翻訳の技法

                                      倉田 稔

 はじめに

 

 『学世と社規人のための文章読本』(丘書房)という小冊子をだし、第一版、第二版はほぼ同じで、第三版は本研究所から出したが、そこでは翻訳の技法をカットした。そこで、その部分をここで出しておこう。

 

 「翻訳の技法」を論ずる。ただし、人によっては、「5、ある翻訳実践」を飛ばして読んでも結構である。

 ここで扱った理由はこうである。日本の学術的書物が翻訳文化の影響をうけており、またそのために、日本語がその影響を受けている。日本人のこの独得の日本語=翻訳語は、多くの場合、悪い文、明解でない文、わかりにくい文であるから、ますます良くない日本文を作っている。だから、既存の訳文の悪い影響を受けない方がよいという理由から、ここで論ずるのである。

  外国語の良い言いまわしは、学んでもよいし、輸入してもよい。しかし外国語の悪い翻訳を少しでも追放し、あるいは改善したほうが、分かる日本語文章を守り育てるためにはよい。

 

  外国語を日本語に翻訳する場合に、大きな問題がある。第一は、言語の違いである。外国語と日本語とが、文法・単語・熟語・言い回し・文化などで違うことである。違っているものは違っているのであるから、これは論じないでおこう。

 第二は、翻訳者の問題であり、換言すれば、日本の教育制度の問題でもある。 日本では翻訳者は、普通、日本の学校で外国語を学んで翻訳技術を修得するのだが、そこに大問題がある。日本語らしい翻訳をするということは大学では系統的には教えない。外国小説類を訳す職業的な人には、うまい人が多い。しかし、学術的な作品を訳す場合に、訳す人には、多々問題がある。誤訳・不適訳・悪訳をするという事情である。

  グロースタースは言う。翻訳では、原文の思想を分析するべきである。そして外人の協力が必要である。訳文に余分のものを付け加えると、よい場合がある。文化的環境の違い、例えば、風俗・文化・生活によって、誤訳が生じる。重訳は無意味である。慣用句で誤訳しがちである、と(79)

 ここでは誤訳問題は論じないでおこう。これはむしろ翻訳者本人に原因がある。それに誤訳の問題は、別宮貞徳『誤訳』などで述べられているからである。

 ここではだから、不適訳・悪訳を問題にしよう。これらはほとんど、日本語らしくない日本語にしてしまうことから生ずる。

 「・・・原語[=外国語]ができるもの 必ずしも日本語ができるとはかぎらない。日本語ができない、あるいはこれまでの日本語とは違った日本語を駆使する訳者がふえて、その訳文が次第に通用するようになった。」(山本夏彦)だがそれらの訳文は、通用しているかどうかは分からない。なにしろ、意味が分からないから、通用しないことがある。しかし権威のある指導的学者の翻訳は、その専門分野では流布することがある。

 「このごろ日本語についてしきりに言われるが、翻訳文の影響というより支配について言われることは少ない。・・・これが国語に及ぼした影響は漢籍に次ぐのではないか・・・。」(山本)おそらくそうである。ただし、漢文的表現はかなり日本語的になっている。「漢文脈は長くわが国の文章の脊梁をなしてきた文体である。」(80)欧文翻訳文の影響が問題である。

  外山は言う。「一般に翻訳の日本語が生硬、難解であることはすでに定評がある。一度読んで意味の通らないことなどすこしもめずらしくない。」(81)「非論理どころかまるで意味をなさない部分もあるのだから、これを日本語とか言葉とか言えるかどうかすら疑問である。」手きびしいが、事実である。

  日本語らしい翻訳が出来ないわけは、翻訳者が、外国語の知識がない、日本語の知識がない、外国文化を知らない、外国語文法に頭脳が埋没している、日本語を軽視・軽蔑している、ということである。しかしそれは、条件であり、本質的ではない。あるいは、個人的問題である。むしろ、1、日本語らしい訳をする技術のなさ、2、翻訳技術教育のなさ、3、日本人の律儀さによる心構えのなさ、が理由である。ここで、1、2が、決定的である。この作業は自覚した個人によって行われているだけである。英語で言えば、中学校から大学まで、これを教育家(英語科の教諭)は意識すべきである。

  この3つに加えて、おそらく一番本質的な理由は、後述するが、翻訳者が日本語の論理でなく外国語の論理で翻訳してしまうことである。その際、全く日本語でない文章が横行している。

 

  ここでは外国語を、さしあたり主に、英語としておこう。そして技術を高めるために、経験則を摘出しておかなければならない。

 

 (79) グロースタース『誤訳』三省堂 1969

 (80) 向井、167ページ

 (81) 外山滋彦『日本語の論理』中公文庫 1991 9ページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1、単語

 

  ある外国語Fと、その訳語とされる日本語Jとが、一般的には守備範囲が違う。

 

                  ・・・・・・・・・                                 

        ・・・・・・・・                                           

                                                             

            F ・ ・ J                                       

                                                             

                ・・・・・・・・・                                 

        ・・・・・・・・                                             

 

  ある語Fがそのまま全く語Jに等しいという語は、ほとんどない。両者は、ずれている。このため、辞書に適訳がない場合が多い。言葉はその国の文化・社会と結び付いているので、そうなるのであり、当然である。ここから不適訳その他が生じる可能性がある。

  次に、日本に入ってきた欧米訳語は、日本語としては奇異な訳語、新語、造成語が多い。したがって字引だけには頼れない。それらは概して抽象的であり、意味は分かっても日本人にはピンとこない場合が多い。

 

2、直訳・意訳

 

  日本では直訳が、外国では意訳が多い。どちらがよいであろうか。直訳はよくないとされる。だがそれでは、意訳はよいのだろうか。少なくとも、悪くはない。さて、日本人が直訳をするのは、日本人の律儀さにもよるし、翻訳技術のなさにもよる。しかし、直訳を全部排除する必要もない。意訳も悪くはないが、よいわけでもない。一番よいのは、日本語らしい分かりやすい訳をすることである。

  最近、そのための本がいくつか出ている(82)。さすがに、日本でも矛盾が意識されてきたのである。

 

 (82) 三好弘『英語翻訳のコツ』朝日出版 1984年;安西徹雄『英語の発想』講      談社現代新書 1987年、などである。

 

3、語順・配列

 

 井上ひさし は、戯曲「花子さん」で、言語不当配列男を登場させている。

 

[言語不当]配列男 「・・・それで、わかりますか、言っちまったのを、言 うつもりで、しまったと、しまった巾着と。ください、かんべんして。でき ない、あたしゃ、しか、こんな言い方。だろうなあ、わからねえ・・・」

  外国語は実は、この言語不当配列男そのものなのである。これに答えて、登場人物である「内訳」(うちわけ)さんが言う。

 「わかりますよ。分析すると英語の構文に似てますもの。」(83)

 

 だから、外国語をそのまま日本語に移しかえたら、とんでもないことである。しかし、この言語不当配列男と同じことをする男女が、日本では絶えないのである。そういうわけで、外国語を日本語に代えるときは、思い切って、めちゃくちゃに語順を変えて、日本語的にしてしまうことができる。

 

  外国語の翻訳があまりにも形式的でありすぎた、と外山は批判する。(84)つまり、単語や成句に訳語を与えて、語順を日本語風に変えてやれば、それで翻訳になるという考えである。結果として生まれる翻訳は、日本語ばなれしたものになるが、そうかといって外国語を忠実に反映もしていない。

  さらに、西欧の言語が名詞中心構文であるのに、日本語は動詞中心の性格が強い。外山は例をあげる。

 「この事実の認識が問題の解決に貢献する。」ーー名詞構文

 「これがわかれば問題はずっと解決しやすくなる。」ーー動詞構文(85)

 

  上の文は、外国語を無思慮に引き移したものである。日本語ではなく、日本語の化け物であろう。しかし、普通はこうやって翻訳されている。

 

 (83) 井上ひさし「花子さん」(『国語元年』新潮文庫 1989年)182 ページ

 (84) 外山 10 ページ

 (85)  11ページ

 

4、分からなさ

 

  谷崎は、外国文と日本文の違いに及んで言う。外国語の構造は日本語のそれと違う、だから「多くの語彙を積み重ねても意味が通じる。日本語はそうではない」、と。この発言は疑問である。しかしそれは、ここでの問題ではないので、見過ごそう。彼は言う。問題は、学問に関する記述である、と。「これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。」 

  そこで谷崎は、自分の経験を述べる。「私は、しばしばドイツの哲学書を日本語の訳で読んだ事がありますが、多くの場合、問題が少し込み入って来ると、分からなくなるのが常でありました。そうしてその分からなさが、哲理そのものの深奥よりも、日本語の構造の不備に原因していることが明らかでありますので、中途で本を投げ捨ててしまった・・・。」実際は日本語の問題ではなく、訳者の訳し方の問題なのである。ついで彼は言う。「私はよく、・・・一流雑誌に経済学者の論文などが載っているのを見かけますが、ああいうものを読んで理解する読者が何人いるであろうかと、いつも疑問に打たれます。」全くそうである。「それもその筈、彼らの文章は読者に外国語の素養のあることを前提として書かれたものでありまして、体裁は日本文でありますけれども、実は外国文の化け物であります。」(86)

 本多は、わかりにくい悪文の例はよく翻訳に見られる(87)、という。だから翻訳文を検討したい。

 

 (86) 谷崎「文章読本」

 (87) 本多、32ページ

 

5、ある翻訳実践

 

 実際に翻訳して、経験則を幾つか出す必要がある。テキストとして、ジョン・ステュアート・ミル『自由論』(岩波文庫)を取り上げよう。その理由は、同書が内容の素晴らしい本であり、出版社も一流と言われ(88)る。さて私は、日本の翻訳教育の貧困と、伝達技術の日本的拙劣さ、そして経験準則の摘出に都合がよい、という理由から、これをとりあげる。

 まず、この本を開いて読み出して、びっくりした。なにしろ訳文がきわめて悪いのである。とんでもない難しい日本語になっており、そのために日本語ではないという境地に達している。

  その証拠に、初めのミルの序文から引用してみよう。

  「もしも私が、奥津城深く葬り去られた彼女の卓越した思想と高貴の情感とを、たとえその半ばでも世間に説明できるのでありさえするならば、」−−−と、難しいが、実はここまでは比較的分かりやすい。しかし次の文は、二、三回読んでも分かりづらい。こう続く−−−

 「私は、ほとんど無比とも言うべき彼女の叡知の激励と助力を得ることなしに私の書きうるところの、いかなる著作からおよそおこりうる可能性のある利益よりも、さらに優れた利益を私は世間につたえるための媒介者となりうるであろうに。」(5 ページ)

  問題は、こういう類の訳文が連続していることである。日本中で、こういう訳文や学術的文章が横行している。

  ミルもびっくりであろう。まずいのは、こういうことで社会的に害悪が生ずることである。それらは次のことである。

 1、読者はミルの思想が分かりにくいので、本を放り投げてしまう。

 2、読者は余分なエネルギーを使う。

 3、折角のミルの思想が広がりにくくなる。

 4、当分ミルのこの本は出版されない。

 

  さて第3章の一部分をとりあげよう(89)。 原文、木村訳、改善作業、試訳、という順に進んで行く。

  まず、章題から(90)

 

(原文) Of Individuality, as One of the Elements of Well-Being

 

(木村訳)「幸福の諸要素の一つとしての個性について」

 

(検討)日本語には、複数表示・多数複数の区別は、例外はあるが、普通はない。「諸・・・」は、英語が入ってきて知識人が利用したものである。これを使わない手はないのだが、あまり使わない方がよい。使わなくても分かる時は、使わなくてもよい。次に「諸・・・の一つ」というのも、日本語にはない。

  ここにはないが、よく出て来るのは、one of the best ・・・という表現である。ベストは最上級で、「最も・・・」と訳すように教わっているが、それが矛盾することが分かる。というのは、最も・・・というのは、1つしかないはずである。それなのに、複数である。最もよいものが沢山あるというのは、おかしい。best most  ・・・est は、最上級の時もあれば、そうでない時もある。だから訳す時は、たとえば玩具であれば、「最もよい諸玩具のうちの1つ」とはしないで、「とてもいい玩具」「ずいぶんいい玩具」とすべきだろう。

 

(試訳1)「幸福の一要素としての個性について」

 

(検討)「について」も、章題としては、取ってもよさそうだ。

 

(試訳2)「幸福の一要素としての個性」

 

(検討)英・米国人は、英語を頭から読んで行き、理解する。日本人でも、日本文を行ったり来たりして読まない。これと同じように、前から後へ順にそのまま理解するとしたら、「個性」から始まる。語順はすべて生かしきれないが、なるべく語順を生かそうとしたらそうなる。

  語順不当配列男の例を思い出したい。英語あるいは外国語は、日本語から見れば語順配列男なのだ。この文例でやってみると、まことにそうだということが分かる。つまり:

「について、個性、としての、一つ、の、要素、の、幸福」である。日本語にするには全語並べ代えをしなければならない。さて、そこで並べ代えしなくてもよい箇所がある。それは「一つ、の、」である。これは日本語の順である。

だから、これからは、one of  は、従来の「・・・のうちの1つ」というような非日本語でなくて、「1つの」という日本語でやってみたい。

 

(試訳3)「個性は、幸福の一要因である。」

 

(原文)SUCH BEING THE REASONS which make it imperative that human

 beings should be free to form opinions, and to express their opinions without reserve;

 

(木村訳)「人間は自由にその意見を構成し、また自由にその意見を腹蔵なく発表しえなくてはならぬ、ということが絶対に必要であるという理由については、以上述べたとおりである。」

 

(検討)「人間は」の「は」は、従属節の中だから、「が」にした方がよい。

 「その意見」の「その」は、分かりきっているので、カットしてみたい。

 「構成し」は、大袈裟である。

 「自由に」は、二度言う必要はない。それに原文にもない。

 「発表」のすぐ前にその目的語を置くべきである。目的語+動詞の間に無理に副詞をいれる必要は全くないのである。ただし副詞が目的語よりも動詞に強く関わっている場合は、もちろん違う。この場合は文章が短いので、余り問題はないかもしれない。

 「しえなくてはならぬ」は、古いし、複綜している。

 「という」が二度も来ているのは、美しくない。

 「理由については」の「ついては」は、日本語特有の便利な「は」を用いよう。

 

(試訳)「人間が自由に意見を持ち、また腹蔵なく意見を発表することが、絶対に必要だ、という理由は、以上で述べたとおりである。」

 

(原文) and such the baneful consequences to the intellectual, and

 through that to the moral nature of man, unless this liberty is

 either conceded, or asserted in spite of prohibition;

 

(木村訳)「また、この自由が認められるか、あるいは、この自由が禁止を冒しても主張されない限りは、人間の知性に対して、またそれを通して人間の道徳性に対しても、いかに有害な結果がもたらされるかということについても以上述べたとおりである。」

 

(検討)この文は難しくて分からない。そして「認められる」は、誤訳であり、誤解の可能性があり、文意が通じない。「認められるか」ではなく、原文では反対に「認められなかったり」である。

 「また」が二度でてくるから、そのうちの一つを、「そして」にしよう。

 どうしても受動態でなければならない時以外は、受身を能動に変えよう。英語やドイツ語は受動態が好きである。日本では能動の方が受身より理解しやすいのである。

 「限りは」は、分かりにくいので、なるべく少なくするべきである。

 「に対して」が二回も続く。

 「もたらされるかということについても」も、余りにもくどい。「もたらされる」「ということ」「についても」は、それぞれ、もっと簡単に言える語である。

 

(試訳)「そして、自由を認めなかったり、禁止されても自由を主張しなかったならば、人間の知性と、それによって人間の道徳に、有害な結果が生ずることも、以上述べたとおりである。」

 

(原文)let us next examine whether the same reasons do not require

  that men should be free to act upon their opinions -----

 

(木村訳)「そこで我々は次ぎに、同じ理由によって人間は、自己の意見を実行する自由をもたねばならないではないか 、という問題を検討することにしよう。−−−−

 

(検討)「我々は」は、あまり日本人は使わない。日本語は主語を持たない場合が多い。だから主語がなくてもよい場合は省こう。ただしそれは、人称代名詞のときである。

 「もたねばならないのではないか」も、長すぎである。「することにしよう」も同様である。

 

(試訳)「そこで次に、同じ理由によって人間が、自分の意見を実行する自由を持つべきではないか、という問題を検討しよう。」

 

(原文)to carry these out in their lives, without hindrance, either

 physical or mortal, from their fellow-men, so long as it is at their  own risk and peril.

 

(木村訳)「但し、ここにいう自己の意見を実行する自由とは、自分自身の責任と危険とにおいてなされる限り、同胞たちによって肉体上または精神上の妨害を受けることなく、自己の意見を自己の生活に実現してゆくことの自由である。」

 

(検討)「自己」「自分自身」は、特別の用語以外は、「自分」としたらどう か。

 「とにおいて」は、くどい。「で」で十分である。

 「によって」も、「から」で十分。

 「肉体上、または精神上の」も、「肉体上・精神上」くらいにしよう。

 「または」というのは、厳密に法律上の用語としては必要だが、長い文章では、省いて、中黒にした方がよい。

 「受けることもなく」も、硬い。「受けないで」くらいにしたい。あるいは、前に「妨害」があるので、「に妨害されないで」くらいにしたい。

 この訳者に長所がある。名詞を動詞的に訳している点である。英語は何でも名詞化してしまうのが好きである。ドイツ語はもっと多い。日本語は動詞的表現が多い。だから名詞を動詞化して訳すと成功する場合が多い。

  「自己の・・・自己の・・・」も、後者の「自己」は、なくても分かる。「実現してゆくことの」も、長すぎる。「してゆくことの」は、もう、日本語ではない。

 

(試訳)「ここでいう、自分の意見を実行することとは、自分の負う責任と危険を覚悟すれば、同胞たちから肉体的・精神的に妨害されないで、自分の意見を生活に実現することである。」

 

(原文) This last proviso is of course indispensable. No one pretends   that actions should be as free as opnions.

 

(木村訳)「『自分自身の責任と危険とにおいてなされる限りは』という条件は、いうまでもなく、欠くべからざるものである。何びとといえども、行為が意見と同様に自由でなくてはならない、と主張するものはいない。」

 

(検討)be 動詞に、すぐ補語が来る場合は、「するものである」とすると、長くなる。「もの」を取ろう。

 

(試訳)「『自分の負う責任と危険を覚悟すれば』という条件は、もちろん、欠くことはできない。誰も、意見と同じく、行為も自由であってよいとは、主張しない。」

 

(原文) On the contrary, even opinions lose their immunity, when the  circumstances in which they are expressed are such as to constitute

 their expression a positive instigation to some mischievous act.

 

(木村訳)「むしろ反対に、意見ですら、それを発表する時の事情によって、その発表がある有害な行為に対する積極的な扇動となるような場合には、その免罪性[自由の特典]を失うのである。」

 

(検討)「発表」が二度出ているが、一度で足りる。

 「扇動」を動詞的に訳そう。

 「・・・ときの事情によって、」とか、「・・・の場合には」と、同じ表現が重なって、くどい。

 

(試訳)「それどころか、意見でさえ、発表したら有害な行為を積極的に扇動することになる場合は、その特典を失うのである。」

 

(原文) An opinion that corn-dealers are starvers of the poor, or

 that private property is robbery, ougut to be unmolested  when simply circulated through the press, but may justly incure punishment when

 delivered orally to an excited mob assembled before the house of a

 corn-dealer, or when handed about among the same mob in the form of a placard.

 

(木村訳)「穀物商は貧民を餓死させるものであるといい、あるいは私有財産制度は略奪であるというような意見は、単に出版物を通じて流されるときにはこれに干渉すべきではないが、ある穀物商の店頭に集合している興奮した暴徒に対して口頭をもって述べられる場合、もしくは同じ暴徒に対してプラカードの形で渡される場合には、当然に処罰の対象となりうるであろう。」

 

(検討)「もの」は、人のときは「者」にしよう。

「あるいは」とは「もしくは」は、文を間延びさせる場合が多い。

「ような」は、ない。

「・・が」は、便利だが、複数の文をつなげてしまい、そのため長くしてしまい、分かりにくくする。だから長い文では、「・・・・・・が、」を「しかし、」とした方がよい。

 「ある穀物商」の「ある」は、取ってもよい。「場合・・・場合・・・」も、法律を読むようである。

「なりうるであろう」は大袈裟である。特に「うる」がそうである。

 

(試訳)「穀物商は貧民を餓死させる者だとか、私有財産制度は略奪である、という意見は、出版物で流されるだけなら、干渉してはいけない、しかし、穀物商の店頭に群がって興奮している暴徒に、口頭で意見を述べるとか、その暴徒にプラカードを手渡す時には、当然その意見は処罰してもよい。」

 

 (88) 訳者は、塩尻公明と木村健康とある。前者は神戸大学教授であったらし   く、木村氏は東大経済学部の教授であった。前者が訳稿を作ったが亡く   なり、木村氏が訂正しながら訳を完成したらしい。後者はイギリス経済   学の権威である。そのように英語ができるはずの人がこういうことにな   る例として、ここで取り上げるわけである。

 (89)『自由論』の第1・2章でなく第3章をとりあげるのは、内容が比較的重   要であり、訳者が翻訳に慣れてきたのか、訳が少し良くなっているから   である。

 (90) John Stuart Mill, On Liberty, 1859. in: Collected Works of John

      Stuart Mill. Vol.18, London 1977, p.260

 

6 ある経験則

 

  このような短い文の検討だけでも、いくつかの経験則が出てくる。それらをまとめておこう。

 

1、「・・・の中の1つ」、「最も・・・・なものの1つ」は、外国語的なも  のなので、「1つの・・・」「とても・・・・なもの」くらいにしよう。

2、外国語文の順序どおりに訳すと、うまくゆく場合がある。あるいは順序を  全く並べ変えて、その中から日本語的な分かりやすい語順を発見する。

3、複数の「諸・・・」は、分かりきっている時は略してみる。

4、所有代名詞は、分かりきっている時は略す。

5、修飾する語を修飾される語に近づける。

6、日本語の独特の「は」を使おう。「については」とか「に関して」の時で ある。

7、受動態をなるべく能動態に変えてみる。

8、主語が必要でない時は省こう。ただし指示代名詞の場合など。

9、英語は名詞好きである。多くのことを名詞化する。ドイツ語はもっとそう である。だから逆に、日本語では動詞化して訳そう。形容詞を副詞にしたり もしてみよう。

 

7、違う仕組みの表現

 

  外国語、ここではドイツ語や英語を見るが、それぞれロジック・表現が、日本語とは違う。それを直訳しては、なんとなくすっきり分からない。意味は分かっても、頭の中で繰り返してみないとストンと腑に落ちない。つまり理解するのにとても時間がかかる。それでは困る。

 

  一番多い、いくつかの代表例。

 

  例1 <鹿の脚力の速さが、猟師の銃の前から、その命を助けた。>

 

  これは意味は分かるが、悪文である。そして分かってもスッキリしない。

 

  例2 <恐怖が彼女をそうさせた。>

 

  これも同じである。一般にドイツ語は、主語+他動詞+目的語の形が多い。

こういう文章は、日本語的ではない。だからそれぞれこうすべきである。

 

  例1 <その鹿の脚が速かったので、猟師の銃に撃たれずに、命が助かった。     >

  例2 <恐ろしかったので、彼女はそうした。>

 

  つまりドイツ語と日本語は文の仕組みが違うのである。その仕組みのまま日本語に移し代えても、まともな日本語にはならない。

  ドイツ語の再帰代名詞 sich も日本語的に表わすべきである。ドイツ語の

sich は、せいぜい日本語の助動詞「れ」程度である。

 

  例3 価値が自らを表示する。−−−−−>価値が表われる。

 

  外国語的文法とロジックを排除した方がよい。といっても、それは時代とともに流動する。

  例えば、1や3は、日本語的に変えた方がよいだろう。しかし2は、このままでもよいこともある。というのは、例えば、

  <何が彼女をさうさせたか>というのは、藤森成吉の小説・芝居の題名であるが、日本語にはなかったロジックである。日本語では、<なぜ彼女はそうしたのか>となる。しかし、前者の方が新鮮である(91)。時代によっては、外国文法が日本語を豊富にすることがある。もちろんそのためには、短い文でなくてはならない。そして大衆が分かるだけの水準・時代にきていなければならない。したがって、例2、恐怖が彼女をそうさせた、というのも、日本語として成り立つこともありうる。ただしこれは表現文の場合であり、ここでは伝達文を論じているのだから、あまり使わない方がよい。

  それ以外に

 1 ....so....,that....(...so...,da・....)

 2 ....too....to...

 3 ....enough....to...

 などもそうである。

 1では、<・・・・するには、あまりに・・・である。>あるいは、<あまり・・・・なので、・・・・しない(またはできない)>と訳しなさい、と学校では教わる。初めの訳は本来の日本語ではない。次の訳は日本語である。だから後者の方がよいであろう。だが、初めの訳も日本語的だと考えられるようになってきた。例えば、志賀直哉でさえ使っている。というわけで、外国語のロジックが、もしも理解をえられるならば、使うと面白いという場合もある。しかし文章の上手な人だけが行うべきである。

 なお外来語はどうか。これも同じで、国民的に使われる時はどんどん使ってもよい。だいたいあまり国粋的になる必要もない。日本語は古来中国からすでにずいぶん輸入されている語が多いわけだから。

 

 (91) 藤森は独文学を学んだ。だからである。「僕は、外国文学を勉強してお     りましたから、一種の直訳調のようになったんですね。そんな言葉はそ     れまで日本語になかったし、・・・新劇にそんな長い題名をつけたのは、     一つもなかったので、みんなあきれかえったようでした。ところがそれ     が、たいへんうけたもんですから、おかしなことです。」『昭和史探訪』     1 昭和初期、角川文庫 86ページ

 

8、  外国語辞書の訳語から離れる

 

  三好弘は言う。翻訳する時、「辞書の訳語に機械的に飛びついて」訳す人が多い。「そうした人に少し考えて訳すという習慣をつけてもらいたい。」(92)その立場で三好は、『英語翻訳のコツ』を書いた。辞書の訳語を機械的に借用して、字句を忠実に訳す方法は、「訳文が日本語として適当かどうかという問題までいくどころか」、それ以前に、「何を言わんとしているのかすらも分からないような訳になっていることだって、珍しくない。」

 「どのような訳し方にしろ、訳文が日本語としておかしいものは、訳文としてあまり好ましいものとは言えない。というのは、訳をする以上は、日本人の誰かに読んでもらうという伝達の問題があるからである。」これは訳文に限らない。日本語で文章を書くときは皆そうである。

 また翻訳する時、「このような時、日本語ではどのように言うのだろうか」(93)、と考えてみることが大切である。

  三好は、それにはまず、辞書の訳語と対決することをすすめる。「辞書の訳語はスペースの関係もあって、どの言葉でも、ほんの少しの訳語しか載っていない。」(94)「辞書の訳語にすぐ飛びついてしまうのでは、ありきたりの訳になってしまうのが関の山」(95)である。

  外国語を訳すということは、「ただ言葉をそのまま訳すだけでいいということにはならない。その意味を訳すことである。つまりそれに対応する日本語を考えてみることである。だから、訳というのは一種の言葉選びということになる。」(96)「日本語らしい訳というのは、訳が読者にすっきりとはいってくる訳で、しかも日本語として普通の言い方をしていることになる。そのためには辞書の訳語から離れることもやむをえない。」(97)

 

  (92) 朝日出版社 1987年、4 ページ

  (93) 11  ページ

  (94) 12  ページ

  (95) 13  ページ

  (96) 14  ページ

  (97) 16  ページ

 

        III    その他

 

1、 やさしい表現

 

  谷崎は、厳密な意味が必要でないときは、例えば、こうした方がいいという。

 

イ 私は彼に見られていることを意識していた。−−−>知っていた。

                          感じていた。

                          に気がついていた。

ロ 彼は意識的に反抗した。−−−>わざと;故意に 

 

ハ 彼には国家という観念がない。−−−>考え

          または 彼は国家ということを考えていない。(98)

 

  ここで出た言葉、意識・観念が、特殊学術的意味をもつのでなければ、そうした方がよい。

  次に、It means that.....  Es bedeutet, dass....)は、「それは・・・・を意味する。」であるが、外国では大好きな表現である。これは、「それは・・・である。」くらいにしてよい。

 

 (98) 谷崎、「文章読本」

 

 2、習慣的表現

 

 会話文の例がある。

   <「はい」と彼は言った、「そう思います。」>

 このように会話文の切断は、外国語の習慣である。日本語では:<「はい、そう思います」と彼は言った。> あるいは、<彼はこう言った、「はい、そう思います。」>である。日本語では、会話文を切断しない。(99)

 

 並列の「と」「そして」も、習慣のために、並びが違う。英・独語では、

      <山、谷、そして海>   

 and や und が、最後の語の前にくる。日本語では違う。

      <山、そして谷、海 >または<山、谷、海>または<山や谷や海>

 

 (99) 谷崎「現代口語文の欠点について」(同 全集)

 

 3、学術用語

 

 「イギリス人はアイディアという言葉を哲学の熟語として使えば、普通の会話の中にも使う。そういう風にわれわれの哲学も、われわれが日常口にするような砕けた言葉で云い現すことはできないだろうか。」(100)

  経済学では貨幣という語がある。英語圏とドイツ語圏ではそれぞれ、マネー money と ゲルト Geld である。それは日常でも学術でも同じように使われる。日本ではオカネ(お金)と貨幣との両方がある。前者は日常語であり、後者は学術語である。日本では、同じ対象が違う言葉で表現されることになる。これらの例は無数であろう。学問の先進国では一致しているが、それを輸入する後進国では言葉が二つできてしまうのである。つまり後進国では新語を造らねばならないからである。なるべく日常語へ移しかえるべきであるが、簡単ではないであろう。

  それになお、面白い現象がある。違った国から同じ対象が輸入されると、それが国の違いなのに、違った用語として作られる。例えば、カント(ドイツ)とサルトル(フランス)からの輸入の一例がある。

 カント哲学(101)の初めの概念は、「アンシャウウング」である。「直観」と訳されている。これは直感と誤解されるが、もちろん違う。「観」が違う。しかし誤解されやすいだろう。さて、サルトルの哲学(102)の初めとも言えるものは、「ルギャルデ」であり、「まなざし」と訳される。「アンシャウウング」も「ルギャルデ」も、「見る」あるいは「視る」である。同じものが、全く印象の違う概念として作られ、使用されてしまう。面白いというよりは、可笑しい。前例と違って、これくらいは統一してもよさそうだ。それに「直観」とは余りにもひどい。「視ること」くらいにしたらどうであろうか。しかし日本の哲学界は拒否するであろう。

 

  (100)

  (101) 『純粋理性批判』

  (102) 『存在と無』第1部

 

 4、長い文の切り離し

 

  欧文で、<私は、・・・・と思う。> I think that .... ;  Ich denke,

da ... など、(従属節).....の部分が長い時やとても長い時に、読み手は難しくなる。そこで、<私は思うのだが、・・・・・。>とか、<私は、こう思う、つまり・・・・・。>などのように、<と思う>を前にもってくるとよい。というのは、文が区分されて分かりやすくなる。

  関係代名詞の場合もそうである。英語では、関係代名詞の非制限的用法と制限的用法との2つがある。.......A, which is B.  ......A which is B.との2つであり、カンマがあるかないかの違いである。前の句は<・・・・A・・・、それはBである。>、後の句は<・・・BであるA・・・>と訳せ、と学校では教えられる。しかし短い文ではそれをやってもいいが、長い文の時は、どちらも非制限的用法で訳した方がよい場合が多い。文を聞いた場合は、どちらも同じなのだし、ドイツ語では皆コンマがつく。文法をしっかり守って訳すのは疑問である。それにその文法といっても、もともと日本で作った文法なのである。