現代中国股肱伝ー周恩来以後の側近伝
渡邊理
 
はじめに
 
 以前、「地縁に見る国家主席像」の拙稿において、中国の国家主席に関する考察を試みた。本稿では、側近像を考察することにした。また、国家主席と側近とのかかわりについても、考察を加える。それは中華人民共和国におけるそれぞれの政権の性格を考察する上で重要である。国家主席と側近の関係が政策をはじめ、中国史において、その時代を特徴づける重要な要素となるからだ。また、側近とのかかわりを通じて、それぞれの国家主席の性格を学ぶことが可能である。結論からいえば、前回の拙稿でも述べたように、毛沢東やケ小平は、カリスマ的指導者となり、側近を切り捨ててしまった。それに対し、江沢民や胡錦濤は、集団合議のもと、側近を切り捨てず、政権運営している。前者は個人レベルの権力闘争に対し、後者は地域閥による集団レベルの権力闘争を展開している、といえる。
 今回は毛沢東時代以降、つまり、周恩来以後の側近についてを中心に展開する。また、第4章では、林彪と江青ら四人組について考察する。
 周恩来は、有名、かつ彼についての資料や文献は膨大である。しかし、これから考察する方々は有名ではあるものの、周恩来と比して、あまりにも扱いが小さい。小生は及ばずながら、そうした人々を学習し、中国理解を自分自身で深めるために考察することにした。
 なお、扱う時代の関係上、どうしても1989年の天安門事件にふれることがある。だが、事件そのものに関しては、深く言及しない。なぜならば、天安門事件そのものが大事件であり、それだけでかなり深い研究を要する。更に今日の中国において、天安門事件の評価自体、禁忌であり、中国国内外に存在する当時の人民の声を集めるだけでも容易でない。
 以下に、考察を進める。
 
第1章 悲劇の忠臣、胡耀邦と趙紫陽
 
 ケ小平は、プロレタリア階級文化大革命(以下、文革と略する)の混乱を収束させる改革派指導者として、中国人民から熱烈な支持を受けた。その際、若く有能な部下として、次のような人物を重用した。「一人は、北京市副市長で、人民大会堂と新しい天安門広場の建設を指導した万里(ワン リー)だった。毛が言うには、彼はその名前のとおり一日で一万里も走れるくらい活動的だった。魅力的で精力的、鋼鉄の意志を持った万里は重慶時代からケを知っており、ともに働いたこともあった。さらには、ブリッジの遊び仲間でもあった。二人目は、地方指導者でその時広州にいた趙紫陽(ジャオ ズヤン)だった。三人目は、胡耀邦(フー ヤオバン)[八九年死去]で、ケと同じくらい背が低く、きわめて活動的な彼は当時、共産主義青年団の指導者だった。彼らの名前はケの名とともにしばしば言及されるようになった(1)」。1989年の天安門事件の際、万里は、いったんは学生を支持する言動をしながら、ケ小平や学生運動の弾圧を要求する党の保守長老たちと行動を共にした。つまり、改革積極派の指導者として、一般大衆にも人気があったが、胡耀邦や趙紫陽とは立場を画した。ちなみに、当時の政権における実力者の一人楊昆尚の命を受け、保守派につくように万里に説得にきたのが、江沢民である。 
 胡耀邦(1915ー1989)は、湖南省瀏陽出身である。ケ小平と同じく客家系である。党主席、党総書記の地位にまで登りつめた。胡は、イデオロギーと組織の管轄権を握り、ケ小平が華国鋒(1921ー )派との権力闘争に勝利するのに大きな貢献があった。
 胡耀邦の大きな特徴を言及すると、青少年教育がある。1933年に中国共産党に入党し、翌年長征に参加して以来、青少年教育に従事していた。共産主義青年団を中華人民共和国建国時から組織し、発展させてきた。ケ小平と趙紫陽とともに胡耀邦は、生産力レベルを重視し、改革の重要目標とみなしていた。「しかし、胡耀邦は生産力を最終目標とは考えず、最終目標を人の解放であるとみなしていた。(2)」と胡耀邦の秘書だった阮明が指摘するように、道徳的に健全な青少年が中国の民主主義を担うことを胡は望んでいた。なお、阮明については、胡耀邦に近しい分、興味深いエピソードが多い反面、胡を敬愛するあまり、胡贔屓(ひいき)の記述も少なくないことを、参考までに指摘する。西欧の民主主義に懐疑的だったケ小平と胡との間には、思想の違いが顕在した。皮肉な話、共産主義青年団は胡耀邦の死後、実務上は有能であるが、政治的には保守的な人物を育成し、政権担当させる部署に変質した。現に、江沢民・胡錦濤、両政権の担当者の多くが共産主義青年団の過程を経ている。そして、政権の後継者を占う上でも重要な部門となっている。今日の中国における弱肉強食の格差社会をみても、胡耀邦が志半ばで早世した悲劇を連想させられる。
 上述の特徴から導き出される胡の長所は次のとおりである。「知識人は、社会主義の新しい段階においてすでに労働者階級の一部となった。知識人の要求する自由と民主を全面的には受け入れず、弾圧もせず、改革も行わないで、「三ない」(弱みを握らない、レッテルを貼らない、罪を着せない)および「三寛」(ゆるやかに、寛容に、手厚く)政策を胡耀邦はおこなった」(3)。つまり、人民に対して、柔軟な対話姿勢があったので、胡耀邦は多くの支持を集めた。胡耀邦の死を悼んだ学生達が天安門広場に集結し、中国共産党中央に出した7つの要求がある。「(1)胡耀邦の功罪を正しく評価せよ。(2)精神汚染一掃運動とブルジョア自由化反対運動を却下せよ。(3)指導者および高級幹部の子弟は給与や企業収入を公開せよ。(4)新聞発禁を解除し、新聞発行および出版の自由を認めよ。(5)教育費を増額し、知識人の待遇を改善せよ。(6)党の北京市委員会はデモ行進に関する規定をとり下げよ。(7)マスコミは今回の事件を正しく報道せよ」(4)。
1989年当時に限らず、今日でも同じ要求を出そうものなら、中国政府からの弾圧は免れないであろう。7つの要求の中で、いの一番に胡耀邦を挙げるほど、胡に対する人民の厚い信頼が存在した。
 また、胡耀邦は外国に対する理解や関心が高かった。読書熱心であり、とりわけ次の3分野の書物を中心に愛読している。(1)マルクス・レーニン主義の哲学、政治経済学および各種の政治理論書、(2)歴史、(3)文学〜唐詩や宋詩、古典文学を沢山学び、また古今東西の小説、戯曲を広く読み、多くの内外の作家たち―日本の山崎豊子、アメリカ国籍の中国人作家韓素英(ハン・スーイン)、カナダ籍の中国人作家若曦(じゃく ぎ)、国内の老年、中年、青年作家の、沙葉新、白樺、劉賓雁、周揚らと交友関係を持っていた。彼が作家たちの創作の自由の要求に対して、中国の一般の高級幹部たち以上に、深い理解を示し、かれらのその要求を支持し、擁護し評価した点は、中国文芸界では衆人の認めるところである。また、書の達人であったり、歌やダンスがうまく遊びの達人でもあった(5)。つまり、教養が高く、多趣味であり、明るく人と接することができる人物であった。また、海外の文物にも関心が高く、中国の青少年にも触れさせようと尽力した。それについては日本の例で後述する。
 胡耀邦は1987年1月に総書記辞任に追い込まれる。その原因について考察する。「胡耀邦から権力を簒奪した連中が手にしていた権力は、胡耀邦が冤罪・誤審・でっち上げ事件を是正したために与えられたものなのである。これこそ、胡耀邦の悲劇にほかならない。(6)」と阮明は指摘している。事実、保守派が取り締まりが手ぬるいと言うほどの深刻な学生運動でなかった。のちに行われた天安門広場における胡耀邦追悼集会はかつての周恩来のものと同等の規模であり、周知のとおり、中国の民主化運動にとり、最悪の結末となった。加えて、外国への理解が大きすぎたために疎まれた面もある。例えば、胡耀邦の親日姿勢がある。以下、段瑞聡「教科書問題」(7)の記述を参考に考察する。胡耀邦は総書記時代、親日姿勢をとっていた。中曽根康弘首相との個人的信頼関係があり、日中間の外交上の火種である1986年の教科書問題を早期に決着させた。なぜならば、教科書問題を外交問題に拡大することで、同年7月6日の衆参同日選挙において自民党にとり不利に影響させないためであった。胡は歴史認識について、時間をかけ対話を重ねることで、共通認識の形成をはかろうとしたのではないかと小生は推察する。しかし、保守派からは軟弱外交という不満があった。加えて、1985年7月に中曽根が靖国神社公式参拝をしていたので、なお不満が強かった。
 小生の結論は、胡耀邦は、胡自身にとっては、とるに取りないことをあげつらわれた挙句、権力の座から引きずり下ろされたのだ、と考える。中国人民の目覚めよりも経済成長志向を装った指導者たちの私的利潤追求があったからであると推測するからである。
 1989年の天安門事件については、胡耀邦について考察するうちに小生なりにささやかに想像したことがある。例えば、「怒りの大部分は恐怖が原因である。」という言葉を耳にして思ったことがある。その見地から、天安門の悲劇を誘引したケ小平の怒りの源が何かを考えると、文革を終焉させた大衆のエネルギーと1989年の学生運動とが同水準で同質のパワーがあるとケ小平は感じたのであろう。つまり、後述する四人組が、打倒された立場と同じ立場にいると、ケ小平は感じたのであろう。そして、保身のために恐るべき選択をしたのであると推察する。
 胡耀邦は、日本との関係も深かった。1983年11月に訪日し、その後、日中友好21世紀委員会を設置し、3000人の青年訪中受け入れなど日中関係の強化に尽力した。今日でも、日中交流の基盤として機能しており、青少年教育に尽力してきた胡の遺産と言える。
 ところで、横路孝弘北海道知事の時、胡耀邦が中国の要人として、はじめて来道した。以来、堀達也知事の時は、江沢民国家主席、高橋はるみ知事の時は、呉儀副首相と、奇しくも北海道知事が変わるごとに中国の要人は来道している。こうした北海道と中国との交流を政府や財界や官僚レベルの交流にとどめず、大いに民間交流を促進、拡張すべきである。現に呉儀副首相は来道した際、中国本土には北海道に対する関心が高く、もっと観光ビザを得やすくして、日中交流を活性化して欲しいとの旨の発言をしている。折角の機会を大いに活かすべきである。次に趙紫陽について、考察する。
 趙紫陽(1919ー2005)は河南省滑県生まれである。党総書記、国務院総理まで登りつめたが、天安門事件で学生を擁護したために失脚した。趙紫陽の業績として特筆すべきことは、1975年から1980年の5年間、四川省で党委第1書記兼省長をつとめた際の「四川の経験」と呼ばれる積極的改革である。内容は、農業では農民に経営上の自主権を認める農家経営請負制を実施し、農業生産を向上させた。工業でも企業の自主権拡大の実験を行った。ケ小平の改革開放路線に合致するとして、中央へと抜擢され、1980年9月に華国鋒に代わって国務院総理となった。1987年1月胡耀邦総書記の辞任を受けて、総書記代行、同年11月には総書記兼中央軍事委第1副主席に就任した。
 1989年6月の天安門事件に際し、ハンスト学生を見舞うなどの行動をとり、「動乱を支持し、党分裂の誤りを犯した」としてすべての職務から解任された。しかし、党員としての資格は留保されており、一般人民のみならず、幹部の中にも趙紫陽の支持者も多かった。
 趙紫陽を四人組のような裁判にかけず、西安事件後の張学良のように政治の舞台からおろしたままにしたことについて次のような指摘がある;党の宣伝機関を掌握した反動派たちは、趙紫陽を「乱」を引き起こそうとした張本人として公判にかけるよう、何ヵ月もがなりたてた。しかしこの点に関しては、ケは断固として譲歩しなかった。どんな形の裁判にせよ、趙を法廷に引き出せばケも無傷では済まなくなる。結局のところ趙はケの部下だったのであり、ケの命令に従っていただけ、というのが真相なのだ。ケとその宿敵である陳雲は、党内の闘争を避けたいと思う点で一致していた。これ以上は動かずに、傷を癒した方がいい。力説すべきは団結だ。そして何よりも安定を目指すべきだ。もう「乱」はたくさんだった(8)。ケ小平は、冷徹な現実主義者である。ケ小平自身、文革に限らず、権力闘争で忍耐を強いられてきた人生だったので自らをカリスマ指導者であることを否定したり、強い政治的主張を自ら発したり、他方から発せられることを嫌ったのである。
 阮明にとり趙紫陽は信用できる人物でなかった。例えば、次の記述がある。「1986年12月30日午前10時、ケ小平は胡耀邦、趙紫陽、万里、胡啓立、李鵬、何東晶を呼び寄せて、自由化に対する胡耀邦の軟弱さを批判し、方励之、王若望、劉賓雁を除名するように提起し、傍らから趙紫陽があおった。事実、趙紫陽はかなり前にケ小平と陳雲に胡耀邦とはいっしょに仕事ができないと訴える手紙を書いており、胡耀邦に辞職を迫るうえでのカギとなる役割を果たしたのである(9)」。阮明は胡耀邦の忠実な秘書だった故、趙紫陽を許しがたい日和見主義者として怨んでいたようだ。しかし、趙紫陽をそうした評価をするのは一面的である。そもそも、権力闘争にはありがちな現象だからである。
 小生は中国人の嫉妬深さ故に導かれた悲劇的確執であると愚考する。例えば、三国志にでてくる「水魚の交わり」の話からして良く分る。中国人を不平不満なく、平等に接することは非常に難しい。ちなみに中国語で「紅眼病」といえば、特に成功者に対する嫉妬深い様をさす。英語では greenである。ついでに英語では、red eye lineで夜間運行の航空便を意味する。さらに、中国人はたとえ自分より遥かにレベルの高い人物であっても、すざましい対抗意識を抱く。後述する江青が王光美に執拗な対抗意識を持つこと自体はあまり不思議でないくらいである。それに趙紫陽が本当に日和見主義者というのならば、天安門事件の際、万里同様、学生への同情を否定し、体制側に迎合したであろう。ゆえに、趙紫陽が胡耀邦に対し、ライバル意識を有した結果、連帯するどころか、足を引っ張る役回りになったと小生は愚考する。そして、鷸蚌之争(いつぼうのあらそい)を利用され、胡、趙は順にケ小平らに切り捨てられたことが、中国の民主化の見地からいえば、悲劇であった。胡、趙の両者とも中国人民の中では、人気が根強いが、その根拠は高学歴でなく、苦労して出世したことと人の話に耳を傾ける気さくな性格という長所が考えられる。「1980年代の開放政策は、過去の束縛と文化大革命の後遺症からの脱出という解放的作用をもっており、そのため、社会全体、特に知識人から広く歓迎された。(10)」という記述にあるように、その立役者である胡、趙への敬意とともに、民主化への希望の象徴としての期待が大きかった。
 胡耀邦と趙紫陽は確かに能吏であった。それがゆえ、ケ小平がいざ、権力基盤を自らに向けて集中させようとした際、順番に排除されていった。ケ小平は毛沢東ばりのマキャベリズムを展開したためである。あたかも戦前の日本において、アナーキスト、マルキストといった思想勢力を順に弾圧した後で軍国主義ファシズム体制を形成した過程を彷彿(ほうふつ)させられる。共に当時の中国の若い世代から信頼を得ていたが、結局、ケ小平が保守勢力と結託することで、政治の舞台から排除された。経済第一主義とばかりに経済成長が優先される一方、中国の民主主義の成長は後回しにされている。中国の民主化を考察するとき、胡耀邦と趙紫陽を除外して考察できない。中国における今日の格差問題を考えると、官倒(官僚ブローカー)を批判した慧眼(けいがん)ともいうべき人民の声の重みを再考せざるをえない。
 
第2章 豪腕宰相、朱鎔基
 
 朱鎔基は、江沢民の右腕として辣腕をふるった首相として知られる。江沢民国家主席同様強面のイメージが強い。だが、それだけの性格の人物ではない。本章では、朱建栄『朱鎔基の中国改革』(1)を種本にして、考察する。
 朱鎔基は1928年、湖南省長沙で生まれた。1949年10月中国共産党に入党。1951年清華大学電機工程系を卒業した。ところで、江沢民政権時に「大清帝国」と「北大荒」という言葉が生まれた。前者は清華大学出身の卒業生を指し、テクノクラートなり、技術者として海外でも活躍し、学閥として朝日の昇るが如きの勢いのある様を意味する。後者は北京大学出身の卒業生を指し、文科系の名門校出身では、理工系の名門校ほど出世ができない様を意味する。北大荒自体、黒龍江省に実在する地名で、文革時に都市部の若者達が、「農村に学べ」のスローガンのもと、下放された最北の荒蕪地である。つまり、出世を望んでも茨の道であると、文系大学出身者を揶揄した言葉である。ちなみに江沢民は清華大学と比肩するほどの中国における理工系の名門校上海交通大学の卒業である。交通と言えば、日本では交通機関や交通網と限定的であるが、中国では通信網という概念も加わることから、通信や情報を含めた意味となる。江沢民自身もIT分野出身のテクノクラートである。もっとも、中国で文系出身の学生が冷遇されているかのような言葉は実状としては正しくない。小生自身、中国国内外で活躍している文系大学出身の方々を知っている。それに、中国は伝統的に文官が重要視されてきた伝統がある。一時の勢いだけで文系大学出身を軽侮していると、いずれは恐るべき逆襲に遭う可能性がある。
 大学卒業後、東北行政区人民政府工業部計画処生産計画室副主任に任命され、高崗(こうこう)(1902ー1954)のもとで馬洪の部下になる。1952年、高崗の中央入りと共に国家計画委燃料動力工業計画局・総合局組長、同委党委主任に就任した。1957年、「右派」のレッテルをつけられ、国家計画委幹部業余学校教員として左遷された。原因は、1956年の百花斉放・百家争鳴という言論・思想・芸術などの表現の自由を唱えたスローガンがあった際、国家計委と地方の計画委員会の「官僚主義」「主観主義」をまともに批判する内容の演説をしたためである(2)。加えて、劉少奇や周恩来と権力闘争に敗れ、自殺した高崗の部下だったことも災いした。そのエピソードから、権力に屈しない剛直なイメージを朱はもたれるようになった。朱鎔基は出世コースから外れる大きな挫折を経験したものの、マルクス、アダム・スミス、デビッド・リカード、マルサスなどを原書で読んだり、『史記・貨殖列伝』、『漢書・食貨志』などの中国古典にある経済学文章を読んだ。それで「経済通」となっていった(3)。この時期における学習や経験の蓄積が、後に「不死鳥」に譬(たと)えられるほどの、中央政界における活躍の源となった。 
 1978年に名誉回復となり、社会科学院工業経済研究所研究室副主任に任命された。1983年には、国家経済委副主任に就任した。
 1987年、上海市党委副書記に転任となり、上海閥としての活躍のはじまりである。1988年には上海市長となる。当時の上海市党委書記は江沢民であり、ここから、江と朱とのコンビが始まる。1988年、外国資本導入の許認可の効率化を目指して上海市外国投資工作委を設立、自ら主任となる。官僚主義に対する攻撃と厳しい汚職の取り締まりでも、名を上げ、不良タクシーの追放キャンペーンや暴力をふるうバス運転手の解雇は、有名であった。朱が清廉潔白で辣腕政治家であるというイメージのもととなるエピソードは、上海時代にも多い。浦東開発の準備にも尽力した。朱の業績は、今日の上海がアジア市場で国際的に重視され、繁栄することへの布石となった。1989年の天安門事件に際しては、戒厳令部隊の上海進駐を行わずに無血でデモ鎮圧化に成功した。このことが、江沢民がケ小平の後継者として国家主席になる要因の一つとなった。
 1991年に国務院副総理に任命され、本格的中央政界入りを果たす。国務院生産弁公室主任および清理三角債領導小組(中国語で「清理」は整理、「領導」は指導の意である)の組長を兼任し、三角債の整理に成果を上げた。三角債は悪化した企業間商業信用のことで、企業が資金繰りができなくなって原材料や製品の購入代金の支払いを引き延ばし、こうした借金の付回しが企業間で連鎖になる経済現象を指す。1990年代はこうした三角債の焦げ付きの問題が深刻であった。それを1992年5月の段階で、5000億間の「三角債権」総額から3000億阮以上の債務を解消させることができた(4)。その後も経済関係で朱は辣腕を発揮し続けた。特に、アジア通貨危機では人民元を切り下げない等の強気な姿勢を貫いた。
 朱鎔基は、自身が経済に精通したことについては、上述したとおりである。朱には、彼の経済政策を支える経済に精通したブレーンが存在し、その政策提言を巧みに取り入れた。その当時のブレーンの一人に林毅夫がいる。新聞によると、世界銀行で空席だった上級副総裁兼主任エコノミストに、北京大学中国経済研究センター主任の林毅夫教授が5月末に就任することになった。朱鎔基のもとでは農村対策などの分野で政策提言を続けてきた。国連や経済開発機構(OECD)などの国際機関の活動にも専門家として参加し、そうした実績から発展途上国出身者として初めて世銀幹部ポストに就くことになった(5)。
 朱鎔基は経済に強い反面、外交では、目立つ業績は乏しい。例えば、1999年5月、NATO軍が、ユーゴスラビア(当時)・ベオグラードの中国大使館誤爆事件に端を発した反米デモに対する対応がある。人民の不満に対し、ある程度デモをさせることで一定のガス抜きをさせた。その後で、アメリカを極度に刺激しないとする中国政府の外交方針に沿って、反米デモを穏便に抑えた。外交には自身は深入りをせず、中国国内向けに、にらみを利かす役割を朱は演じたのであった。1989年天安門事件当時、上海で無血デモ鎮圧と同様のパターンである。2005年の反日デモも、上海でのデモの後、抑制したが、政権が変われど、中国人民の不満を抑制するこうしたパターンには大差がない。
 朱鎔基は豪腕という役割を演じつつ、江沢民を細部でフォローし、支えた宰相であると小生は考える。例えば、江沢民と朱鎔基の訪日を比較して考察する。
 江沢民は訪日の前、中国国内の大学や研究機関などの有識者達から提案された複数の意見の中から、東京ー仙台ー札幌の北紀行といった訪日コースを選択した。日本側はいささか虚を突かれたようだったが、勿論、問題なく江沢民の訪日を準備した。江沢民は国家主席として歴史上初の訪日を果たす以上、中国人としての道徳の高さを中国の国内外に向けて、演出したかったのであろうと小生は推測する。というのは、東京では早稲田大学、仙台では魯迅の留学先として有名な東北大学、そして、札幌では北海道大学といずれも教育機関を訪問している。中国において教育に力を入れることをアピールするとともに、中国の指導者にふさわしい道徳性を備えているとアピールしたかったのでは、と愚考するからである。2007年12月19日の保守系野党ハンナラ党の李明博(イ ミョンバク)氏が当選した韓国大統領選挙に関し、「これまで、韓国の政治指導者は道徳性を備えていることが絶対条件だった。」と、指摘している(6)。中国と韓国は儒教道徳の観念が、今でも強いので、そうした指導者像が国民から要求されている。
 ついでながら、胡耀邦と江沢民の来道の意義について考察すると次のようになる。前者は、農村部を安定的に発展させるモデルとして北海道視察をした。後者は、当時、「東西合作」に関連して北海道を視察した。「東西合作」とは、中国において、沿岸東部の富める地域が西部の貧しい地域をそれぞれ割りあってて、援助する政策であった。結果的には、不徹底であった。それでも、地域間格差を顧みる努力は江沢民政権にもあった。また、中国の研究者の中には、北海道を新疆ウイグル自治区のモデルとして捉え、開拓使や屯田兵制度をはじめ、北海道の歴史、制度、産業など多角的に研究している人も存在する。第1次産業や第2次産業で、特に農村部をいかにを豊かにするかに関心があったようだ。もっとも、アイヌ差別や囚人労働、さらには戦時中の強制連行の事実が、等閑にふせられなければいいが、と小生はいささか心配した。実際、そうした研究の中には、遺憾ながら、小生の心配したように、北海道における負の歴史が等閑にふせたれたものも存在した。小生がこうした研究に関し、一瞥したり、伺ったり、教わったりした限りにおいては、概して、現地調査に基づいたり、実証研究が非常に緻密になされた優れた研究が多く存在する。
 結果としては、日本側は日中戦争について謝罪を求める矮小な人物として一面的に江沢民を評価してしまった。だが、謝罪要求のみで、江沢民の評価を下げることは感心しない。ましてや江沢民の執拗に歴史認識について謝罪を要求する姿勢が、後の小泉外交における日中間の冷却を生んだという日本の一部の「有識者」の見解にいったっては、小泉首相自身の問題や「小泉劇場」を支持した日本国民の問題を無視した的外れな主張である。
 一方、江沢民の来日後、朱鎔基は来日した。その際、東京ー京都間という、日本側が外国の要人を案内するお決まりの訪問コースを視察している。また、江沢民が訪日した際、歴史認識の問題で日本側に強く謝罪を要求し、中国側が予想以上の日本側の反発を受けたことから、日中間の歴史認識に関して朱鎔基は繰り返し、強く謝罪を要求しなかった。全体として、当たり障りない、訪日にとどめている。目立つ成果はないが、少なくとも中国側から更なる冷却や緊張関係をもたらさず、無難に日中外交を展開した。つまり、当時、日中関係は小泉外交のような日中間の政治上での空白をもたらすほど、深刻なダメージはなかった。
 2007年には温家宝(1942ー )の訪日があり、2008年には、胡錦濤の訪日も予定されている。歴史認識に関し、日本に謝罪を要求したことのみで、江沢民の評価を低くすべきではない。江沢民・朱鎔基の訪日と胡錦濤・温家宝の訪日と比較検討の上、改めて江沢民の対日外交の意義を検証すべきである。
 朱鎔基と後述する温家宝とを、大まかに比較する。ともに、テクノクラート(技術系官僚)出身であり、数字に強い。そして、日本で言えば、政治家というよりも経済産業省のキャリア官僚の性格が強い。反面、毛沢東やケ小平の頃の側近と比較すると、文官系(日本でいえば、文系)出身者のもつ歴史や倫理といった教養面が、少し不足しているかのように見える。そのため、人間の機微に疎いとさえ、誤解されることすらある。それぞれの経歴から察せられるように、朱鎔基は、製造業やIT産業に強く、温家宝は資源エネルギー系に強い。前者は訪日の際、製造業関連の視察先を多く取り入れた点からも、特徴が現れている。また、日本の新幹線にも関心を持ち、後に上海ー浦東間のリニア建設や沿岸主要都市を結ぶ高速鉄道への建設計画や実施の着想を得た。そして、日本の高速交通網もモデルケースの一つとしてさらに研究、調査を各関係部署に命じた。後者については、次章で検討する。
  朱鎔基は強面の政治を演じた江沢民によく遣えた忠臣であった。豪腕というよりも不器用な対立調整型の宰相であった。江沢民自身が胡耀邦や趙紫陽ほどの独自な政治主張や個性を出さなかった故、朱鎔基が豪腕を振るえた側面もある。そして、次の胡錦濤政権となったのち、あたかも、上海閥と命運を共にするかのごとく、静かに中国政治の表舞台を去った。風見鶏と揶揄(やゆ)されない剛直さは、すがすがしささえ、中国国内外の多くの人々に印象付ける。中国人民からは蛇蝎(だかつ)の如く不人気であった江沢民とは、一線画した要素である。また、次章の温家宝と違った経歴と性格を有する首相である。
 
第3章 庶民派宰相、温家宝
 
 2007年に来日した温家宝首相は、「平民宰相」として知られている。周恩来(1898ー1976)を鑑とした首相像を目指している、とされるからである。本章では、周恩来との比較を交えつつ、温家宝について考察する。現時点で温家宝伝の類の書物はないが、考察を試みる。
 温家宝は1942年、天津市に生まれる。宮崎正弘氏によると、天津人の性格は、「知識足りてつねに楽しく」で、表面的には能力を隠し、慎重に処世する(1)。つまり、上海人に性格が似ている。ちなみに、周恩来は生まれは、江蘇省淮安(原籍は浙江省紹興)だが、天津にある中国屈指の名門校、南開学校を卒業である。
 1989年6月23日、24日に開かれた第十三期中央委第四回全体会議(十三期四中全会)において、新指導部人事が決定された。総書記は、趙紫陽の解任を受け、江沢民上海市党委書記が就任した。政治局常務委員に李鵬や喬石ら、政治局員に万里ら北京閥出の保守系幹部が就任した。その中で、書記局書記候補に温家宝が就任していた(2)。温家宝は元々、趙紫陽に近い人物であったが、これを機に江沢民のあつい信頼を得ることになった。他方、胡錦濤政権は北京閥中心なので、そのころから北京閥の長老たる幹部とのつながりも温家宝は有していた。周恩来も「風見鶏」と評されたことがあるが、温家宝もこの点では、周恩来張りの政治バランスを有してるといえる。
 温家宝は前章でも触れたように地質資源を専門とする官僚出身である。その経歴は次のとおりである。1968年北京地質学院構造地質専業研究生卒業。甘粛省地質局地質力学区域測量隊技術員、同副隊長、同局副局長などを歴任した。ちなみに、この甘粛時代に胡錦濤とも繋がりを有した(3)。その後、1986年党中央弁公庁主任、1988年中央直属機関工作委書記、1992年14期中央政治局候補委員、中央書記処書記、1997年15期中央政治局委員、中央書記処書記、1998年国務院副総理に就任などを経て、胡錦濤政権で首相の地位に登りつめた。前章の朱鎔基や周恩来と単純比較すると、比較的大きな挫折を経ず、温家宝は出世した。次に温家宝と中国の資源外交について考察する。
 中国は日本のようにただ援助金をばら撒く外交でなく、高度な戦略と細かい配慮がある。とりわけ、中東の産油国に対しては、かなり丁重な外交を展開している。例えば、北京五輪ハンドボール・アジア予選再試合をめぐり、国際ハンドボール連盟(IHF)が再試合を決定した際、中国でやり直し大会をIHFが打診したところ、準備の困難から断ったことがあった。日本と韓国VSクウェートをはじめとする中東諸国との間で、ハンドボールの試合の判定をめぐり、いわゆる「中東の笛」という中東勢贔屓の判定があるという、日韓の訴えがIHFで検討され、2008年1月下旬東京開催、男女とも日韓のみの参加となり、いずれも韓国が勝利した。これに対する中東勢の大会ボイコット等の反発はさておいて、クウェートの王族が自国の協会のみならず、アジア・ハンドボール連盟(AHF)を実質支配している事実が存在する。五輪ホスト国の中国としては、たとえクウェートの王族の道楽であれ、ハンドボールに固執する以上、下手に王族の機嫌を損ね、原油獲得に悪影響を及ぼしたくない、と配慮したことは容易に推測できる。今の中国指導部には、日韓の工業技術よりも中東の石油資源が重要である、という端的な例である。
 さらに、岩間剛一著『「ガソリン」の本当の値段』(4)を参考に、以下考察する。中国は経済成長にともない、自国のエネルギー需要は増大している。それは、様々な国際摩擦を引き起こしている。例えば、スーダンでの石油資源をめぐる問題がある。中国は石油確保のためにスーダン政府に多額の援助している。そのスーダン政府の支援を受けた民兵組織がダルフール地域における紛争で数十万もの民間人を含む国民を虐殺している。欧米諸国はスーダン政府支援を続ける中国政府に対し、北京五輪は、ジェノサイド五輪であるので、ボイコットする、といった批判をしている(5)。同様な外交構造は、ミャンマーにおける天然ガス確保、といった悪名高い独裁体制維持に加担している例からも検証できる。極論すれば、毛沢東時代に築いた「第三世界」での繋(つな)がりを悪用した面がある。
 中国の資源外交でアメリカを激怒させた事件がある。2005年6月、中国三大国営石油企業の一つであるCNOOC(中国海洋石油総公司)が、米大手石油資本のユノカルに対し、総額 185億ドル(約2兆2200億円)で買収提案を行った。ユノカルは、2001年の「9・11」事件を受け、アメリカがアフガニスタンに戦火を及ぼした際、カスピ海からの原油を通すパイプラインに絡み暗躍した企業として知られる。この提案に対し、アメリカ議会を中心とした猛反発があり、CNOOC及び中国政府は2005年8月2日、ユノカル買収を断念した(6)。
 アメリカ経済の根幹ともいえる石油産業に中国は踏み込んだことは、率直に言って、外交上ひどい失敗であるといえる。なぜならば、中国脅威論を世界に向け、具現化してしまったからである。日本とて、アメリカの映画産業や不動産を円で散散買いあさったものの、石油会社といったアメリカ経済の根幹まで買い叩かなかった。それを中国がそこまで踏み込んだことは、虎の尾を踏むくらい危険な行為で、アメリカの国民レベルでの憤激を招いた。資源や金のためなら、手段を選ばない中国の実例として、不信と恐怖でみなされるのである。江沢民が訪日で謝罪を執拗に要求したなどというレベルの話ではない。
 現にこれまでに中国に進出した外資系企業のなかには、地元企業が成長し、ライバルになった途端、提携を打ち切られたり、つぶされる事例が少なからずあった。そうした弱肉強食の思想は、中国人においても、アメリカ人に負けず劣らず存在する。それでも、アメリカでは、いざ弱者の立場になっても、キリスト教教会などの慈善団体の援助が、ある程度存在する。しかし、中国では、法輪光の例のみならず、宗教団体の活動は極めて限定的である。また、「怪力乱心を語らず」の合理主義的思想も強い。そもそも中国では、伝統的に慈善事業活動が乏しい。そうした思想上の背景からも激しい競争心を中国人は抱いている。かつて、シュミット元西ドイツ首相は「米国型は弱肉強食の猛獣資本主義」と評したことがあるが、中国の経済もアメリカの様相に近づきつつあることを白日のもとにさらした。行き過ぎた競争原理への傾倒は、人徳の国を標榜する中国の評価を毀損することになる。
 中国の資源外交に関し、おおよそ温家宝が無関係であるとは考えにくい。周恩来のような親しみやすいキャラクターを演じつつ、実務をこなすようなゆとりは温家宝に乏しいという感想を小生は有する。周恩来について、ダライラマ14世は自叙伝の中で次のような興味深い印象を記している。「周恩来は、いつも私に友好的であった。しかし、彼は毛沢東ほど率直で、開放的でないように思えた。彼は極端に丁重で、礼儀正しく、柔和で、完全に、自分を抑制しているように見えた。だから、私は、彼がネパールにおける会議で机をたたいて、どなり散らしたとの話を最近、聞いて、非常に驚いている。最初に彼に会ったとき、私は、彼が非常に才能があり、鋭敏であるという実感を得た。また、私は、彼が何事にせよ、手がける計画は無慈悲、冷酷に推進するだろうという印象を受けた。後日、彼がチベット弾圧政策を承認したと聞いたとき、毛沢東の場合とは違って、私は少しも驚かなかった」(7)。さながら、笑中に刀ありの「冷徹な事務官」といったところである。温家宝は仕事には有能である。そして、周恩来を鑑に庶民派遣宰相を演じる努力をするも、親しみやすいキャラクターと実際担当している職務の内容との乖離が大きい。また、周恩来の二番煎じとして、冷ややかな評価が中国国内外を問わず存在する。
 今日の日中関係から中国を考察する。日中関係は、互いに首脳が訪問しあうなどの努力もあり、小泉外交で冷却した関係を修復しつつある。しかし、日中関係は安泰という楽天的要素はない。日本側の歴史認識の問題のみを見てもいつでも中国との関係を悪化させる不安定要素である。中国をはじめとするアジア諸国との関係を悪化させる日本側の欠陥についての考察は別の機会として、ここでは、中国側の懸念材料について考察する。
 例えば、2007年12月1日に北京で開催された閣僚級の「日中ハイレベル経済対話」初会合で、日中政府が合意した共同文章について、中国側が日本側の了解なしに一部削除して公表していたことが同月十日に判明した。「日本側は人民元の実効為替レートのより速いペースでの増価を許容することに向けた中国の努力を期待する」という人民元切り上げに対する日本側の要望が盛り込まれた箇所である。日本側は訂正要求を出した(8)。中国側は事務上の手落ちとして訂正したものの、疑念が残る。
 また、2007年12月末の日中首脳会談での共同記者会見の際、台湾の住民投票についての福田首相のコメントが中国側が誤訳していた場面を小生は、テレビ中継を通じ、耳にした。住民投票を不支持とのみ、中国語に翻訳し、「対立を深め、現状変更を望まない」と表明した部分をかなり削っていた。その件も日本側の抗議で訂正された。日中関係は蜜月と言える楽天的状況ではない。例えば、「東シナ海のガス田開発」をめぐる問題の解決を目指すと宣言するのはよい。だが、いざと言うとき、細部で虚偽があっては大問題となる。日中関係は基本的には、大きな外交問題まで双方で発展させない努力を継続するであろう。ただ、中国が強引な資源外交をすれば、東シナ海のみならず、原油獲得をめぐり、対立する危険性はある。
 温家宝が周恩来を鑑とした首相を目指すこと自体、悪いことではない。また、温家宝はご夫人をファーストレディの如くあまり目立つようにしていないことは賢明である。なぜなら、政権内部の亀裂に発展する人間関係のトラブルを回避できるからである。例えば、4章でふれる江青のように、毛沢東夫人としての面子に係わるとばかりに、劉少奇国家主席夫人の王光美に対する異常な嫉妬から虐待にまで発展することなく、安定した集団合議の政権運営を可能とするからである。周恩来の長所を倣い、独自色を出し、中国国内外の人民のためにご活躍されることを希望する。
 
第4章 毛沢東に踊らされた忠臣達ー林彪と四人組
 
 中華人民共和国史において、奸臣としてみなされるのが、林彪と江青を首班とする四人組である。史実そのものを否定する意図を小生は有しない。しかし、額面どおり無批判に受け入れることには聊(いささ)か疑問がある。そうした視点から、ささやかな考察を試みる。この章では、オランダ人中国研究者のヒネケン著『中国の左翼』(1)を種本に考察していく。林彪と四人組との関連を紹介しており、本章を構成する上で、柱となる好著であるからである。
 林彪(1906/1907ー1971)は湖北省黄岡出身で、本名は林育容である。1925年、中国共産党に入党。1926年黄埔(こうほ)軍官学校に入学、国民革命軍の葉挺独立団(連隊)の小隊長として北伐に加わった。1928年井岡山(せいこうざん)根拠地の毛沢東部隊と合流。1932年、紅1軍団長となり、長征では毛沢東の第1方面軍の先鋒を務め、活路を開いた。1936年、抗日紅軍大学(1937年抗日軍政大学に改称)校長。1937年9月、山西省平型関で八路軍 115師を率いて板垣(征四郎)師団21旅団を撃破した。1938年3月、戦線を視察中に脊髄を損傷、同年末からソ連で治療を受けた。1942年に、延安に戻り、1945年6月には、7期党中央委員となった。国共内戦期には、東北部から広東広西まで多くの軍功を重ね、建国後も出世していった。
 1959年には、彭徳懐国防部長解任後の後任となった。このころから林彪の人生における絶頂期となるとともに、毛沢東への「胡麻擂り(ごますり)」と揶揄(やゆ)されるような忠誠的行為が顕在化する。もっとも、すでに1929年6月の紅4軍第7回代表大会で党の絶対的指導を主張する毛沢東を支持して、朱徳(1886ー1976)派と対立したことがあった。1962年1月、毛沢東が大躍進の責任について自己批判した七千人大会で林彪は「この数年の誤りと困難は毛主席の指示どおりに行わなかったことが原因だ」と毛沢東を擁護した。1964年5月、「毛沢東語録」を出版して、軍内で毛沢東思想学習運動を徹底した。1965年11月、「政治突出五原則」を提唱し、政治突出や毛沢東思想最高峰論に反対した羅瑞卿(ら ずいけい)(1906ー1978)総参謀長を失脚に追い込んだ。1966年2月、江青に「部隊文芸工作座談会」を主宰させ、文革の準備に協力した。同年5月の政治局拡大会議では毛沢東をレーニンと並ぶ20世紀の天才とする「天才論」を強調。同年8月の8期第11中全会(中国共産党全国代表大会)で、党第1副主席に就任した。1968年3月には、楊成武総参謀代理、余立金空軍政治委員、傅崇碧(ふ すうへき)北京衛戍(えいじゅ)区司令員が「空軍の大権簒(さん)奪(だつ)を企(たくら)んだ」として、彼らを失脚させ、後任を黄永勝利ら第4野戦軍系、つまり自らの腹心で固めた。
 この時期の林彪を総括した次のような指摘がある。「この時点での林彪の地位・声威(勢威では?)というものは、まさしく毛沢東への忠誠・献身および協力関係の所産であって、毛沢東の信頼がある限り、その地位はゆるぎないものであった。だが、まさにそのゆるぎないゆえこそ、毛沢東の不信と疑惑は胚胎した。林彪にとって不幸なことに、毛沢東というこの孤高を保つ老人が信頼した一人の人間、江青を、林彪は毛沢東のいっそうの信頼をかちとるために、政治と歴史の舞台にひきあげてしまった。林彪がどれほど毛沢東に忠誠を誓おうと、また二十年以上も毛沢東の個人秘書として働いてきた陳伯達(1904ー1989)がどれほど忠勤をはげもうと、たった一人の女性への信頼ほどの信頼感を毛沢東がもてなかったということは、その後の事態の推移が示している。毛沢東の心中に生じた不信と疑惑が、林彪以外の軍人たちや周恩来ら実務官僚たちの反林彪感と結合した時、林彪の地位と勢威は、もろくもゆるぎはじめるのである(2)」。江青については過大評価であるが、林彪と毛沢東との関係を具体的に表している。
 林彪の人生の転落は現状知られている情報から述べると、以下の経緯をたどる。1970年3月、毛沢東が主張した国家主席廃止論に林彪が、同意しなかったことに始まる。毛沢東から国家主席の地位をねらう野心があるとして、疑われたためである。同年8月の9期2中全会では、林彪系軍人が国家主席存続を主張し、林彪自身も毛沢東への天才論を唱えていたことから批判された。このとき、林彪を利用して国家主席維持を画策していた黒幕的人物は当時ナンバー4の地位にいた陳伯達であった。林彪が中国を統治できる器でないことを承知の上で、「陳伯達は強硬論者の林彪の手に権力を握らせ、それによって彼の過激派の地位を強化し、周恩来ら穏健派の地位を弱めようとはかったのだろうか。」と、ヒネケンは推測している(3)。しかし、陳伯達は先に重要ポストから解任され、逆に陳伯達解任に最後まで林彪が抵抗したことから余計に毛沢東から野心を疑われた。つまり、陳伯達は林彪に国家主席を狙う野心があるか否かのリトマス試験紙にされたのであった。ちなみに陳伯達は優れた教養人(中国で言うところの読書人)であった。『毛沢東選集』の編集に携わったのみではない。『中国四大家族』という蒋介石の国民政府内部を深く論述した著者でもある。この本は今日、中華民国史を研究する上でも重要な資料である。その後、以下に述べるように、謎の死へと向かっていった。
 林彪の毛沢東暗殺という陰謀は、彼の人生の中で最も謎が今日まで残っている。欧米人の中には、「ナンバー2であった林彪はなぜ、毛沢東暗殺を企てたのか理解できない。毛沢東の死後、ナンバー1として権力を継承できたものを」という疑問の声がある。しかし、中国では、ナンバー2は安泰でない。下からの追い上げにより林彪自身が政権での地位を脅かされることへの警戒心もある。それ以上に、毛沢東が心変わりして、いつ、林彪自身が追放なりの迫害を受けるとも分らない恐怖があった。林彪は野心家ではあったが、毛沢東の動向の変化に鈍感であるほど愚かではなかった。それでも、毛沢東暗殺の陰謀を一瞥するかぎり、杜撰だったという感想を小生は有する。
 第一、林彪のクーデター陰謀計画とされる「五七一工作計画」(中京中央第四号文献)(4)の存在そのものである。内容は「軍事的に先手をとる」とはあるが、毛沢東を「手中に入れ」、敵の主力を「上層部の集会等の場合、一網打尽にする」としながら、「実施段階」のところでは、上海と張春橋が主要なねらいなど、計画自体のねらいや脈絡に疑問符がある(5)。そもそも、計画書を作成してもしも、部外者に発見され、毛沢東に伝えられたものなら、即死刑にされたであろう。また、計画書の名前からして疑わしい。「五七一(ウーチーイー)」は武装蜂起を意味する「武起義(ウーチーイー)」と同音の暗号という(6)が、そのようなばれやすい暗号名を使用する自体、不可思議である。赤穂浪士が「討ち入り」をわざわざ、吉良上野介の面前で、予告して実行しようとするくらい考えにくい事象である。
 第二に、いざクーデター実行という時の統制のなさである。「五七一」計画を本気で実現を考えたのは、林彪の妻葉群ぐらいとされる。林彪自身もクーデターが「五七一」の形で実現できるとは、信じていなかった。林彪の側近の黄永勝にいたっては、「五七一」の発動を主張した葉群をしかりつけている(7)。その挙句、林彪が飛行機でソ連への逃亡をはかりモンゴル領内で「事故死」することになるが、その際のクーデターで不参加者が続出した。国防部長まで登り詰めた軍人にしてはあまりにもお粗末な作戦であり、本当に林彪が係わった陰謀だったとは考えにくい。
「五七一」の計画書は林彪の息子林立果ら数人の青年将校の作成であるとされている。そして、その計画書を諜報活動で毛沢東に知らせ、林彪打倒に利用された、とされてきた。林彪や林立果は毛沢東を本気で暗殺しようとしたのではなかった。毛沢東を手中に収め、権力の座に安泰でありたかったのではなったか、と小生は推論する。そして、毛沢東の方が、ナンバー2としての林彪の存在が疎ましくなり、「五七一」を捏造し、無実の罪に陥れたしたのではないかと疑いたくなる。
 つまり、林彪は国家主席の地位を毛沢東から禅譲して欲しかっただけであった。それに対し、諜報機関の方で、「五七一」を針小棒大にして毛沢東暗殺の陰謀として、喧伝(けんでん)乃至は捏造した可能性を疑うのである。一般に歴史上、政治家は軍人の後手を取りがちで、クーデターで打倒されるケースが多く見られる。しかし、毛沢東は革命家であり、軍人の機動性をも上回った。その点から見れば、毛沢東が天才であるという林彪の評価は、間違いでなかった。はっきりいって敵対するには、相手が悪すぎた。
 それにしても林彪の生涯を見ると、自業自得というよりも因果応報といいたくなる。林彪の生涯における思想や行動は場当たり的で一貫性に欠ける。そして、自らの過ぎた野心のために人を迫害した挙句が、自らの野心で自身を滅ぼしたようなものだからである。同様なことは、後述する四人組についてもいえる。身の程をわきまえず、場当たり的に欲望のままに行動することの末路は悲惨である。
 歴史に「たられば」は禁句であるが、仮に軍人出身の林彪が政権を獲得できたとして、中国人民が支持するか否かを考察する。結論から言えば、「良い鉄は釘にはならない」という言葉があるように、軍人による政権は中国人民から支持されないであろう。中国史を見ても、軍人出身者の政権はあまり支持されない。なぜならば、中国では、伝統的に軍人に対する懐疑心が強く、文人による国家統制を志向する伝統が強いからである。例えば、唐王朝滅亡後の五代十国をみても、武人系の節度使の北部の短命王朝が存在した。とりわけ、後晋を建国した石敬?(在位936ー942)の評判は悪い。なぜならば、建国のために契丹の援助を得るために、臣下の礼をとった上、鉄鉱石や石炭などの鉱物を多く産出する燕雲十六州を割譲したからである。強力な兵器を大量に製造できることになり、契丹の国である遼は強大になった。たった6年皇帝になるための報酬が法外であり、漢民族の統一王朝の明にいたるまで完全回復に時間を要したほど、深刻な領土問題となったからである。ちなみに中国では政府レベルを中心に、台湾独立を容認する意見の持ち主は、石敬?のような漢奸(漢民族の裏切り者)とされるほど、先見の明のない愚物と評されるほどである。
 また、中国における政治家の条件として次のような考えがある。「中国には、古くから、馬上で天下をとることはできても、馬上で天下を治めることはできない、という思想がある。武力で政権をとったとしても、その武力を誇示するだけでは天下を治めることはできない、戦争上手な大将でも、すぐれた政治的感覚をもたなければ天下の支配者とはなれないというわけである。自らすぐれた政治家であるばかりでなく、側近に有能な人材をあつめ、政権の組織をかため、イデオロギー的立場を鮮明にすることも、当然、必要であった(8)」。現代中国史における蒋介石と毛沢東との差異の一つといえる。毛沢東は読書人の側面もアピールするのに成功した分、問題はあっても、中国人民の支持を得ることができた。
 ついでながら、中華民国について考察すれば、袁世凱といい、蒋介石といい、指導者が軍人だったこともあり、今日の中国でも低い評価がなされることがある。中華民国には確かに四大家族に象徴される汚職をはじめ様々な問題があったとはいえ、あまりに一面的な評価である。なぜならば、中華民国は、清という封建制度の王朝を革命で打倒したあと、半植民地として結ばされた不平等条約を解消し、近代国家を一から形成せねばならない状況であった。加えて、中国国内を統一するための軍閥との抗争や日本との戦争が続いた。そのため、戦争に忙殺され、安定した国家を形成できなかった。中華民国と中華人民共和国との関係は秦と漢、隋と唐との関係を彷彿する。つまり、短命だった王朝が改革を断行し残した制度なり社会基盤などを引き継ぎ、長期政権を築いた事である。歴史は一面的に評価してはならない、という教訓である。
 最近、林彪について抗日戦争や国共内戦で貢献したとして、一部で再評価する動きもある(9)。しかし、胡錦濤政権指導部は林彪再評価を抑制するため、林彪の生誕 100年行事を不許可にした(10)。ケ小平が後継者たる指導部を選抜した際、政治上、保守的性格を有する人物を選択したのだから当然の結果である。急激な歴史評価の見直しによる世論の動揺を望まず、中国経済の安定成長を志向するからである。林彪について新事実発見などは、当面望めないであろう。次に江青ら四人組について考察する。
 江青(1915ー1991)は、周知のように、毛沢東の4番目の妻で文革を推進した四人組の一人である。山東省諸城出身。本名は李進、字は雲鶴。父親は大工であったが、幼少期に母親とともに家を出て、ある地主のもとで住み込み女中として働く。ちなみに、この地主の息子が康生(1898ー1975)というスパイ出身であり、文革期に江青らと共に情報・宣伝機関を掌握した人物とその頃から知り合いであった。江青は生涯危害を及ぼすことがなかったのは毛沢東と康生だが、後者の場合、江青の弱点を握りつつ、利用した側面がある。それだけ、康生は機を捉えるのに敏であり、奸智にとんだ人物だったといえる。
 1933年に中国共産党に入党し、上海で演劇活動を始めた。藍蘋(ランピン)の芸名で映画に出演したり、芝居「ノラ」に主演し、一躍名を馳せた。映画監督の唐納と結婚(1937年離婚)していた。康生の紹介で1937年延安入りし、翌年、毛沢東と結婚した。その際、中国共産党は、国民党統治下にあった上海で演劇活動をしていた経歴を問題視し、江青に対し、政治活動参加を禁じた。だが、後に林彪が毛沢東に取り入るために、江青を担ぎ出してしまった。これは中華人民共和国史における大きな災いであった。
 上海時代の江青は彼女の生涯において謎の多い時期であった。江青自身、生涯で最も忌まわしく、消去したい時期であった。文革期には、紅衛兵をけしかけ、演劇関係者をはじめとする自身の過去を知る人々を血眼になって探し出し、虐待を加えた。そうした異常なまでの執着から、国民党と共産党との二重スパイであったという疑惑まで、江青は生前からもたれた。江青没後もそうした線を疑う人もいる。小生の意見は、そこまで大胆で緻密な行動を江青がとれるほど高い能力があったとは考えない。なぜなら、江青の行動は場当たり的で一貫性があるとは考えられないからである。他方、小生は、文革期に階級闘争を叫ぶ以上、邪魔な過去なので、上海時代の江青を知る方々の口封じをしたかった程度だったのではなかったか、と推察する。要するに江青にとり、恥ずべき失敗やスキャンダラスな過去の表出を恐れたからである、と推察する。それは江青の性格から以下のように考えるからである。
 江青の性格を考察すると、人一倍自己顕示欲や虚栄心が強かった。それは幼少期に父親と生き別れ、苦労を重ねた点に由来する、と推察する。映画監督の唐納や毛沢東に象徴されるように自身を受容し、自身を見守る年上の男性に惹かれていった人生であった。つまり、父性に飢えていた。文革期で毛沢東に忠実であったのは、根本的には、権力者に見限られ命を失う恐怖のみならず、夫というよりも父親たる存在に見捨てられる恐怖が周囲の関係者が想像する以上に強かった、と愚考する。ちなみに、江青の演技力については今日でも「中国史上最低最悪の女優」として酷評される。文革時における金切り声のこともあり、非常に評判が悪い。また、結婚してまで映画監督の唐納に取り入ったので主演女優になれたと今でもみなされている。
 周知のとおり、江青は張春橋(1917ー2005)、姚文元(1932ー)、王洪文(1934/35ー1992)らと、中央政治局内で四人組を結成し、文革を推進した。張と姚は率直に言えば、三流のゴロツキ文筆家であり、王は朝鮮戦争から復員後、上海国綿17廠労働者だった。いずれにせよ、四人組の面々は本来なら、政界入りするしては、政治経済をはじめとする特別な識見はなく、政治家としての資質を欠く、全くの素人であり、ごく普通の一般人であった。
 文革の幕開けを告げる事件として、「海瑞(かいずい)免官」という劇をめぐる思想弾圧があった。事件のあらましは次のとおりである;1959年9月、中国共産党員の歴史学者で北京市の副市長でもあった呉ヨ(ごがん)(1909ー1969)は、明代に実在した海瑞(1514ー1587)を題材にして『海瑞論』を発表し、さらに1961年1月には、歴史劇『海瑞免官』を書いて、海瑞が清廉な官僚であり、肯定されるべき歴史人物であることを強調した。その説くところは、のちに「清官論」とよばれるが、要するに、封建時代にも農民の味方をした官僚のあることを主張するものであった。しかし、呉ヨは、やがて革命派から激しい批判をうけることになった。すなわち、呉ヨの主張するところは、農村における階級闘争から人々の目をそらせる意味をもつものとして、また、免官された海瑞をことさらに称揚することによって、1959年9月、毛沢東主席の路線に反対したとして罷免された国防部長の彭徳懐を弁護するねらいをもつものとして姚文元(よう ぶんげん)が批判した(11)。そして、張春橋らが協力して更なるバッシングを広げていった。呉ヨは迫害を受け、失意のうちに逝去した。
 この出来事は、とりたてて問題のない作品を曲解し、政治や思想弾圧へと扇動した卑劣な行為である。しかし、文革後も、こうした類の思想弾圧は中国に存在する。代表的例は
『河殤(かしょう)』(12)という1986年に放送された連続テレビ番組関係者への弾圧である。タイトルは、中華文明の象徴である黄河への「挽歌」を意味する。内容は、中華文明の衰退を訴え、黄河や万里の長城が象徴する閉鎖性を打ち破り、対外開放による再建を呼びかけている。人気のあった番組であった。しかし、中華文明を否定的に扱う「歴史虚無主義」、「西洋崇拝」として保守系政治家の反発を招いた。自分達に対する政治批判として捉えたからである。1989年天安門事件に際してシナリオ編集者の蘇暁康らに逮捕状が出るなど弾圧が加えられた。蘇は米国に亡命し、同じくシナリオ編集者だった王魯湘は執筆活動を制限された。そのたの関係者も亡命したり、一定の処分を受けた。
 北京五輪の近づく今日においてでさえ無関係な話題ではない。思想弾圧に関する人権弾圧の情報が漏れ聞こえるからである。中国は経済上は日本の高度成長とバブル経済を同時進行させるほどの勢いがあるが、政治上は人権問題を中心に見ると、日本の明治政府と昭和の軍国主義時代の思想弾圧を彷彿させる。
 四人組の横暴及び四人組裁判についての詳細は省く。江青と張春橋に死刑判決(のち無期懲役に減刑)など厳しい判決であった。しかし、毛沢東の責任と切り離したこの「林彪・四人組裁判」をみると、先の東京裁判を連想させられる。つまり、毛沢東といい、天皇といい、国家元首にあたる人物の責任を問わない裁判だった。それは遅かれ早かれ歴史上禍根になる。そして、江青は自殺したが、毛沢東に裏切られたことへの悲嘆なのか、当時の中国政府への抗議の意味なのか、今日では知る術はない。だが、江青の死を通して、毛沢東時代なり、天皇制といった歴史を考えることは重大な課題であると愚考する。
 林彪と江青ら四人組は、中華人民共和国史上、悪役として記録されてきた。チャン・ユンの『マオ』の評価では、毛沢東は、生涯を通じ、人格異常の悪逆非道の皇帝である。しかし、毛沢東は問題はあったが、建国の英雄として、歴史上評価されている。問題の多かった晩節において、毛沢東は、中国人民に今も敬愛される劉少奇(1898ー1944)や彭徳懐(1898ー1974)を迫害し、大躍進政策や文革といった災厄を人民にもたらした権力者という評判でのみで、生涯を閉じたのではなかった。林彪は、毛沢東を暗殺しようとした逆臣であった。ケ小平が天安門事件について、一身に責任があるのに対し、文革は責任者たる毛沢東と実行犯としての四人組と役割分担がなされた。つまり、毛沢東は死後の評判を考え、「死屍に鞭打たれない」ように、こうした人々を悪役として演じさせたのであった、という印象を有する。林彪や四人組は自らの欲望を毛沢東に利用され、道化人形のごとき役割を演じた。それ以上に、恐ろしいのはそうした股肱ともいえる忠臣を弄び、中国人民を巻き込む災厄を招いた毛沢東の力量である。功罪を論じる前にスケールの大きい人物であった。
 それにしても、林彪事件にいたる一連の過程といい、江青の自殺の原因といい、まだまだ、疑問な点が多く存在する。「蓋棺事定(がいかん じてい)」という四字熟語があるが、容易に今まで考察してきた方々の評価を定められない。時代の変化とともに新事実の発見の可能性がある。決して、軽々に語りつくされたとして、人物評価を定めることはできない。まず、政治介入がなく、自由に学問研究できる環境が今の中国において重要である。
 
おわりに
 
 以上、歴代国家主席の股肱ともいえる側近について考察した。英雄について考える時、福沢諭吉の次の指摘が思い浮かぶ。「英雄豪傑の時に遭(あ)わずというは、ただその時代に行わるる一般の気風に遭わずして心事の齟齬(そご)したることをいうなり。故にその千載一遇の時を得て事を成したりというものも、またただ時勢に適して人民の気力を逞(たくまし)うせしめたることをいうのみ」(1)。中華人民共和国史を俯瞰(ふかん)した時、英雄になりうるほど能力の高い方々が多い。されど、英雄になりえたのは毛沢東のみであった。その時代に生きる人民の要望に応じれた上で、あらゆるライバルとの競争に勝利し、自己の権力基盤を保持できたからである。ケ小平はカリスマ性の部分を毛沢東の権威を利用したことで、「毛沢東は本物の天子だった。だが天安門に立つケ小平は最後の皇帝に見えた(2)。」という感想のように小皇帝(一人っ子問題における小皇帝を意味しない)レベルにとどまった。権力よりも実利優先の現実主義者だった。つまり、天安門事件に象徴されるように官僚のブローカー行為に対する民衆の批判を恐れたのだ。その悪弊ともいえる流れは今日の中国にも続いている。
 今日の中国における格差問題一つ見ても、いずれにせよ1989年の天安門事件の再検討が不可避となるであろう。なぜならば、当時の学生をはじめとする人民が批判していた官倒(官僚ブローカー)による蓄財が顕在化する一方、貧困層に落とされる人民もまた増加しているからである。しかし、現状では、中国は取り組まなければならない諸課題が山積している。例えば、現政権の実施しているような独禁法といった法令の整備なり、法令遵守の徹底が必要である。また、公害問題をはじめとする環境問題の改善も急務である。さらに、福祉政策、年金問題、労働問題など、枚挙の遑(いとま)がないほどである。日本の明治政府がかつて『職工事情』をあらわしたように、事実を歪曲せず、調査した上で諸課題に取り組む必要がある。言論や思想弾圧によって亡国の憂き目をみた教訓は中国史にも多くある。例えば、西周の幽王が絶世の美女褒?(ほうじ)の色香に惑わされ、政(まつりごと)をないがしろにしたことに対し諫める意見が存在した。それに対し、幽王は言論を封じたところ、反乱がおこり、それまで抑えられていた言論も堰を切った如く氾濫し、国が亡びた。中国分裂論や解体論をいうつもりはないが、真実に目を閉じ、真の訴えに耳を覆うことを継続すれば、遅かれ早かれ中国にとり、回復困難な害悪となる虞(おそれ)がある。
 日中関係の未来志向を考えるならば、日本は中国に対し、ODAは「卒業させた」ものの、協力すべきことは多くある。例えば、環境問題一つとっても中国に協力できることがある。大気汚染や日本海沿岸に漂着するゴミについてクレームをつけるのみではない。日本の公害の歴史を伝えるなり、先進的な環境対策の技術を伝えることができる。なによりも、日中両国民がお互いを知ることが重要である。無論、お互いの歴史、文化、伝統など多岐に及ぶ。しかし、極端に難しいものではなく、相手に関心を持ち、尊重しあうことが一番大切である。政財官の公的交流にとどまらず、観光なり、留学なり、幅広い民間交流の促進が重要である。さもなければ、狭隘なナショナリズムの跋扈により、疎遠になりかねない。
 
 
第1章
 
(1)ハリソン・E・ソールズベリー著、天児慧監訳『ニュー・エンペラー 毛沢東とケ   小平の中国』ベネッセコーポレーション、1995年、下巻、 194頁。
(2)阮明著、鈴木博訳『中国的転変ー胡耀邦とケ小平ー』社会思想社、1993年、 147   頁。
(3)楊中美著、児野道子訳『胡耀邦ーある中国指導者の生と死』蒼蒼社、1989年、245   ー246頁。
(4)同上書、255頁。
(5)同上書、251ー252頁。
(6)阮明、前掲書、51頁。
(7)家近亮子・松田康博・段瑞聡編著『岐路に立つ日中関係ー過去との対話・未来への   模索ー』晃洋書房、2007年、72頁。
(8)ソールズベリー、前掲書、下巻、 401頁。
(9)阮明、前掲書、 119頁。
(10)汪暉(ワン フイ)著、村田雄二郎・砂山幸雄・小野寺史郎訳『思想空間としての現代中国』岩   波書店、2006年、 103頁。
 
第2章
 
(1)朱建栄『朱鎔基の中国改革』PHP研究所、1998年。
(2)同上書、80頁。
(3)同上書、80頁。
(4)同上書、 108頁。
(5)『北海道新聞』2008年2月6日付け朝刊。
(6)『朝日新聞』2007年12月20日付け朝刊、6面。
 
第3章
 
(1)宮崎正弘『出身地でわかる中国人』PHP研究所、2006年、46頁。
(2)程翔(チョン シアン)著、辻田堅次郎訳『天安門事件とケ小平』花伝社、1990年、96ー97頁。
(3)許介鱗・村田忠禧(ただよし)編著『中国治国論 蒋介石から胡錦濤まで』勉誠出版、2004年、    183頁。
(4)岩間剛一著『「ガソリン」の本当の値段ー石油高騰から始まる”食の危機”』株式   会社アスキー、2007年。
(5)同上書、70ー71頁。
(6)同上書、72ー73頁。
(7)ダライ・ラマ著、木村肥佐生訳『チベットわが祖国ーダライ・ラマ自叙伝ー』中央   公論社、1989年、168頁。
(8)『北海道新聞』2007年12月10日付け夕刊。
 
第4章
 
(1)ヤープ・フォン・ヒネケン著、戸張東夫・山田侑平訳『中国の左翼ー林彪と江青の   栄光と没落ー』日中出版、1978年。
(2)武内香里・森沢幸(本名 姫田光義)著『中国の政治と林彪事件』日中出版、1976   年10月31日第3刷(1975年2月5日第1刷)、139ー140頁。
(3)ヒネケン、前掲書、210ー211頁。
(4)武内・森沢、前掲書、 199頁及び 240頁参照。
(5)武内・森沢、前掲書、45ー46頁。
(6)ヒネケン、前掲書、 263頁。
(7)武内・森沢、前掲書、47ー48頁。
(8)寺田隆信著『永楽帝』中央公論社、1997年、24頁。
(9)『北海道新聞』2007年9月26日付け朝刊。
(10)『北海道新聞』2007年12月6日付け朝刊。
(11)愛宕松男・寺田隆信著『モンゴルと大明帝国』講談社、1998年、384ー385頁。
(12)蘇暁康(スー シャオカン)・王魯湘(ワン ルーシャン)編、辻康吾・橋本南都子訳『河殤(かしょう)ー中華文明の悲壮な衰退と困   難な再建ー』弘文堂、1991年 初版第4刷(1989年 初版第1刷)
 
おわりに
 
(1)福沢諭吉著、松沢弘陽校注『文明論之概略』岩波書店、2005年第16刷(1995年第   1刷)、95ー96頁。
(2)ソールズベリー、前掲書、下巻、 385頁。
 
参考文献
 
 天児慧・石原享一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎編『岩波現代中国事典』岩  波書店、1999年。
 莫邦富著『変貌する中国を読み解く新語事典』草思社、1996年
 21世紀中国総研編『中国情報源[2006ー2007年版]』蒼蒼社、2006年