文章読本

          誰でも普通の文を明解に書く方法

倉田 稔

小樽社会史国際研究所 2020年

序文

  本書は、普通の文章の論である。これ1冊で、すぐ文章がうまくなってもらうためのものである。「普通の」というのは、学校のレポート、業務の報告、論文などの、文章である。だから本書は、小説や随筆、その他、美文を書くためのものではない。

 「すぐ文章がうまくなる」ために、本書では「まとめ」を置いてある。

  ここで論じている方法は、井上ひさしの1つの議論を基にしている。彼は文章を、表現文(芸術文)と伝達文(実用文)とに区分している。しかし実際は両者の文は、共通しているところがずいぶん多い。ただし、私は議論としては分けてみたのである。

  この本の狙いは、その後者、つまり伝達文=説明文=実用文をどう上手に書くかにある。だから、普通の文章を書く人、学生、生徒、翻訳家の皆さんのために、役立つであろう。

  実用文=説明文を書こうとする人は、概して小説家の文章は参考にしないほうがよい。また説明文は、詩、短歌、俳句と違う。ある意味では、伝達文を書くことは簡単である。

  本書で論じているように、普通の日本語の文章を、社会全体として、学校で、教えていない。そこに大問題がある。

  ここではまた、論文の書き方ではなく、文章の書き方の論である。論文の書き方と文章の書き方は、違うものである。

  これは、中学生から大学生まで、またはサラリーマンや、実際に働く人々に読んで戴きたいものである。また小学生から大学生までを教えている人々には、これによって考えて戴きたいものである。

  本書は、初版、第2版は同じで、第3版では「翻訳の技法」を取り去った。今回、いわゆる第4版で、3つの節、12と13を取り去った。

目次

序文

はじめに

 1、名文           2、口語、文語

 3、実用文と芸術文      4、明解

  5、なぜ短い文が良いか   6、単語の選択

 7、視覚・聴覚           8、主語

 9、文章の見直し     10、主観

11、文章の終り      12、オノマトペ

13、文体            14、意見と事実

15、読点(テン)     16、修飾語

17、接続語        18、助詞・接続詞の「が」

19、文章の書き方。一般的 20、論理、論理的。

21、精神論        22、パラグラフ     

23、その他の諸問題    24、全体の書き方

25、日本語作文教育    

結語

「まとめ」ーーーすぐ文章がうまくなる方法

付録 学術論文

   あとがき

      資料

     参考文献

はじめに

  井上ひさし氏(以下、敬称を略する)には、『自家製 文章読本』という素晴らしい作品がある。この「自家製」という標題が、実は意味深いのであり、その言葉を使った理由が我々に大切なことを教えてくれる。

 井上は、言語の目的は何かと問い、「伝達と表現である。」と答える。

 「伝達とは、算数の問題文や商業文や記事文などのように、お互いの共通の常識に働きかけながら送信と受信を完成させることである」。そして、伝達を旨とする文章を書く場合は、すでに出来上がっている手本を十分に摂取した方がいい。その文章の形式を学べば、誰にでも伝達は可能である。伝達用の文章修業のために、文章入門書が数多く用意されている、と言う。

 「しかし言語を表現のために用いるとなると、これは未来永劫むずかしい。共通の常識によりかかっていては表現の質が粗悪になる。逆に、共通の常識を軽くみると一人よがりの送信に終始して、ほとんど読み手に受信してもらえないという悲喜劇も起り得る。」

  ここで井上の言う表現のための言語とは、小説などの言語と解すべきである。

  「表現のための文章修業は、個人個人が自分の趣味にしたがって、自力で積み重ねてゆくほかはない。つまり画一的な読本があるはずはないのである。」

  だから、後者の文章については、「各自、自分用の文章読本を編まれるのがよろしい」(1)。こうして井上は、「自家製」本を書いたわけである。

  井上はここで、表現のための文章の画一的な読本はないと、小気味よく否定した。これは、重大な指摘であるし、正しい。本論では、数多く用意されている本に、屋上屋を重ねて書くのだが、もちろん伝達のための文章を対象とする。つまり社会・人文科学的な文章、普通の文章である。

  さて、文章読本が、谷崎潤一郎、菊池寛(2)、川端康成(3)、伊藤整(4)、三島由起夫(5)、中村真一郎(6)、丸谷才一(7)、里見・(8)ら、によって書かれている。いずれも小説家である。しかし今述べたように、小説の文体は、論文などの普通の文章とは違い、ここでの参考にはならない。だから、必要な限りで利用するだけである。概して、小説を書く方法を教えようという文章読本は、本書の立場からすると、役に立たない部分が多い。

  文章上達の方法は、誰でも言うように、「古来の名文と云われるものを、出来るだけ多く、そうして繰り返し読むことです。」(谷崎)「文章上達の秘訣は・・・・名文を読むことだ・・。作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと」、それに尽きる(丸谷)、とされる。これらも正しい指摘ではある。しかし本書では、普通の文章を問題とすし、ここだけで上達を狙わねばならないので、それは言わないで、先を急ごう。

  (1) 新潮文庫 2589ページ

  (2) モダン日本社 昭和12

  (3) 川端康成の『新文章読本』新潮文庫 は、ビュフォンの「文は人なり」と同じ種類の主張であり、かつ文学を念頭においている。だからここではあまり紹介しない。里見・の書も、文は人間を作ることとともにあると言っているので、大切な議論だが、あまり紹介しない。

  (4) 編著 河出新書 昭和29

  (5) 中公文庫

 (6) 新潮文庫

  (7) 丸谷『文章読本』中公文庫              

  (8) 里見・『文章の話』岩波文庫

1、名文

 日本の有名な文章論は、谷崎潤一郎の『文章読本』(昭和9年)である(9)。ここで彼は、名文とは美文ではないと、教えている。これは正しい。少なくても我々の立場からは正しい。

 木下は言う。「文章のうまさ・美しさは、余り重要なものではない。」(10)ここで、「うまさ」という語は、誤解されるかもしれない。ある意味で、「うまさ」は必要だからである。少しは気にとめるべき簡単な原則がいくつかあるからである。それらは本書の「まとめ」で、列挙しておく。日本の社会科学でも、美文・名文はある。高橋誠一郎の書物は美文であり、大塚久雄の本は名文である。

  また興味深いのであるが、詩を上手に書ける人が、普通の文章や論文を上手に書けるとはかぎらない。不思議なことだが、実際そうである。表現の文章の技術を磨いている人が、普通の伝達文の技術を磨いていないということは、常に起きている。

 (9) ここでは、『谷崎潤一郎全集』第21巻(中央公論 1958年)から引用する。しかし引用の際、現代漢字・かなに直す。潤一郎はこの本を、「通俗を旨として書いた。」しかし、文章の名人が書いた物であるから、並の学問的文章論より優れている指摘が大変多い。ここでは彼のポジティヴな議論だけを引き抜く。その上これは、主に、小説などの文章の読本である。

 (10) 木下『理科系の作文技術』中央公論 

2、口語、文語

  谷崎は書く。「・・既に文字で書かれる以上は、口で話されるものとは自然違って」くる(11)。これも正しい。また、文章がうまく書けないと言う人に向かって、「では、喋るようにして書けばよい」と教える人がいる。これも一般的には間違いである。口語と文語(もちろん現代語)、会話と書き言葉とは違うものである。ただし、後述するが−−−注(12)を見よ−−−、ある一面では、限定をつければ、間違いではないのであるが。

  例えば、私の例で恐縮だが、ある委員会で発言をテープに取られた。それをまず再現するとしよう:

 「さて、今日申し上げたい一つ目は、歩道の問題なんです。これは生活している人々にとっては重要な問題でありまして、全般に歩道が少ないという声が多いわけです。他の国を持ち出す必要はありませんけれども、ヨーロッパのほうでは歩道のない道路は道路とはみなさないというような常識を持っています。日本は世界第二位の豊かな国になったと言われておりますけれども、歩道の問題はまだ後進国のように思われます。」

  これでは、書かれる文章にはならない。その上、この録音テープには、「アー」とか、「エー」とか、「そのー」も、入っているはずである。そんなものを文章にできない。

 この口語を文章にしたら、こうなるはずである。

 「述べたい第一は、歩道の問題である。歩道は、生活者にとっては重要である。だが、全般的に、歩道が少ないという声がある。ヨーロッパでは、歩道のない道路は道路とは見なさないという常識がある。日本はGNPが世界第二位の豊かな国になったが、歩道はまだ後進国である。」

  つまり、口語と文語とは違うのである。それに、この発言(=上の文)でさえも、書かれた文に近い。一般には、日常会話であれば、もっとくだけて、長いであろう。この例では、書き言葉にすることによって、30%も短くなっている。そして、余分な無意味な主観的な表現が削られている。

  井上ひさし は、書く。「会話態よりも講話態(座談会など)、講話態よりもゆるやかな講話態(スピーチ、講演など)へと発語速度が落ちてゆくごとに、話し言葉は書き言葉に近くなる」。(12)

 話すようには書けないというのは、井上、丸谷も言っている。話すように書けという代表は、佐藤春夫である。大きく言って、間違いである。

  なお、「見たとおりに書け」という勧めもあるが、本来それも不可能なのである。(13)話すことと見ることとは、書くという作業とは微妙に違うからである。

  ただし現代口語文と現代文語文とは相当似ている。言文一致の運動があったからである。

  (11) 「文章読本」(『谷崎潤一郎全集』第21巻)

  (12) 井上、51ページ

  (13) 本多勝一『日本語の作文技術』朝日新聞社 1982年 16ページ

3、実用文と芸術文

 谷崎は言う。「文章に実用と芸術的との区別はない」。ただし彼は、この前提を、「韻文でない文章、すなわち散文」としている。そして、「最も実用的なものが、最もすぐれた文章で」ある、と言う(14)。これは近代思想である。この説は、原則的に正しい方向に近づいている。

 しかし、すでに井上の論じたように、実際は違うのである。実用文と芸術文との区別はあるのだ。つまり井上が論じた問題が確かにある。大雑把に云って、文章は、表現文=芸術文と、伝達文=実用文とに分れるが、芸術文は、新聞記事、広告、商業文、手紙、論文などの実用文とは違うのである。むしろ谷崎の発言は、よい伝達をするという意味で、実用的文を努力目標とすべきだということであろう。

 芸術文と実用文とでは表現方法が異なる。また実用文・普通文でも、論文、新聞記事や広告・商業文・手紙とは、それぞれ違う。「これらの実用文にはそれぞれ固有の形式があり、特有の修辞法がある。」(15)

  (14) 谷崎「文章読本」

  (15) 井上、31ページ

4、明解

 川端康成は『新文章読本』で、「文章の第一条件は、・・・簡潔・平明ということ」である、と言う。

 谷崎は、ついで重要な考えを言う。「現代の口語文では、専ら『分からせる』『理解させる』ということに重きを置く。」この発言は本質をついている。

 さらに進んだ議論を紹介すれば、こうである。「はっきりと読者に伝わるのは、出来るだけ無駄を切り捨てて、不必要な言葉を省く」ことだ。また彼・谷崎は言う。「実に口語体の大いなる欠点は、・・・放漫に陥りやすいことであり」、ゆえに「口語体の放漫を引締め、できるだけ単純化すること」(16)が必要だ、とする。これも方向としては正しい。ただしこれには限度があって、電報文(例えば、「デンタノム」=「電話を頼む」)や土地家屋販売宣伝文のように、まったく無駄な言葉を省いてしまうわけにはゆかない。

  「形容詞を極力省いた簡潔明瞭はすべての文章の理想とするところ」である(17)。というのは、形容詞は、主観的である場合が多いし、無駄・あるいは余分になることが多いからである。「見かけはいかに語彙が豊かで、含蓄ありげで、彩りに富んでいようと、基本のところで論理に狂いがあって、どんな情景を描き、どんな感想を語り、どんな判断を示そうとしているのか、読者にきちんと伝わってこないようでは、文章を名のる資格はない。」(18)

  明解というのは、やさしい、読んで理解しやすい、ということでもある。といっても、内容がないと駄目である。小難しい文章がいい文章だと思うバカらしい解釈もある。有名な小説家も小難しい文章を書くことがあるから、注意をする必要がある。作家の書く文章がすべて良い文章だと、信用じ込まないほうがよい。

  編集者である、おか めぐみ さんは言う。

 「俗に編集者泣かせというのがいくつかありまして、一に悪筆、二に悪文、三四がなくて五に校正魔。/二についてですが『悪文』というのはちょっと刺激が強すぎるかもしれませんから『わかりにくい』文章といっておきましょう。著者自身には解り切ったことだからつい気楽に書いてしまうのでしょうが、読者には理解しにくいことが多いのです。言葉というものはむづかしいもので、自分の思うことや感じることを他人に解って貰うためには、工夫やら苦心やらが相当に要ります。小説を書く人たちはそのへんをよく承知していて、読者を引っ張っていくような文章を書く−−−すくなくとも書こうとする−−−ようですが、学者といわれる人たちは、あまりそういうことを考えないらしいですね。印税で生活している人とそうでない人との違いかも知れませんが、版元にとっては読者はお客さまで、お客さまは神様ですから、相手がたとえ学生であっても、一ページ読んで投げ出すような本は出したくないわけです。」(19)

 明解に書くための心得として、次の点があげられる。

1、一文を書く度に、その表現が一義的に読めるかどうか、他の意味にとられる心配がないかどうかを、吟味する。読者がそれをどういう意味にとるだろうかと、あらゆる可能性を検討する。理解できるように書くだけではなく、誤解されないように書く。曖昧な点を残さない。ある文が、正確に言うと何 を意味するかが分らなかったら、その文を省く。

2、はっきり言えることはズバリと言い切り、ぼかした表現を避ける。幾らか  不自然に思えても、できる限り明確な、断定的な言い方をする。(20)

  ここで沢田は、きわめて興味ある事実を述べる。「日本人が自分の考えを まとめて有効に表現する訓練を受けてこなかった。」(21)木下も言う。日本 人は、「折あるごとにぼかしことばを挿入する言語習慣が深くしみついていて、容易なことでは<はっきり言い切る>文章は書けないのである。」(22) と。

  そのまずい例を、木下は挙げる。「・・・であろう」「・・・と言ってよ いのではないかと思われる」「・・・感じがする」「・・・と見てもよい」 「・・・と思われる」「・・・と考えられる」「ほぼ」「約」「ほど」「ぐらい」「たぶん」「ような」「らしい」である。これに加えて「・・・とか」「・・・など」も避けたい。

    金田一も言う。「日本人ははっきり文章が終ってしまうと、何か切り口上  のような、そっけない−−−今のことばでいえば、ドライな感じがすると考  えて いやがった。」(23)

3、なるべく短い文で文章を作る。明解・簡潔を目指す。無駄な語句を避ける。長い文を避ける。

  名文を書くには、短い文で書くとよい(小泉信三)。天才的に文がうまい という人物以外は、短い文を書く方がよい。分かりやすい文章が書けるから である。

  なるべく原稿用紙の3行以内で書いてみる。一文27字以内で書いてみたらどうかと、小竹氏は提言した。明確な文が書けないときは、書き手の思考が明確でないときである(小竹豊治)。

   短い文は、ともすると素っ気なく、余韻が残らず、美文にならない場合がある。しかし美文をねらうわけではないので、短い文の方がよいということになる。

4、文を頭から読み下して、そのまま理解できるかどうかを、考えてみる。(2 4)読み返さないと分からないというのは、いい文章ではない。

  大隅は、明解な文章を書く方法をあげる。わかりやすく書くよう努めればよい。センテンスを短くくぎり、易しい表現をする。余計な言葉をそぎおとしていく。句読点をきちんと打つ。段落に気を配り、文末の変化に注意を払う、と。(25)

   一回読んだだけで意味がわかり、情景がわかるというのが、明解な文である。何回読んでも分からないというのは、よい文にはならない。判決文や、大学教授の学術文は、悪いものが多い。法律の文や役所の文章も分かりにくいものが多い、と江国は言う(26)

5、多くの言葉を一つの文章に沢山ほうり込む、それらを整理しないでいれ込む、ということをすると、分かりにくい文になる。

  (16) 谷崎「文章読本」

  (17) 向井敏『文章読本』文春文庫 1991 61ページ

  (18) 同 62 ページ

  (19) おか めぐみ『ユーブニズムの誕生』丘書房 1992 2628ページ

  (20) 木下『理科系の作文技術』中央公論 

  (21) 沢田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫。

  (22) 木下、97ページ

  (23) 金田一春彦『日本語』岩波新書 170ページ

  (24) 木下 同。

  (25) 『短くてうまい文章の書き方』三笠書房  136 ページ

  (26) 江国滋『日本語八ツ当り』新潮文庫

5、なぜ短い文が良いか。

  短い文を書くとなぜ分かりやすくなるのか、逆に、長い文を書くとなぜ分かりにくくなるか。それにはいくつか理由がある。

 1、「文が長くなると、文の統一ということを忘れてしまう書き手がでて」くる(27)。こういう人は多数いるのである。

  2、主語と述語動詞の間に、長々しく文を入れてしまう。こうすると、読み手は主語を忘れてしまう。(28)金田一は言う。「日本語で長いセンテンスを書くと、最初の主語を受ける述語動詞ははるかうしろにいく。そうしてその間に沢山の小さいセンテンスの卵のようなものが割って入る形になる。これでは聞く人・読む人は、話の中心思想が分からないで、はなはだ苦しむ。われわれの日本語では、つとめて短いセンテンスで文章を書かなければならない。」(29)

 3、その文に関係ないことがらを、入れてしまう。

 4、1つの内容を1つの文にすべきである。2つの内容のものを1つの文にしてしまうと、分かりにくくなる。

      1つの文章に、1つの命題だけを入れた方がよいし、その方が分かりやすくなる。つまり、AはBである。CはDである。EはFである。(ここでは文が3つになっている。)ーーーという風にした方がよい。

 5、文が進むうちに、主語が変わってしまったり、主語が分からなくなったりする。そのため、読み手は意味が分からなくなる。「主語が行くえ不明の文、述語だけが二回も出てくる文、主語が二つもあってどちらが本当の主語か不明な文、述語が見あたらない文」、これらは分かりにくい文なのだが、長くすることで、そうなってしまう。(30)日本語では、主語がはっきりしない場合が多いので、これらはかなり頻繁に起きている。

  上の項目は、逆に利用すれば、短い文を作る方法になる。

  明解さに近いものとして、正確さがあげられる。実用文=説明文では、正確さが生命である。事実を描くのには、誰が、何時、何処で、何を、どうした、ということを書くのが、基本である。

  大隅は、「どんな文章がいちばんいいんですか?」と聞かれて、こう答えた。「まず、正確に書くこと・・・つまり具体的に表現すること・・・」

「具体的に」とはどういくことか、とまた質問され、こう言う。読む人がどちらにでも受け取れるような抽象的な表現を避ける、これが先決である、と。ついでこうも答える。「わかりやすく書くことも大事です。センテンスを短くくぎり、だれが読んでもすぐわかるような語句を用いなければいけません。」と。(31)

  (27) 平井昌夫『文章を書く技術』現代教養文庫 1975 186ページ

  (28) 同 182ページ 

  (29) 金田一 177ページ

  (30) 平井 186ページ

  (31) 大隅  14 ページ

6、単語の選択

  川端康成は言う。「単語のよき選択はよき文章の基礎である。」(32)そのために、できるだけ普通の用語、日常用語を使う。新奇語、造語は、使わない。

かたい漢語やむずかしい漢字は、必要最低限しか使わない。

  谷崎は、用語について、その選び方を箇条書きにする。

 1、分かりやすい語を選ぶ。

 2、なるべく昔から使いなれた古語(33)を選ぶ。

 3、適当な古語が見つからない時に、新語を使う。

 4、古語や新語も見つからない時でも造語は慎む。

 5、依り所のある言葉でも耳遠い、むずかしい成語よりは、耳慣れた外来語や俗語の方を選ぶ。(34)

  そこで谷崎は、それゆえ、同義語を沢山知っている必要があるとし、しかし最適な言葉は唯一つしかない、と言う。後者つまり、「最適な言葉は唯一つしかない」ということは、川端も主張する。これは、ヨーロッパで言う本来のレトリック(=修辞)である。日本では、文を美しく飾ることと考えられている。

レトリック(=修辞)は本来、文章を美しく飾るというものではない。一番適応する語・句を使うということである。表現文でも普通文でも、適応した単語・言葉を選ぶことは必要である。

  (32)『小説の研究』講談社学術文庫 74ページ

  (33) ここで「古語」は、彼の議論を現在に生かすとすれば、伝統的な語、誰でも分かる言葉、本来的日本語と解釈したほうがよいだろう。

  (34) 谷崎「文章読本」

7、視覚・聴覚

 谷崎は言う。「口語文といえども、文章の音楽的効果と視覚的効果を全然無視してよいはずはありません。」

 誰でも実際に視覚的効果を考える。活字になる時、句点は多いか少ないか、改行・行あけ・活字の大きさ・太さ、また隔字体にするか、傍点を振るかなどを、誰もが考える。校正の時に、そうしている。

  文章は音楽と似ている。だから書き手は、聴覚的効果も考える。読み手は文章を一気に読めない。前から後へ時間を使って、時間とともに読み進めて行く。だから音楽を聴くのと似ている。「言語表現あるいは言語芸術というものは、・・・時間的に展開してゆくものなのである。」(時枝誠記)

8、主語

 谷崎いわく、「日本語においては、少なくても詩や小説の文章には主格を置かないのが普通であった。」(35)日本語だけではなく、ラテン語も、主語がない場合がある。ハプスブルク帝国時代に貴族は、「私は」Ich を使わなかった。

日本語に主語がないとか、曖昧だというのは、確かである。普通のお喋りや手紙では、主語がない。

 しかし、学術論文や論文の文章には、主語や主格をいれた方がよい。ただし人称代名詞は不必要な場合がある。そのような不必要な主語を除けば、むしろ主語は入れた方がいい。

  文章は普通は、主語と術語からなる。だから普通文や論文の文章では主語をはっきりするとよい。文章が分かりやすくなる。

 わかりにくい文の典型は、主語がどれだか分からないもの、主語らしいものがたくさんあって主語がわからないものである。だから主語を確定しておくことは必要となる。

  「現代の日本には西欧的な意味での一人称、二人称が欠如している。」(36)実は、その意味では、三人称も欠如している。

  日本語に主語がないという別の理由は、主語がなくても日本語が敬語・謙譲語によって表現できることである。言葉は社会に規定されている。そして、日本語がまた日本社会に規定されていることは、鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書などで、興味深く研究されている。敬語・謙譲語を使うことによって、日本語では、主語が分かるようになっている。

  さて論文などでは、特別に敬語・謙譲語を使う必要はないので、そのためにも主語を入れた方が分かりやすくなる。

  (35) 谷崎「現代口語文の欠点について」

  (36) 鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫 1981 38 ページ

9、文章の見直し

 自分の書いた文章は、必ず見直しをする必要がある。これをしないといい文章は書けない。その方法には次のものがある。

 1、書きながら見直す。これは誰でもやっている方法である。

 2、他人になったつもりで見直す。これは、1と3に関係する。

  3、声を出して読む。これは、前述の谷崎の言う音楽的効果にかかわる。彼は言う。「たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声というものを想像しないで読むことはできない。」これは重要だし、正しい。黙読していても頭の中では音を出しているからである。具体的作法について谷崎は提案する。「文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声を出して暗唱し(37)、それがすらすらと言えるかどうかを試してみることが必要であり・・・・、もしすらすらと言えないようなら、読者の頭にはいりにくい悪文であるときめてしまっても間違いはありません。」 (38)

 4、他人に読んで貰う。例えば、福沢諭吉は、自分の文章を女中さんに読んで聞かせ、彼女に分からない所があると、彼女が分かるまで文章を分かりやすくした、という。大塚金之助先生は、文章を夫人に読んで貰ったと言う。もちろんそういう立派な奥さんを持っていない人は、他の方法でそれなりに努力しなければならないだろう。

 5、時間を置いてから見直す。例えば一週間後に読み直す。かなり時間がたつと、誰でも冷静になるからである。

 6、何度でも書き直す。例えば、アダム・スミス Adam Smith は8回書き直した(39)。書き直せば書き直すほど、文はよくなる。その上、ワープロの登場で、これはやりやすくなった。書き直す観点は無数である。本稿で書いた論点からさらに見直すということになれば、何十回も書き直すことができる。

  (37) ここで「声を出して暗唱」というのは、「音読」ということであろう。その通りらしい。

  (38) 谷崎「文章読本」

  (39) ただし彼の場合は口述筆記である。しかし原理は同じである。

10、主観

  論文、とくに学生の論文の文章で多いのだが、「私は、・・・思う」という文が沢山入っている。これは以下の三つの点でよくない。

  第一は、曖昧さの問題である。「AはBである」という文と、「AはBであると、思う」という文とは、違うのである。論文向け文章では、出来る限り正確なこと、そして事実を描くべきなので、一般的に言っても、「・・・と思う」文は、排除しよう。書き手がよく調べていないので、「・・・と思う」という文を書いて逃げている場合が、概して多い。実際は、日本人が使う、「・・・と思う」という句は、AはBであると断定するのを避け、丸みをもたせるための、単なる言いまわしの口上にすぎない。外山は、「てれかくし」だと見なしている。(40)

  第二は、主観と客観の違いの問題である。「水は、酸素と水素からなる」というのと、「水は酸素と水素からなると、私は思う」というのは、違う。「と思う」の文は、印象が弱いこと、頼りないこと、不正確さ、に加えて、主観を述べていることである。客観を述べてはいない。

  株屋に電話して「□□会社の株は今いくらですか」と聞き、窓口の証券会社員が、「今、1株200円だと、私は思います」と言ったら、買い手は困るのである。客は、その彼の思いではなくて、客観的な事実としての値段を聞きたいわけである。事実の世界を描くべき論文の文章で、主観を述べられても困る。

  ガリレオは、ローマ法王庁の宗教裁判で、「地球が動く」とは言わなかった。「地球が動く、ということが考えられる」と答えた。それで殺されることなく、投獄されるにとどまった。客観文と主観文には、殺されるかどうかというほどの違いがある。

 そこで、「私は、・・・思う」という意味の表現、つまり主観的表現を、論

文では出来る限り止めるべきである。

 これに似た多い例は、「・・・気がする」である。「気がする」で、論文を書かれてはたまらない。その他、「・・・・感じる。」「・・・だろうと思う」「・・・ように思える」「・・・言えよう。」「・・・のではないかと思う」などがある。ひどくなると、「・・・ではないかという気がする」というものもある。

  「・・・と、言える。」等の、他力本願的な表現も、なるべく避ける。「AはBである。」というのと、「AはBであると、言える。」というのは、違うのである。これでは、曖昧になってしまい、無責任的表現である。主語もはっきりしていないし、受身でもある。事実の調べがしっかりしていない時、または、はっきりした事実から逃げようという時に、使えるだけである。「・・・と、言えよう。」というのは、より一層悪い。未来形になっているからである。

 ついでながら、主観的表現を重ねる困ったクセもある。

 「・・・したいと思う。」−−−「したい」というのは、もうすでに「思っている」ことである。

  「・・・考えて見たいと思う。」−−−ここには主観的表現が、ご丁寧に3つもあり、救いようがない。

  よく出て来る表現は、2重否定である。「・・・でなくはない」というもので、これでは文章が弱々しくなるし、はっきりしない。「・・・ではないかという気がしないでもない。」などと書かれると、読み手は、”君、一体どうなってるの ?”と言わざるをえない。

  大工の棟領が弟子に、「その柱の長さを測ってくれ」と頼み、弟子がこう云ったとする。「ハイ、測りました。1メートル20センチではないかという気がしないでもありません。」この弟子は、殴り倒されるにきまっている。

  第三に、そもそも論文では、書き手の思うこと、思う内容を書くわけだから、思っている内容にたいして、さらに「私は、思う」とする必要はない。

  最後に一言しよう。「・・・思います。」の文は、口語や手紙文などで多用される。日本語ではそうせざるをえなくなる。断定的な文は話しにくいし書きにくい。しかし論文向け文章では性格が違うのである。

  (40)  外山滋彦『日本語の論理』中公文庫 54 ページ

11、文章の終り

 論文向け文章で、現在形は、「・・・である」調に統一するものとされる。過去形では、「・・・た。」で終る。

 この理由は、「であります」とか「でございます」では、長すぎるからであり、また、「です」「ます」は口語的だからだとされる。ただし、くどくなったら、「た」調の代わりに「であった」調などを入れる。つまり聴覚の問題であり、いつも「た」「た」「た」「た」と、機関銃のように書くわけにゆかない。この聴覚問題は、文章の終りの部分だけとは限らない。

  ただし、過去を「・・である。」と言ってもいい場合もある。

12、オノマトペ

                    省略

13、文体

                    省略

14、意見と事実

 叙述・描写の論文を除けば、論文の文章は、自然科学的なものがよい。すると、木下氏のいうように、事実と意見をきちんと分ける、事実の裏打ちのない意見を記述するのは避ける(42)べきだということになる。では事実を記述するにはどうするか。

 1、書く必要のある事実だけをかく。

 2、ぼかさないで、できるだけ明確に書く。

 3、文はなるべく名詞と動詞で書き、主観に依存する修飾語を混入させない。

 4、事実を書いているのか、意見を書いているのかを、いつも意識する。両者を明らかに区別して書く。

 5、事実の記述に、意見を混入させない。

 6、レポートの主体は、意見でなく事実であるべきだ。 

  この第6点について、木下氏はきわめて興味ある問題を出す。それは次の例が示すように、事実はどれで、どれが意見か、というものである。(43)

ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。

ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

  上が意見で、下が事実である。上の文の「最も偉大な」というのは、書き手の意見であり、主観である。事実ではない。こういう教育はアメリカでは行なっているそうだが、日本ではやっていない。

  (42) 木下『理科系の作文技術』中央公論 

  (43)  同、101ページ

15、読点

 書かれた作品は、字・語・句・文章・分節(=パラグラフ)・節・章・編・部になる。句の後に、点(読点)、文章の後に丸(句点)を打つ。

 句読点は、字と同じか、それ以上に大切である(本多)。「句読点も文字の一つである」(佐藤春夫)。実は、読点(、)こそがそうなのである。句点(。)の打ち方は、誰でもかなり分かっている。

 金田一は言う。「日本語では、文・・・・は、かなりはっきりした単位である。小学校で生徒に作文を書かせてみると、 、 を打つ場所は六年生になってもなかなかうまくゆかないが、 。  を打つ場所は、二年生になれば、たいてい正しいところに打てるようになるという。」(44)

  読点の打ち方を論じよう。岡崎洋三は、『日本語とテンの打ち方』で言う。「私はまず読点の打ち方からはじめたいと思う。その理由は、読点の打ち方が問題になっていないというまさにそのことになる。だれも問題にしていないから問題にする、のである。日本語表記の問題には様々なものがあるけれど、テンの打ち方はごく一部の例外を除いて問われてないのである。」(45) その通り、これほど重要な日本語の問題が、日本全国でとりあげられていない。 「文章を書くときに読点をどこにどう打つかということは、必ずしもハッキリしているわけではない。」学校でも教えていない。それどころか、しっかりした理論がない。これは致命的である。岡崎は言う、「大多数の人々が無意識的に、『気分』でテンを打っている」(46)。これは彼の研究によると、文章の専門家がすでにそうである。「プロの文筆業者といえどもテンに関しては鈍感な人が圧倒的に多い。」お手本はある。「しかしお手本通りに打っていますかというと、打っていないのである。(47)

  「読点は論理的なものでなければならない。・・・気分や雰囲気や書き手のクセで読点を乱発してはならない」(48)。だが日本では、出版社でさえも点を軽視している。

  「テンは分かち書きの強調である。」(49)

  例)

      ここではきものをぬいで下さい。

  この文は分からない。

      ここで、履き物を脱いで下さい。      なのか、

      ここでは、着物を脱いで下さい。   なのか、

区別はつかない。テンで区別がやっとつく。あるいは漢字で区別がつくだけである。

  読点がないと全く違う意味がになってしまう文には、必ずテンをつけねばならない。しかし、日本人は付けない場合が非常に多い。

  「読点を打つ時は何と何を何のために分かつのかということを考えねばならない。」(50)「読点の機能はあくまでも、『分かつ』ことにある」(51)

  ただし非常によく考え抜かれた、論理的な文章は、点を打たずにも分かる場合もある。語順を正しく考えて書いた場合である。その時は打たなくてもよい。しかし普通は、それほどの文章は書けないから、打った方がよい。

  修飾する語・句と修飾される語・句との関係が、問題になる。この関係を一義的に分かるようにするためにテンを打つ。

  本多勝一は『日本語の作文技術』で、読点の打ち方について論じている。彼によれば、テンを打つための2つ原則がある。

  長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンを打つ

 語順が逆順の場合にテンを打つ、  である。

  これら以外に、文が長いために分かりづらいという場合は、テンを打つこともよいことだ。しかしその時も、論理的に打つべきである。

逆に言って、あまり沢山テンをうつのもよしあしである。読み手は煩雑に思う。大体、十数字に一つ程度と言われている。

 落語で有名な文がある。

1 今日は雨が降る天気ではない。

 これは、丸を打てば、先ずはっきりする。

2 今日は雨が降る。天気ではない。

 しかし、文1は、違った解釈もできる。

3 今日は、雨が降る天気ではない。

 日本語は分かち書きをしないので、点が必要になる。しかし、テンの打ち方は誰も教わっていないし、普通は完璧にできる人はいない。

  さて、読点は、理論的に打つべきである。例えば、

   美しい花をもつ娘

という句がある。これが、美しい花か、美しい娘なのか、分からない。文法学者は、美しい花、と理解してくれる。しかし読者は、日本語文法学者ではない。そこで

   美しい花を、もつ娘

   美しい、花をもつ娘           という風に読点を打てば、分かる。

ただし実際は、語順を考えた方がよい。美しい娘、と言いたい時は、

      花をもつ美しい娘

とすべきである。日本語ではまず初めに語順を考えて、伝達すべきであり、読点は、それでもできない時に打つ方がよい。また、

     五と三の二倍は

  という文は、16だか11だか、全く分からない。

      五と三、の二倍は            あるいは

      五と、三の二倍は

 のどちらかにしないと、答は違ってしまうだろう。点の打ち方で意味が変わる、あるいは分からなくなることを、知るべきなのである。(52)

  あるいは、語順を変えればわかりやすくなる。

文1 山田さんは結婚した田中さんの先生である。

 という文も、点や丸一つで意味が違ってしまう。あるいは話をする時に、息を入れるか入れないかで変わってしまう。

文2 山田さんは結婚した。田中さんの先生である。

文3 山田さんは、結婚した田中さんの先生である。

 文1は、良く読めば、文3だと理解してもらえる。しかし、読者は困って、文2かな、と思うことがある。文1は不親切なのである。点を打つべきだ。

 古来有名な句、弁慶がな、を紹介しよう。

 弁慶がなぎなたを持って

 という句が、弁慶がな、で、行が変わってしまうとこうなる。(/は、改行を意味する。以下同様。)

     弁慶がな/

     ぎなたを持って

 となり、弁慶がナ、「ぎなた」を持って、と読んでしまう。ぎなたッテ、いったい何だ、と不思議に思うまで、文は分からない。だから

        弁慶が、な/ぎなたを持って

 と、点を打たなければならない。昔は点を打たなかったのである。

  平仮名だけで書いては分からない例もある。ついでに言うと翻訳もできないのである。

 わたしはたぬきだ。

  ワープロで打ち出すと、「私は狸だ。」となる。だから漢字で書けばテンを打たないで分かる場合がある。しかし「私、旗抜だ。」と名乗っているのかもしれない。この場合は、点を打たないと分からない。他の可能性を考えると、「私はタ抜きで言葉遊びをする」と言っているかもしれず、「私はタヌキそばを注文しよう。」と言っているのかもしれない。

  よく出て來て、こんがらかる場合は、月日、時刻である。

  5月3日に彼女に会うと彼は言った。

  これも同じ問題である。彼が5月3日に言ったのか、5月3日に彼女に会うのか、分からない。これをテンで示せば分かる。

  5月3日に彼女に会うと、彼は言った。        あるいは

  5月3日に、彼女に会うと彼は言った。

  しかし語順を変えれば、分かることでもある。

  彼女に5月3日に会うと彼は言った。

  彼女に会うと彼は5月3日に言った。

  しかしこれでも、テンを入れた方が読みやすい。

  彼女に5月3日に会うと、彼は言った。

  彼女に会うと、彼は5月3日に言った。

  句読点を正しく打つことは、かなり正確な文章技術を持ってはじめて可能なことなのである(大野晋)。

 青柳友子は書いている。「もう一つ、私はxxさんの文章で、こんど初めて気がついたことがある。/句読点の使いかたが、実にうまいことである。・・・/ムダな句読点がない、必要な部分に抜けることがない。句読点のことなど、大した問題ではないようだが、けしてそうではない。/文章を書くとき、人はつい自分のしゃべりかたの癖と同じに、句読点を打つ。/これだけきちんとした句読点を打てるのは、xxさんが受けた教育や生活環境がマトモだったことを物語っている。」(53)

  xxさんとは、小説家である。小説家が小説家をほめているので、可笑しい事この上ないが、言っていることは正しい。「句読点のことなど大した問題ではないようだが・・・」とも書いている。文章を書く専門家中の専門家がこんなことを言わざるをえないほど、わが国では句読点の重要性が認識されていないのである。句読点をきちんと打てないのは、マトモな教育を受けていないと、彼女は言っている。だが一般には、そのマトモな教育が日本では行われていないことも確かである。小学校から大学まで、それを教えていない。だいたい教える側の先生が、句読点の技術を教わっていないのである。

  日本で文章の書き方を組織的に教えている唯一の商売は、新聞社であり、従って新聞記者は文章の書き方を教わっている。ただし新聞向けの特殊文章である。その新聞記者は概してテンの打ち方を知らない。

  点(テン)は、戦前は新聞でも手紙でも打たなかった場合がある。点の打ち方の下手なのは、そこと関係があるかもしれない。

  点の意義は他にもある。文章の読み手は、声を出していなくても、息をつめて読んでいる。したがって、点が全然ないと、息切れしてしまう。だから長い文章では、息をつく所で点を打つべきである。(54)

  岡崎は言う。「読点の打ち方が気になりだしたら、しめたものである。それは、言葉と言葉のかかり受けについての反省と論理的考察が生じてきたことを意味して」いる。

 まとめとして、点を打つための原則を示しておこう。先ず第1に、テンを打たなければ、意味が通じないとか、どう解釈してもよくなるという場合には、絶対打つべきである。ただし、書く人にはこれがなかなか分からない。そのために、助けるための原則を書こう。繰り返すが、いま言った「第1」が一番重要なのである。

 1、同格の重文のときのそれぞれの単文の間に、打つとよい。つまり、「A   はBであり、CはDである。」という場合である。

  2、複文の時の、主節と従属節とを区分するために、テンを打つとよい。例   にすぎないが、「君が来るのを、私は待つ。」のようになる。

 3、単文であれば、主語あるいは主部の終りに打つとよい。

 4、挿入句に、テンを打つとよい。

  あまり短い文にはテンを打たない方がよい。逆に、長い文にはテンを打った方がよい。その場合は、文の構造や文の段階を考えて、または大きい観点から見て、文の大きい論理の水準で、テンを打つ。日本語の場合、一息で読める字数は75だという。句読点なしで、75字以上の文章を書いてはならない。

  (44) 金田一

  (45) 晩・社 1988年、5 ページ

  (46) 12 ページ

  (47) 13 ページ

  (48) 15 ページ

  (49) 25 ページ

  (50) 34 ページ

  (51) 35 ページ

  (52) 井上の例示。

  (53)[解説]佐藤愛子『男はたいへん』集英社文庫 1988 286ページ

  (54) 本稿で引用した文も、点を打つとどんなにか分かりやすくなるだろうと思う文が多い。しかし引用文であるから、筆者としては読点を打つわけにはゆかない。

16 修飾語

 まぎらわしくない文章を書くためには、

 1、語順を正しい文法規則に従って書く。そこで一番問題なのは、修飾語である、だから、

 2、修飾語を置く位置を、修飾すべき語に密接させる。(55)

 修飾する言葉と修飾される言葉との良い規則を、本多は引き出している。(56)

 1、両者の距離が離れ過ぎない。

 2、句を先に、詞を後に、書く。

  3、長い修飾語ほど先に、短いほど後に、書く。

  4、大状況、重要内容ほど、先に書く。

  これらの法則は、点を打つ場所を考える時の前提条件にもなる。

  修飾語とは形容詞や副詞である。これらは、主観的表現の語が多い。従って、なるべく使わない方がよい。論文の場合は、証明がされてから使うくらいの気持ちが必要である。例えば、美しい、立派な、素晴らしい、などは、具体的な表現をしてこれらの語の代わりにする。

  (55) 木下 

  (56) 本多勝一『日本語の作文技術』朝日新聞   

17、接続語

              省略

18、助詞・接続詞の「が」「は」

 清水幾太郎は、有名な『論文の書き方』(岩波新書)で、接続詞「が」を使わないようにと、推めている。その「が」とは、文の終りにくる「が」であり、無意味の「が」のことである。重文の中の前の文が終るときの「が」である。日本人は、あるいは日本語では、この「が」が多用される。順接接続語でもなければ逆接接続語でもない「が」、である。これは、清水の言うように、止めた方がよい。日本人は喋る時に多用している。

  電話で、こう受け答える。「ハイハイ、山田ですが、・・・」

この時、「が」は無意味である。口語である。

 「モシモシ、鈴木ですけれども・・・」

この「けれども」も、意味がない。文章では、この無意味の接続詞はカットしたい。

 多くの場合、主文の主語には、「が」でなく「は」がよい。例えば、

     私は、犬が歩いているのを見た。

  「は」を「が」にすると、変になる。

      私が、犬が歩いているのを見た。

 助詞「は」「が」「に」の違いは、大切である。

      キリンは、首が長い。

  これなどは、外国語に直訳しにくい。(もし訳するとすれば、betreffen あるいは as for を使って、「キリンに関しては、その首は長い」となる。)逆に日本語への訳では、こういう表現を使うとうまく訳せる。だから、「は」は、便利である。

19、文章の書き方。一般的

  文章の書き方について、木下氏の言う技法・態度を、紹介しよう。

  1、書きたいことを一つ一つ短い文にまとめる。

  2、それらを論理的にきちっと、つないで行く。

  3、(主語を書かなくてもよいが、)主語をはっきりさせる。

 ある問題を論ずるときに、 

  1、何が問題なのか、明確にする。

  2、それについて確実に分かっている点を、明らかにする。

  3、良く分かっていなくて、調べる必要があるものを、明らかにする。つ    まり分からないものを確認する。そして必要であったら、調べる。

 少しくどいと思っても、論理の環を省かない。何度も前に戻ったりしない。不意に余計な支流が流れ込んだり、迂回したり、行く先がわからなくなったり、ということはしない。 

20、論理、論理的。

 論理的に出来ている文章は、読んでいて分かりやすい。非論理的だから、分かりにくいのである

 丸谷は言う。「文章の調子にとっては、個人個人の生理や体質よりももっとずっと大切なものがある。それは人間の思考という普遍的なもので、その普遍的なものに合致するように言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらえる。つまり伝達ができる。」(58)これは、論理的あるいは、文法的に正しくあれ、と言い替えることができる。

  日本語は論理的でない、という主張がある。どうだろうか。これは間違いである。日本語も論理的である。ただし日本語は、日本人がもつ微妙な感情をうまく表現できるので、それがあたかも論理的でないように思われてしまうのである。英語・ドイツ語などとくらべて、である。これは、日本人あるいはアジア人が感情的に微細にできているので、そういう表現・言葉が多いからである。社会のあり方によるのである。例えば、親に「孝行」する、とか、学校の「先輩」という語は、ドイツ語にない。「義理」も英語にない。日本人つまり書き手が、論理的でなく、日本人的な感情で書くから、論理的でないようになる。社会と歴史の問題である。

 日本語が論理的でないといわれる理由の一つに、イエス・ノーをはっきりさせないことがある。書き手の態度の問題である。書き手が非論理的だと、非論理的な文を書くことになる。

  ドイツ語を例にとれば、代名詞が文中のどの名詞と対応しているかが、比較的よく分かる、英語よりもよく分かる。4つの格と3つの性と単数・複数の区別があるからである。それでも7種類の指示代名詞しかないのだが。英語は、単数・複数、3つの格しかないので、ドイツ語よりも対応する言葉を特定しにくい。もっとも日本語よりも特定しやすい。そのような違いがある。しかし、少し丁寧に書けば、日本語でもこれらの言語に追いつくだろう。

  さてドイツ語は、たとえて言うと、単に煉瓦を積み重ねて建物をつくるようなものである。日本語は、煉瓦のあいだに砂や粘土を入れてしっかりつないでいるような言語である。助詞や助動詞で細かな微妙な表現をすることができる。

  (58) 丸谷『文章読本』中公文庫             

21、精神論

  文章を書く際の、精神論というべきものがある。これは本書とは、直接の関連はないが、いくつか羅列しておこう。

 石川 淳は言う。 書くに値する内容でなければ書くな。

  多い知識で、少ない文章を書く。あるいは沢山の取材をする。そうすると、よい文章が書ける。

  優れた内容でも、文章がしっかり書けていなければ、無意味となる。(59)

 文章は、練習による。(60)

 分かっていないのに、あるいは分かった積もりで書く人が、いる。自分だけ分かるが、読者に分からないことを書く人がいる。

  「・・・いかに書くかという問題は何を書くかという問題と不可分の関係にある・・・。というより、どうしても書きたい、人に知らせたいという内容があるからこそ、それを誤りなく、そして快くうけいれてもらうために言葉を選び、構成を考え、文章を練るということが生じるので」あって、「その逆ではない。」(61)

  上の中で、文章(をうまく書くようになるに)は練習による、という説があった。しかし理論を知って練習をしないとうまくならないだろう。その理論を本書で述べているのである。

  (59) 同書        

  (60) 沢田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫 

  (61) 向井、239ページ

22、パラグラフ

 パラグラフ(=分節、文段)を作ると、読者が読みやすく、要点をつかみやすくなる。

  パラグラフ、つまり段落をつけること、改行することは、日本人は意識していないらしい。日本語論者がよく言う指摘である。だいぶ長くなったから、そろそろ改行しようか、と普通の日本人は考えると言う。

 パラグラフは、ある小主題、トピックス、ある一つの考え、の前後で、作るものである。(62)また論点や、局面が変わるときに、パラグラフを作る。

沢田は「一段一思想が原則」であると言う(63)

 パラグラフの書き始めは、一字下げである。短いパラグラフを無闇やたらに沢山作らない方がよい。小説家でそういう人が多いが、それをよく知らないのか、あるいは原稿枚数を増やして原稿料を稼ごうとするかのどちらかである。

 パラグラフの意義の重大さは、アメリカの大学ではよく教えているという。

  さて、パラグラフを作らないと、作品にメリハリがなくなる。その上、読者はくたびれてしまうのである。

 パラグラフで文を切るのは:

  1、次の主題に移るとき、

  2、文が長く渡るとき、

  3、対話文・会話文を書くとき(64)である。

  少なくても200字から300字くらいで作ると、よさそうである。

  (62) 木下『理科系の作文技術』中央公論 

  (63) 沢田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫 114ページ

  (64) 木下

23、その他の諸問題

  文章の書き方の基礎技術について、本多の書は詳しい。ここでは個々バラバラに、いくつかの点だけを記そう。

 内容の正確さのために、あるいは事件記事を書くときに、出来事を書くときに、5W+1Hが必要である。誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どんなやり方=どのように、を書く必要がある。

 代名詞は、余り使わない方がよい。例えば、「それは」などである。名詞で書いた方がよい。論文では、代名詞をなるべく名詞で書いた方が、正確になり、分かりやすいからである。もちろん、絶対に分かる時は、代名詞でよい。それに、いくら何でもクドイという時は、止めるべきであろう。

 語句と語句の接続をはっきりさせ、代名詞の受け方(係り方)をはっきりさせる(65)。そうすれば、文はそうとう分かり良くなる。

 言葉を統一する。例えば、「及び・・・」を使ったら、「および・・・」にしない、などである。

 受身の文も、なるべく使わない。弱い表現になるからである。

 併記できる事項は、1、2、3と数字を振ると分かりやすい。

 中黒=中点、つまり[・]などを使ってみる。

 漢字だけで書く言葉を、二つ続けて使わない。読みにくくなるからである。

 同じ表現を続けて使わない。紋切り型を使わない。これをすると、読み手は嫌気がさす。そのために、『類語事典』を使用する。

  谷崎は、「・・・的」の乱用を戒めている。形容詞化するこの「的」でなく、「の」で沢山だ、と言う。これはかなりよい指摘である。(66)

 ヘーゲル(67)は、例をあげるな、と述べたが、場合によっては、挙げると分かりやすい。「・・・のような」とか、「・・・くらい」、の語である。しかし、曖昧になる恐れがあるから、注意すべきである。

  (65) 平井 183ページ

  (66) 谷崎「現代口語文の欠点について」

  (67) ドイツ哲学者。『小論理学』で。

24、全体の書き方

  「論文の書き方」(=全体の書き方)と「文章の書き方」とは、違うものである。文章は、論文のための材料あるいは部分である。それゆえ、ここでの説は、「文章の書き方」という本書の範囲からはハズれている。しかし、長い分量の文については当てはまるだろう。

 構成表を作ることも、有益である。つまり論文のアウトラインを作る。(68)

 木下は、次のように言う。

 1、どういう順序で書くかという原則を決めて書く。そして、

 2、途中でその原則を破らないこと、その原則を守れなかったら、方針を立て直して、始めから書き直す。

 自分が答えに辿りついた紆余曲折の道をそのまま書かないで、見つけた最も簡明な道に沿って書く。外観から細部へと書く。事件は、原則として時間的進みの順序で書く。

  内容項目を、例えば、ABCACBABCという順に書く人が、かなりいる。これを単にAAABBBCCCとするだけでも良くなってしまう場合が、非常に多い。

 論文や文章の区分は、三段、四段、五段があるとされる。保坂弘司(69)と向井は、四段=起承転結を勧めている。それに対して沢田は反論している。起承転結は漢詩の構成だという(70)。アリストテレスは『詩学』で、文章は、初め、中、終わり、で構成すると言う。昔の日本人は起承転結を強く勧めていた。現在でも多くの文章読本はそれを勧めている。しかし現在ではその必要はない。これは漢詩の美学だからである。起承転結でうまくゆくのは、詩や随筆の類である。会社での業務文をまさか起承転結で書く人はいないだろうし、論文やレポートを起承転結で書いているとは思えない。漢詩の美学は、それ独自の守備範囲があるだけである。

 (68) ちなみに、学生が本書を読んでいるならば、一言したい。小論文あるいはその種の試験で、時間の制限がある場合は、次のことは絶対必要である。初めにメモを書いて、アウトラインと材料を記す。清書する時間を差し引いて、それらのために全部時間を使う。それが終わって一気に清書する。

 (69) 『レポート・小論文・卒論の書き方』講談社学術文庫 

 (70) 沢田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫 

25、日本語作文教育

  「意見や主張、あるいは分析や解釈のための文章にくらべて、ものごとの様子を説明したり、情報を伝えたりする文章は軽くあしらわれがちだが、文章作法からいえば、説明文や情報文をきちんと書く、読んですぐ理解できるように効率よく書くということのほうがむしろ基本である。文章の総量のうえでもこちらのほうが圧倒的に多いのだし、だいいち、ものごとの成行きをすっきりと説明できないようでは、主張も分析も説得力をもつことができない。事実をはっきりさせることに大きな比重がかかっているノンフィクションの分野では、とりわけ肝要な文章心得であろう。」(71)

 「特殊の才能がある人でなければ書けない文章ではなくて、普通人ならだれでも書ける文章ということが、今日ではたいせつな問題になってきました。」(72)

  木下氏は、日本の学校の作文教育は文学に偏っている、と書く。外山は、違った脈絡の中ではあるが、言う。「読みものとして選ばれるものがほとんど文学的物語にかぎられているけれども、文学的表現は子どもにスタイルを感得させるのにかならずしも最適であるかどうか疑問である。文学的な技巧のある文章はむしろ[=言語の]原型の形成にはさまたげになるかもしれない。」(73)

  また作文教育は、中学や高校ではあまりやられていない。小学校で少し行われているだけである。(74)

 ところが、唯一作文を教えるその小学校で、方法が間違っている。短編小説か名随筆のように表現がうまいものを、教師は誉める。しかし、これは表現の文章であり、伝達の文章とは違うのである。「正確に情報をつたえ、筋道をたてて意見を述べることを目的とする作文の教育−−−つまり仕事文書の文章表現の基礎になる教育−−−に、学校がもっと力を入れる」べきである、と言う(75)。実際その通りである。

 小学校で、随筆家や小説家を育て上げる必要はない。文学的な作文を書く生徒は限られている。外山も言う。「大部分の人は小説家や随筆家になるのではないから、文学作品ばかりで文章の勉強をするのはどうであろうか。」(76)

  「学校の国語教材もほとんどすべてストーリーのある感情移入的理解に訴えるものになっている状態を検討しなくてはならない。思考性は数学や理科でやるべきだというようなことを考える国語教育は言語の教育をしているとは言えない。」(77)

 普通の人は、社会に出て、仕事では普通の文章を書くことが必要である。報告とか、業務文などである。この基礎を学校では教えるべきであろう。一部の才能をもった人は作家になるが、大多数の普通の人はそうではない。伝達目的の文を書く生活をするのである。「朝起きた。そして顔を洗った」方式の文を書くと、学校では叱られる。もちろんそれではつまらないから、よくないが、そのような類の普通の文を正確に書けることが必要である。

 日本の学校での教育方針によって、どれほど多くの生徒・学生が、悩み、心を痛めているかは、量り知れないのである。

  岡崎は言う。「日本語の作文について語るときに読点について論じるのは、物事の順序ということで言えばかなり後の方ではないか・・・」「しかしこういうものの言い方もできるのではないか。小学校なりの教育現場において読点の打ち方や日本語の語順の問題についての適切な教育がないから子どもたちの作文がダメなのではないか、と。」「きちんとして初等教育が為されていないがゆえにテンや語順の問題についての音痴が大量生産されているのだ、と。」(78)

  日本では、受験勉強のために、作文のようなのんびりした、時間を要することは、カットされるのかもしれない。知識を詰め込んだ方が、短期間で入試に合格すると思われている。しかし作文は教育の基本である。

  ただし例外として、高校や予備校で、大学受験のために小論文の技術を教える場合がある。しかし、この小論文の授業は、本書で述べたような文章の書き方の教育ではない。

  大学では作文は教えないが、試験はかなりの場合、論述であるし、レポートや卒業論文を書く場合が多いので、事情が異なる。またそのために、高校での力・成績と、大学での力・成績は、現れ方が違って来る。

 江戸時代の教育は、「読み・書き・算盤」と言われたが、そんな素朴な時代でも、「書き」は、重要な3つの中の1つであった。ただし、書きと言っても当時は習字が主であるが。

  教育が、あるいは社会が進めば進むほど、書く力は必要になるだろう。学校教育では、欧米では自分の意見の表現に、日本では知識の詰め込みに、最大の努力を傾けている。

  教育現場では、受験勉強のために詰め込み教育が必要だと考えるかもしれない。だが、日常・職業生活で大切な、「文章を書く」ことを、義務教育の場と高校でしっかり教えるべきであろう。これらは、文部省にも日教組にとっても損なことではないと、信ずる。

  ここで私の言う作文とは、もちろんクドイようだが、普通文・説明文の作文のことである。

 (71) 向井、205 ページ

 (72) 平井、51 ページ

 (73) 外山、4445 ページ

 (74) ところがその小学校で、教えることが多すぎて、作文教育ができないと、現場の先生は嘆いている。少なくとも1990年代初頭の話である。

 (75) 同じ趣旨のことを、本多も言う。2527 ページ

 (76) 外山、4849 ページ

 (77) 66 ページ

 (78) 岡崎、180-1 ページ

まとめ

 ーーすぐ文章がうまくなる4つの方法

1、あいまいな表現をやめる。主観的表現をやめて、客観的な表現を求める。

2、テンの打ち方の理論を学ぶ。

3、短い文で書く。

4、語、句、文の順番を考える。

        関係深い言葉を近づける。関係がない言葉は遠ざける。語順や句順、並べる順番を考えると、文章は分かりやすくなる、

 

 文章が全く下手だという人がいるとしよう。だがこのまとめで述べた戒めを守ると、それぞれ1つで2割がたはうまくなる。さて3つの戒めを守ると、合計で8割がたうまくなる勘定になる。しかし2割の部分は残る。これは仕方が無い。文章作りはそう簡単ではない。

付録

学術論文

 学術論文とは何か。実は、注の付いている論文のことを言う。注とは本来、利用資料を明示したものである。(1)

  従って、注について一言しよう。

  どんな書き物でも、論文でも、自分の考えと他人の考え(あるいは資料)との両方からなる。それ以外にはない。学術論文でもそうである。前者つまり自分の考えは、どんなに自由に書いてもよい。しかし後者つまり他人の考え(あるいは資料)を書くときには、そうはいかない。

  他人の考え、つまり他人が言ったことや書いた事は、自分のものではないから、注をつけて書くのである。他人の意見は、どんどん利用してよいが、自分の意見ではないのだから、他人の意見にプライオリティ、オリジナリティがある。つまり優先権・独創さがある。そこで敬意を払って、誰の意見だということを記すのである。そうしないと盗作として訴えられる。

 それに、自分の意見と他人の意見を区別することは必要である。またそれを書き手は知っている。だから区別はできる。

  利用する資料もそうである。資料はほとんど他人が捜したり考えたり書いたりしてくれたものである。だから注を付す。

 こうして学術論文では注を書くことになる。

  その上、注があれば、後の人々が研究をしやすくなる。注によって、資料の所在が分かるからである。

  注には2種類の書き方がある。全文を文字通り引用する場合は、「 」で括る。文字通りの引用をしない場合は、「 」で括らない。ただし両方の場合とも、注を付す。注は、例えば印刷物であれば、利用した資料のページ数まで明示するのである。

単純な例

[本文]

    ・・・・・・「・・・・・・・・」(3)・・・・・・・・・・・

[注の部分]

     (3) 著者『書名』出版社 発行年 ページ数

 (1) 学術論文の詳しい書き方については、斎藤孝『学術論文の技法』日本エディタースクール出版部。

    小樽商科大学の「教授要綱」には毎年、卒業論文の書き方が載っている。

あとがき

 本書は、はじめ、「文章論」と題して、『人文研究』(小樽商科大学)第84しゅう、19928月に載せたものである。それを加筆・増補した。

 この論文は、小生の授業実践の中から生まれたものである。しかし論文化するさいに、その実践の背景を消さざるをえなかった。そこでその背景を少し述べる。

 小生は、主に大学1年生に、1つの授業をしているが、その際、論文を課してもいる。そこで学生の書く文章に関心を持ったのである。

 1、何人かの学生と、文章について話をしている時、彼らが文章を書くことに恐れをもっていたことを私は知った。彼らは小学校以来、普通の文章や説明文ではなくて、小説や名随筆の方を理想の文章だと思っていた。また先生にそう思い込まされていたので、文章がうまく書けないと思っていたのだった。これは小学校以来の、国語・作文の授業の悪影響である。これは、小生の経験とも全く一致していた。

  学校を卒業しても、普通の文章を書く生活が始まるのが一般的であって、小説や随筆で生活する人は滅多にいない。だから、美文・名文つまり、ここで言う表現文を書く必要はないのである。サラリーマンになって、業務報告を書く必要は生じるかもしれないが、詩は書かなくても大丈夫である。

  小学校からの教育では、先生がたは普通の文の書き方を教えるべきであろう。つまり、論理の筋が通る文を作ること、客観的な文を作ること、主語がどれだかよく分かる文を作ること、改行の仕方、点の打ちかた、修飾語の順番を、教えることが大切である。これらを教え訓練することによって、普通の市民生活・職業生活をうまくやってゆけるようにするのが、学校の最大課題である。少なくても義務教育時代ではそうあるべきである。小説、詩、随筆は、余裕と興味、能力がある人が書けばよいであろう。しばしばその種の講座や学校が開かれている。

  日本で普通の文章の書き方を教えている組織は、新聞社だけであって、記者はそれを学んでいる。ただしこれは、新聞向けの独得の文章である。それ以外では、そういう組織は余りないだろう。

  以上の大切な処方は、ほとんど日本の学校で、小学校から大学まで、事実上教えていない。しかしこれーー普通の文章を書く技術ーーーは、市民・国民として重要で基本的なことではないのか。これに気が付いた。

 2、実際に、学生が論文を書く場合、普通文の基本・理想である「AはBである。」という文を、彼らはなかなか書かない。その理由は2種類ある。

  先ず、「です」調とか、「ます」調で、書く人がいる。次いで、主観的文が多い。例えば、「AがBである、と私は思う。」の類である。最近多いのは、「AがBである、という気がする。」である。2重否定も多い。そして曖昧表現が重なる。結局、「AがBである、のではないかという気がしないでもない。」などということになる。

  「AはBである。」と言い切れないのは、国民性にもよる。

  この点は本書でも論じたところである。

 3、その他、例示しきれないのだが、レポートの標題を書かない、目次をつくらない、原稿にナンバーリングはしないなど、色いろある。

 4、大学1年生は、まだ注の付け方を知らない。したがって、学術論文が書けない。だがこれは仕方がない。この指導は、大学で行う任務だからであり、1年生はまだ教わっていない。また高校以下では教えていない。

 そこで小生の授業では、注の付け方も教えている。一般に大学では、注の付け方を教えないで、学生が自分で習得するものだとしている。昔はそれでもよかったのだ。

  種々の文章講座が日本中で開かれている。しかし多くは、芸術文、表現文を作る講座が多い。名文、美文を作ろうとか、俳句・短歌の講座である。これらは大変結構なことである。だが、国民教育として、普通文の教育がないのは大変な片手落ちである。

 国語研究所の、私が尊敬する研究者が、本書を読んで、怒った。ここで書いてある類いのことは我々はすでに一生懸命研究している。ただしこれが教育現場で教えられているかどうかは分からないし、教えられているはずだと思う、と。

 だが私は、30年以上、毎年200人の学生に問い合わせをして来たが、こういうことは教わらなかったというのである。

資料

 『北海タイムス』19931114日に、つぎの記事が載ったので再録してみよう。

「大学生の筆力低下

合同教研全道集会

樽商大の教授報告「小・中・高で指導不足」

 読点や改行といった文章の基礎を知らず、文章を書くのに頭を抱えている大学生の実態が()13日の『’93合同教育研究全道集会』の分科会で報告された。

 報告者は()「小・中学校、高校で文章指導がなおざりにされ、大学がそのつけを背負わされている」と()渋い顔付きだ。

 報告したのは小樽商大商学部の倉田 稔教授。

 担当している「社会思想史」の講義で()10数年前から論文の提出を課している。「卒業論文が書けない」「筆を握るのがおっかない」など卒論での学生の悩みが()そもそものきっかけだ。

 論文は、成績には関係がなくテーマも定めていないが、200字詰め原稿用紙で60枚とかなりの筆力が要求される。受講の学生は9割が1年生で、倉田教授は「文章の書き方」「原稿の書き方「論文の書き方」といった文章作法を伝授している。

 しかし、出来上がった論文は文章のあらが目立ち、とくに学術論文でもとめられる「AはBである」といった客観的なストレートな文章は書けず、「AはBではないかと思う」といった主観を交えたもたもたした表現が多いという。「客観的文章と主観的文章の区別の付かない学生もいる」と倉田教授。

 さらに、読点の付け方や改行の仕方を知らなかったり、論文の標題や原稿のナンバリングを忘れる学生もいるとか。講義は約400人が受講し、論文提出者は300人に上がっているが、このうち2割ほどは不完全で、書き直して再提出させている。論文のテーマは環境や政治問題など硬派なものが多く、社会への関心は低くはない、という。

 倉田教授は()「学生に筆力がないのではなく、教えないだけ。特に小、中学校の指導で学生はエッセーのような美文でなければ文章ではないと錯覚している節がある。まず普通の文章をしっかり書かせる指導を徹底してほしい」と呼び掛けている。・・・・・・・」

   (注)この所はテンを入れたいものである。新聞記者もあまり点の打ち方には意識がない。大新聞での記者の文章を見ても、点の打ち方が間違っている場合が少なくない。

  この記事はもちろん、新聞記者氏が書いた物である。標題にあるような「・・・筆力低下」とは、私は言っていない。「低下」だとすると、以前は筆力があったように思われる。低下したのではなくて、もともとなかったのだ。一部の学生さんたちは、個人的な努力によって筆力をつけていたのである。

参考文献       

    丸谷才一『文章読本』中公文庫       

   別宮『日本語のリズム』

   岩淵『悪文』講談社現代新書

   千早『悪文の構造』木耳社 

   人生読本『文章』河出書房新社

      岡崎洋三『日本語のテンの打ち方』

      渡辺『朝鮮語のすすめ』講談社現代新書

   川端康成『新文章読本』新潮文庫

    「文章読本」『谷崎潤一郎全集』第21巻(中央公論 1958年)

    谷崎「現代口語文の欠点について」同上

    木下『理科系の作文技術』中央公論 

    本多勝一『日本語の作文技術』朝日新聞社 1982年 

    清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書

    向井敏『文章読本』文春文庫 1991

    沢田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫。

    金田一春彦『日本語』岩波新書 

    平井昌夫『文章を書く技術』現代教養文庫 1974

    沢田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫 

    沢田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫゙

   『レポート・小論文・卒論の書き方』講談社学術文庫 

    グロースタース『誤訳』三省堂 1969

    三好弘『英語翻訳のコツ』朝日出版 1984

   安西徹雄『英語の発想』講談社現代新書 1987

    斉藤孝『学術論文の技法』日本エディタースクール出版部

         その他、本文注を見よ。

著者紹介

小樽商科大学名誉教授

経済学博士(慶大)