補論(現代中国の政治家、毛・ケ・江・胡)
 
毛沢東の官僚制観
 
  拙稿における毛沢東の官僚制に対する考え方について、説明不足の点について、指摘があった。毛沢東は、自分に対して諫める意見を述べる官僚を望まず、自分に対して忠実で逆らわない官僚を求めた。そこで、中ソ関係を軸に大きく2つの時期にわけて考察する。
 @スターリン期の毛沢東
 まず、王明(1904ー1974)について考察する。コミンテルンに忠実で理論派の論客であった王明を、日和見主義者として、毛沢東は失脚させた。スターリンの意向とコミンテルンの方針に沿って中国共産党の政策を具体化させた人物として、王明は知られている。しかし、1943年にスターリンが国際主義から一国主義への転換としてコミンテルンを解散したことに象徴されるように、王明は、毛沢東ばかりでなくスターリンにも裏切られたと衝撃を受けた。王明は、共産主義の理想の挫折に直面し、懊悩した。結局、1956年以降ソ連に在住し、毛沢東や文革を激しく批判するも、モスクワで客死した。
 スターリンは結局、独裁者志向であり、毛沢東と一面共通する側面がある。毛沢東は、コミンテルン解散については建前上は反対するものの、実は中国を治める上でむしろ都合がよかった。毛沢東は、都市からの革命でなく、農村からの革命を志向していたので、中国の実状にあわない指令を出すコミンテルンは不要であった。コミンテルンの権威をかさにした意見する官僚を排除するのにも都合はよかった。そして、国際革命でなく一国革命という路線転換はまず、とにかく中国を治めたい毛沢東にとり福音であった。
 スターリンは毛沢東をマーガリン共産主義者として見下していた。毛沢東は、自分を侮蔑するスターリンを我慢しつつも嫌っていた。グルジア人であったスターリンは、ソ連はヨーロッパに属し、アジアに対して優越するものとして考えていた。ロシアの歴史からして「タタールのくびき」と称されるモンゴルの長い支配による恐怖と屈辱が存在する。アジアに対して優越していたいという願望を有していた。
 余談であるが、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石の方を人物としては高く評価していたきらいがある。蒋介石の方が毛沢東よりもヨーロッパに対する理解があると考えたからだ。宋美齢との結婚目的のにわかクリスチャンとはいえ、ヨーロッパ思想に対する理解がありそうと考えた。また、イタリアのファシストに憧れ「黒シャツ隊」を模して、「藍衣隊(青シャツ隊)」を創設したように、自分のような独裁者を理解し、心服しそうであると考えていた。極論をいえば、スターリンにとり、自分の治めるソ連に敵対しなければ、中国の指導者は誰でもよかったのだ。
 一方の毛沢東に対しては、マーガリン・コミュニストとして蔑視するのみではなく、東洋の専制君主を髣髴させるカリスマ性を有することに関する警戒があった。毛沢東は譬えてみれば、北宋以来伝統の皇帝独裁による官僚支配を志向していたので、スターリンのいぶかりはあながち的外れではなかった。スターリンとて、中国に関する情報はコミンテルンや外交筋などから得ているので、根拠薄弱なでたらめな偏見として断ずることはできない。
 他方、アメリカの評価は、蒋介石よりも毛沢東を評価する傾向がある。アメリカは日中戦争および国共内戦時に、軍事顧問団を幾度も派遣するものの、蒋介石が戦闘する気概を示さず、アメリカの援助に依存する姿勢から、不信感を有していた。第二次世界大戦期のスティルウェルに至っては、毛沢東の紅軍の方が余程勇敢に日本軍と戦闘しているとして公然と蒋介石批判をし、解任される事例まである。また、国共内戦期を分析した『中国白書』でも、蒋介石の国民政府の腐敗ぶりを批判する記述がある。後のベトナム戦争でも南ベトナム政府の腐敗も同程度あり、アメリカの軍事援助失敗の歴史が繰り返されたことになる。
 毛沢東については、エドガー・スノーやアグネス・スメドレといったジャーナリストや、オーエン・ラティモアといった中国研究者など、知識人の評価が高いことが有名である。小生の私見であるが、アメリカ人は、歴史上王政の経験がないために君主の権威に弱く、無邪気に信用したり、憧憬の念を抱く傾向にある。第二次世界大戦後をみても、カンボジアのシアヌークを擁護したことをはじめ、原油がらみとはいえ、イランの王制打倒に対する嫌悪感も相当存在する。また、ブルガリアやアフガニスタンでも、機があれば、王族を担ぎ出そうとする傾向がある。ちなみに藤村信『ヤルタ会談』(岩波書店)によれば、フランクリン・ルーズベルトは、ソ連側の用意した王宮を思わせる迎賓館での滞在で骨抜きにされるほどの待遇に満足し、スターリンの意見に疑問をはさまなくなっていった。それをチャーチルは苦々しく思いつつも、大国間のバランス調整に懸命だった。また、天皇について国際世論が戦争責任を問うべきとする意見が大勢を占める中、アメリカは日本の単独統治に都合がよいとして免責した。アメリカ人にとり、いざとなると君主を処刑することへの抵抗感が少なからずあったのであろう。それで日本人に恩を売る形で天皇を免責したという心理的側面を想像する。
 Aフルシチョフ期の毛沢東
 1956年にフルシチョフによるスターリン批判がなされた。中国共産党は当初、個人崇拝を行ない、党の民主集中制に違反したことは認めつつも、スターリンの全面批判には賛成しなかった。「七三開」、つまり、肯定面7割、否定面3割と評した。これは毛沢東の死後、中国で一般的とされる評価と同様である。もっとも毛沢東にとり、フルシチョフはスターリン以上に許せない存在であった。特に、個人崇拝を否定し、官僚の意見を取り入れようとする姿勢は容認できなかった。「皇帝」としての毛沢東の自己否定に通ずるからである。毛沢東はフルシチョフを修正主義者として批判した。
 中国国内では、劉少奇を「中国のフルシチョフ」として批判し、文革時に迫害した。劉少奇は、大躍進政策による経済上の混乱を収束させた。実務能力が高く、官僚の代表としても毛沢東に意見できる実力があった。ナンバー2どころの実力では収まらないとして、毛沢東は劉少奇を警戒した。また、劉少奇夫人・王光美は、英語が堪能であり、国家主席だった劉少奇のファースト・レディとして有能であった。かつての蒋介石と宋美齢のように国際世論を背景に毛沢東打倒の旗頭になりかねないとして憎悪まであったと推察する。