造成、豪華列車での旅などの贅沢である。こうしたことから推察しても、おおよそ当時の人民の生活のことは念頭になかった。 2.非情な性格。毛沢東については『マオ』で詳細に記されているので割愛する。後者はライバルだった東太后を陥れるために自ら産み落とした嬰児を殺めたり、些細なミスでも死刑にしてしまう態度。しかも、死ぬ間際まで権力に固執した。
 3.本来なら限定される範囲での権力闘争に人民全体を巻き込んだこと。前者は延安、後者は宮中にとどめるべき範疇の争いを、戦争及びその賠償金支払いを引き起こし、その挙句、重税を課したことで、人民を巻き込んだ。もっとも、毛沢東は、ケ小平の言うところの晩年における三割の過ちにあたる大躍進政策や文化大革命があるので、西太后よりもはるかに人民を苦しめた。逆に権力闘争を人民にまで拡大させなかった例として、前漢の時代について述べる。高祖・劉邦の后だった呂氏の専横が宮中にとどまり、当時の人民にはほとんど影響せず、武帝の頃までに経済力を蓄えることができた。宮中での闘争はさながら、「コップの中の争い」のようなものであり、その間、安定した経済成長を遂げることができたので、漢王朝が長い繁栄を誇った要因となった。「安居楽業(あんきょらくぎょう)」の語のように、社会が平和で、暮らしは安定し、人々は生業にいそしめる状況は重要である。
 4.両者とも極力遠方への旅を避けたこと。権力に対する拘泥から来る用心深さに起因するからである。前者はソ連に行ったのみ、後者は義和団事件で列強に北京を追われ、西安に行ったのが一番の遠出だった。瑣末(さまつ)ながら、両者とも側近に英語を学ぼうとして結局、挫折している。前者は林克・凌星光の前掲書で、後者は徳齢(とく れい)著、実藤恵秀(さねとう けいしゅう)訳『西太后秘話 ― その恋と権勢の生涯』(東方書店、1983年)で紹介されている。前者は世界に対する一定の関心を有していた。そのために、英語のできる国際秘書として林氏が任用された。英語を学習する熱意はあったものの、多忙な合間を縫っての学習だったので落ち着いた学習は不可能であった。実際、発音がうまくいかなかったり、毛沢東自身の希望で文法を重視したことから日本の英語学習者に多く見られる結果に終わった。後者はイギリスのビクトリア女王への関心と当時、幽閉されていた光緒帝が英語の読み書きををマスターしたというので、その賢明な皇帝への対抗心から英語を学習しようとした。しかし、2時間で頭が痛くなり挫折した。以上の証言を残した著者について、触れる。徳齢は外交官の父を持ち、フランスで教育を受けた後、妹の容齢とともに2年近く西太后に仕えた。宮廷の厳しい掟に従いつつも、西太后について様々な角度から分析し、批評している。それでも、暴露本ではなく、客観的かつ冷静な観察眼からなる筆致なので、当時の清朝宮中を知る上で、貴重な資料である。ちなみに、徳齢著、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』(東方書店、1997年)という興味深い著書もある。この著書は、奉天(現在の瀋陽(しんよう)市)への豪華な汽車の旅について紹介されている。それは宮廷を汽車に移したような豪勢な旅であった。今日で言えば、北朝鮮の金正日国防委員長の豪華列車での旅も、いかに豪勢であるのだろうかと想像してしまう。つまり、両者とも海外に関する関心はあったものの、海外に関する知識は実は豊かではなかった。例えば、前者は核兵器を「はりこの虎」と称し、後者は「異を以って、異を征する」とばかりに、義和団を支持し、列強に宣戦布告した点からも実証できる。逆を言えば、中国の事情や中国人の心情については、鋭い洞察力があった。前者は、文学や歴史書から知識を涵養していた。後者は、歴史書や「筆帖式(ひっちょうしき)」の参考書から知識を涵養(かんよう)した。筆帖式とは、「満州旗人(まんしゅうきじん)に限定された一般事務職で、公文書を作成したり満(まん)漢訳(かんやく)をする書記官である。科挙を合格した官僚から見れば、ノンキャリアに相当する。だが、北京の中央官庁で働くため、要路の人物に顔を覚えてもらいやすく、出世が早い。」(8)つまり、両者とも中国人の人情の機微をわきまえていた。
 それでも歴史上の評価は、前者は建国の英雄、後者は亡国の女帝と両極端である。
 
 『マオ』の著者の毛沢東像を一言で言えば、「婬逆暴戻(いんぎゃくぼうれい)」の皇帝と言ったところだろう。中国人民から今でも敬愛されている彭徳懐や劉少奇(りゅう しょうき)といった直言極諫(ちょくげんきょっかん)之(の)臣(しん)を「直躬証父(ちょっきゅうしょうふ)」、とばかりに排斥した独裁者としての一面はある。しかし、夏(か)の桀(けつ)や殷(いん)の紂(ちゅう)のような亡国の王ではなく、建国の英雄であったという事実を、幻想だったとは一概には言えない。例えば、悪逆非道さも顕著な秦(しん)の始皇帝が中国史において貢献したことに関し、始皇帝に変わって同様な事業をなしうる可能性のある人物が当時ありえなかったように、毛沢東以外に中華人民共和国を建国し、統治しうる可能性のあった人物を想像するのは難しい。なによりも国民党政府のままで当時の中国人民は幸福であったとは考えられない。毛沢東の歴史上果たしてた役割の全てを否定するつもりは小生にはない。ドイツの劇作家、ブレヒトの「ガリレイの生涯」の中には「英雄を必要としている国が不幸なのだ」というガリレイのせりふがある。激動の20世紀においては中国も例外なく、英雄は不可欠であった。問題が多々あっても毛沢東に対する一定の敬意は持ちたい。
 21世紀になり、中国においても英雄待望論に頼らなくても問題ないくらい、民主主義国として立派に独り立ちできるほどの大国となった。『マオ』の謝辞の中で筆者は「中国本土の方々については、ここでお名前を紹介できないことをほんとうに悲しく思います。こんな状況がいつか変わる日が来ることを望んでいます。」(下巻、514頁)と記している。小生の知る限り、中国人は本来、陽気で議論好きの性格であるという印象が強くある。中国人が毛沢東時代を中国人同士にとどまらず、世界の人々と自由に議論できるようになるならば、世界史研究における大いなる発展に貢献することになると考える。それが中国におけるよりよい民主主義への歩みとなるからだ。日本人の一人として小生も、中国人が歴史認識に対して、真摯に直視しようとしている態度を見ならいたい。
 『マオ』については、学会を揺るがしかねない程の刺激的内容が豊富であった。だが、全体的に大雑把な記述であり、実証の面で容易に首肯できない。今回の大著はインタビューにより、貴重な毛沢東時代の証言を残すためという性格上、やむを得ないし、また、よくまとめられた労作である。しかし、ユン・チャン氏には気になる発言がある。「批判するなら、その論拠を示さなければ、不公平。知らないものは口に合わないのでしょう。」(9)と。そのインタビューを見た時、正直の所、残念に思った。世界には、毛沢東について語りたくても語れない人や別の視点から毛沢東を知っている人はまだ大勢いるはずである。そうした方々との議論を閉ざすことになりはしないかと憂うからである。むしろ、世界に向けて様々な批評に対し、新著なりでより実証的に答えて欲しいと衷心(ちゅうしん)願っている。勿論、『マオ』を批判する以上、その論者は感情論ではなく、実証的に批判することをせねばならない。そうすることで、より毛沢東研究が促進されるからである。毛沢東は語りつくされたのではなく、これから議論されるべきテーマである。今後の研究を注目したい。
 
 
 小生は自らの非才を省みず、このような大著に対し、浅薄な思いつきを綴った読後感を記してきた。『マオ』の内容は、毛沢東思想、少数民族に関する諸問題、長征、文化大革命など多岐に渡っており、本来ならば、一つ一つのテーマを丁寧にかつ深く考察せねばならないが、それぞれが深淵で重大なものなので、小生の能力では不可能である。
 なお、拙稿に対し、ご教示を得られることができますならば、今後の学習に向けて有難く活用させていただきたく存じます。
 
 
                               2006年6月23日
 
 
 注
(1) 丸山真男著『日本の思想』岩波書店、1961年、127頁。
(2) 高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』講談社、2004年、280頁。
(3) 同上書、34頁。
(4) 小長谷正明著『ヒトラーの震え毛沢東の摺り足』中央公論新社、1999年、
     62〜63頁。
(5) J・A・フォーゲル著/解説・吉田裕「アイリス・チャンの描く南京事件の誤認
     と偏見」(雑誌『世界』岩波書店、1999年11月号)。
(6) 丁抒著、森幹夫訳『人禍』学陽書房、1991年、25頁。 
(7) 同上書、344頁。
(8) 加藤徹著『西太后 ― 大清帝国最後の光芒』中央公論新社、2005年、24頁。
(9) 『朝日新聞(夕刊)』、2005年12月3日(土)2面「ぴーぷる」。