序言

 ハインリヒ・ベネディクト『オーストリア家帝国』 の第2章のほとんどの訳業を
  わが研究所は、ここに贈る。注は訳注である。原文に小見出しはない。

Heinrich Benedikt,  Die Monarchie des Hauses Oesterreich
Verlag fuer Geschichte und Politik  Wien 1985

                                     松本利香 訳


U ハプスブルク帝国バロックの時代 

1.バロック文化

 ローマで誕生したバロック (1) は、トルコによる第二次ウィーン包囲の後に盛期を迎え、オーストリア特有の様式へと発展した。古代とルネサンス時代の古典的な建築様式は、その表現方法において静的な表現形態をとり、その後に続くゴシック時代の様式 (2) は、それに反して動的な表現形態が用いられた。バロックは、天上をめざしたゴシックの精神性とローマ期の建築概念とを統合させたものである。 ローマは、ローマ皇帝とローマ教皇の領地であるという地政的性質上、教会とローマ帝国にその芸術的形式を提供した。ウィーンのカールス教会は、ペスト終焉を祈るカール六世 (3) によってロンバルディア(4) の守護聖人カルロ・ボローメオ (5) に奉献された。ちなみにロンバルディアはその直前にカール六世が奪っていた。その建設にあたっては、ベルギーとナポリを含むすべての領地が貢納した。ローマ時代の建築概念を代表するローマの聖ピーター・ドームやコンスタンティン・バジリカ、ティトゥス皇帝凱旋門、皇帝記念柱ならびにヘラクレスの柱 (6)は、カールス教会の装飾に取り入れられた。カール五世 (7) が選択したこのような象徴は、バロックの特徴である天上を求めた躍動感で、皇帝のペスト撲滅の誓願を表現した。
 反宗教改革に勝利した教会と、対トルコ戦と豊かな領土を獲得して勝利したハプスブルク帝国は、宇宙を手中にし、その権力を表現するためにすべての芸術が動員された。バロックはその豊かな表現力を使って、神の意志を表す多声音楽を創造した。(8) 教会の中に生み出された調和の内に、俗世における教会と皇帝の存在が、神の意志によって決定されたゆるぎないものであることを証明した。バロックは幻想の芸術である。古典時代の教会建築で表現された天井は平坦であったが、ゴシック時代を経てバロック時代に入ると、そこには上方に向かって広がりをもつドームが導入された。バロック時代に 教会や王宮の祝祭の間を飾っていた天井画には、薔薇色の雲や 永遠を思わせる青空が描かれ、それを背景として 天使と聖人に取り囲まれた聖母マリアやオリンピアの神々が描かれた。バロック芸術の目的は、みずからを表現するという芸術の本質とは異なり、完全性や美というこの世に存在しない超然的な世界を、見る者の視覚に訴えかけるところにある。画中に描かれている金色に輝く太陽は、豊かな色彩と陰影で表現された天井画を支配していると同時に、教会と皇帝がその権力によって世界に君臨していることをも象徴している。各モチーフが、そこでは対立する存在としてではなく、独自性を保ちながらひとつの世界の中で調和をみせているのである。(9)
 オーストリア帝国は 多くの王国と領地から構成され、それぞれが歴史的には独立性を保持し、その支配者のもとで統一されていた。民族、身分、階級などの対立は、唯一、個々の歴史のある民族から構成される超民族的なオーストリアという屋根の下で仲裁された。
  ブレス (10) をサヴォイア公国家 (11) から奪ったアンリ四世 (12)は、その使節団を謁見した。その時にアンリ四世が語った名言を、歴史著述家ピエール・マテューが書き留めている。「君らはフランス語を話すからフランス国王の臣下であることは明白なことである。余は理解している。スペイン語を話すということはスペインに属し、ドイツ語を語るということはドイツに属することであると。しかしフランス語で語るものは すべて余に属するのである」。フランスの財務卿であったシュリ公爵は、『アンリ大王の国家の賢明で立派な理財』のなかで、大計画の起草とその大成功がアンリ四世に帰すものであることを 王の死後に記した。そのなかでは、あらたなヨーロッパ秩序から生まれた (13) の国家が形成するヨーロッパ統合の理念が示された。オーストリア家滅亡を目的とし、ハプスブルク家に代わって権力を掌握しようという欲望が、平和を装った衣で隠蔽された。ヨーロッパにおいて、同盟関係を結ぶ諸国の中から一国が傑出することを阻止するためには、勢力の拮抗する国からなる家族的国家の創造が求められる。そのため スペイン領ネーデルラントはオランダ議会に、秘密裁判長領地と前オーストリア所領地であるエルザスはスイスに、シチリアはヴェネチアに、ナポリはロ−マ教皇領に統合され、そしてハンガリーとベーメンでは、皇帝の自由選挙権があるので、ハプスブルク家を排除したであろう。同一の母語を用いる人間で形成されたハプスブルク帝国は、調和せぬ矛盾を多く孕んだまま、民族の複雑な混合体としてドナウ川流域に誕生し、この帝国はその多様な役割を演じることでこの後数世紀にわたって存在し続けることができた。
  オーストリア盛期バロックとは、1683 年のトルコ軍による第 2 次ウィーン包囲 (13) からカール六世の死までの期間を指し、この時期はまた戦争の時代でもあった。この期間だけでも 1688年〜1697 年のプファルツ継承戦争 (14)、カルロヴィッツの和平 (15) で終了したトルコ戦争、1701年〜1714 年のスペイン継承戦争、1716 年〜1718 年のトルコ戦争、1717 年〜1720 年の四国同盟戦争、1733 年〜1735 年 のポーランド継承戦争、1737 年〜1739 年の三度にわたるトルコへの進軍が行なわれた。イングランドと同盟し、ロンドンから援軍を迎え入れて勝利した戦いは、イングランドのマールボロ公 (16) とオーストリアのオイゲン公 (17) の功績によって、イングランドを世界の強国に押し上げ、オーストリアに大国の座をもたらした。この時期にオーストリアでは荘厳な修道院や貴族の宮殿が建設され、イングランドでは、アン女王 (18) 時代と素朴な初期ハノーヴァー朝 (19) 様式が対フランス戦で獲得された資金を投じて作られた。イギリス人は商業や戦時借款に財産を投資した。オーストリアでは豊かな利益を得る事業の機会がなく、イングランドの銀行と資金供出者の信用を受けたが、皇帝にはまったく資金がなかった。
  帝国の財務管理は一般的に不信をもたれ、国庫破綻への長期的な恐れとなって、商業的な投資先がない封建領主と修道院の資金は主として建設費用にむけられた。
  租税支出と資本支出は 結果として異常ともいえる建設事業をもたらし、あたかも花の全盛期を思わせるような建築ラッシュは、アルプス、ズデーデン (20)、カルパチア山脈 (21) 領地をオーストリア的風景へとすっかり変容させた。この租税支出はしかし反面、人道的な側面をもっていた。オーストリア領内の政治的・経済的生活様式は世襲制によって支配されていた。みずから皇帝は 臣民の父としての意識をもち、領邦の管轄下にある領地臣民の保護と領地内における商業・手工業の保護は、貴族と教会の所有地の責任であった。封建領主達は、農民の生活の向上と、領民に仕事と収益を与えることに彼らの誇りを賭けた。公共福祉は領主らの慈善心に委ねられ、当時ではそれはまったく理に適ったものであった。建築への情熱は衰えず、資金を、危険な国債に投資するよりも自分が住む土地に投資する慣習は、戦争の時代を通して行なわれた。トルコのウィーン包囲 (1683年) からベオグラード放棄(1739年)まで続くオーストリアの盛期バロック時代には、領主は建築に投資した。彼らの資金という帝国にとってもっとも滋養となる肉塊の一片を国庫財産とするには、皇帝という巨竜はあまりにも弱体であった。領民の資金は 戦費に投入されることなく地方に留まり バロック建築の発展に貢献した。盛期バロック建築が表現しようとしたものは、単にオイゲン公の凱旋に象徴される勝利ではない。勝利を勝ち得たまさに皇帝の理念そのものであった。帝国の体制は軟弱であり、バロック建築は、それゆえに常態であった資金の地方分散と、帝国に勝る領地への愛情によって作り上げられた比類のない記念物でもあった。
  盛期バロックは、帝国内の根本的に異質で多様な風景に、統一された様式をもたらした。市中の教会と巡礼教会、司祭館と修道院、領主館、町の中心にある宮殿と庭園宮殿、広場と市民邸宅、礼拝堂とあずま屋、ペスト記念柱、路傍に立つ聖像と泉を建設する土地は、熟慮の末に決定された。それらは自然と対立することなく風景に溶け込む様式で建てられた。
  バロックはオーストリア固有の芸術である。信仰、文化、芸術と生活感を共有し、領邦とそこに住む領民は、共通の君主をいだくひとつの民族体を構成した。皇帝がこの共同体の君主としての称号を名乗ることはなかったが。
  この超国家的な思考を現実化したバロック芸術は、その象徴的表現で精神に、そしてそれ以上に美的な効果で人々の心情に訴えかけた。教皇と皇帝は、相克しながらも勝利する権力にふさわしかった。生命感を与えられた石は、静止から躍動へと推移し、重力と飛翔、重さと浮力、光と影を対立させ、あらゆる境界を消し去った。
  風景を圧倒するバロック建築の絵画的効果は、壁面が接するところで発揮される。ファサード、階段、そしてホールの建築は彫刻となり、壁面や、絵画が描かれた天井を装飾する彫刻は、幻惑を企てる手法によって建築芸術へと移行する。盛期バロックでは普遍の幻想が完全な形を見い出した。多くの不調和のなかの調和、そして矛盾するものの和解を超越した統一が、帝国の本質と同様にバロックの本質でもある。
  バロックはイタリアから来た職人によってオーストリアに伝えられ、彼らはこの地でバロックをさらに発展させた。偉大な建築家たちのなかでは ディジョン出身の唯一のフランス人であったジャン・バティスト・マセーは、プラハを仕事の場としたが、その地の芸術家たちは フランスとオランダの傾向を熟知していた。ヒルデブラント (22) は、マンハイムのための気まぐれな設計 (23) をヴェルヴェデーレの壮大な建築に借用し、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ (24) は ベルリンでシュリュッターの建築学を学んだ。建築はルネサンス以来イタリア人が担っていた。16 世紀になると、南アルプス地方から左官工・煉瓦焼職人・建築士・彫刻家や画家が移住してきた。ルガーノ (25)人とコマスク人は、トルコの脅威に備えて 町に塀を廻らすとともに 城塞を築き、アンブラス(26) とシュピタール (27) に ルネサンス様式の城を建設した。
  これに続く十年には、カルロ・アントニオ・カルローネ、マルティネッリ、ドナート・フェリーチェ・ダッリーオ、カルラッチと他のイタリア人らに並んで、フィッシャー・フォン・エルラッハ、ヒルデブラント、プランタウアー (28)、シュタインルらのドイツ人職人や イタリア出身の彫刻家が出現した。ギウリアニスの後継者で、ブラティスラヴァ出身のラファエル・ドナーは、イタリアの優位を拒絶し、ギリシャ・ローマ期の古典にその原点を見出した。ドナーの弟子であるヴラティスラヴァ人のフリートリヒ・エーザーは、ヴィンケルマンとゲーテにドナーの芸術観を継承した。オーストリア ・バロックが特徴的に表現された天井画は、イエズス会修道士であるトリエント人フラ・アンドレア・ポッツォ (29) によって手がけられ、それはマルティン・アルモンテ、ロットマイヤー・フォン・ローゼンブルン、ダニエル・グランとパウル・トローガーに引き継がれて完成された。アルモンテはホーエンベルクというドイツ名をもっていたが、それをイタリア名に変えて名乗った。彼はワルシャワのソビエスキ家 (30) の宮廷へ招聘された際に、ポーランド人の反ドイツ感情に遭遇してそのことに屈したのであろう。
  バロックはまた音楽の歴史にとっても偉大で継続的な意味をもっている。(31) 他の国とは異なり、帝国内の民族は 生来の音楽的才能に恵まれてはいなかった。手始めに、オーストリアの伝統の基礎を造ったのは宮廷と貴族であった。貴族は宮廷にも匹敵するお抱えの聖歌隊を擁した。それは見事なものであり、ベーメン (32) の私有大農地ではこの私的な楽団を身内に抱えた。家族が集う長い夜には音楽が唯一の安息であった。ベーメンでは、侯爵や伯爵たちが競い合って金に糸目をつけず、才能ある農家の息子をパリに送って楽器の習得をさせた。このことは、従来の雇用契約を妨げるものではなかった。バロック時代の料理分野の伝統として、ベーメン料理がフランス人料理人の手で創り出されたように、「隷属状態」の身分から世界に名を馳せたベーメンの音楽家が出現した。領館では、農家の娘たちが、急場しのぎの手伝いとして、料理を仕込まれた。ウィーンの宮殿やブルジョア家庭ではベーメン出身の女性の料理人らが活躍した。かつての名高いウィーンの美食文化は、彼女らがいなくなると共に消滅した。
  バロック・オペラはウィーンで華麗な花を咲かせた。ガリ・ビビエナ父子により、装飾と舞台機器が考案された。ウィーン・オペラを書いたのは、パリアーツィやゼノ、メタスタージオといったイタリア人台本作家である。アポストロ・ゼノは、「イタリア文学ジャーナル」を編集し、考古学者で貨幣研究家、文学史家でもあった。彼は、多数の台本のほか、「ハムレット」の台本を書いた。彼は、シェイクスピアを知ることなく、ザクセンの文法学者の能力を総動員した。メタスタージオの言葉のもつ表現力とメロディーの明確さは、イタリアの詩がこの時代に頂点を極めていたことを物語っている。ヴォルテールは彼の 「ティトゥス」 のいくつかの場面について、それが秀でた作品でないとしても、それらはギリシャが創造した美と違わぬものであると語っている。ルソーは音楽辞典のなかで、「心からの唯一の詩、その唯一の天才が詩と音楽の調和の魅力で感動させる」 として、メタスタージオの作品を若い音楽家たちに推薦している。彼の書く台本は音楽家らを感銘させ、劇中の音楽を用いて多数の曲を編曲した。とりわけグルックにおいてそれは顕著である。メタスタージオの書く言葉は、「片手をピアノにおいて」 書かれた音楽であった。
 イタリアの所領地がスペインからハプスブルク大公家の手に渡ると、首都ウィーンにはイタリア精神が溢れ、ウィーン王宮はその中心となった。王室図書館にはイタリア人学者らが集った。ジェンティロッティやピオ・ニッコロ・ジェレッリ、アレッサンドロ・リッカルディらが権威を誇った。ジャンバティスタ・パナージァは収集品の管理責任者に就任し、アングィスコラは技術アカデミー長に登用され、マリノーニは彼の後継者となった。
  他方にはオイゲン公を中心とするフランス人グループがあった。フランスを逃れた偉大な詩人ジャン・バティスト・ルソーや、学者ジャン・マリエッテとボネヴァル伯が 仲間にいた。ボネヴァル伯は、ウィーン社交界でのちにリーニュ侯が演じたような役割を ルソーに与えようとした。造形芸術の分野ではイタリア人の後塵を拝していたものの、フランス人は、文学と社交では、如何なく正当性を主張できた。宮廷人にとっては パリとヴェルサイユは、依然として憧憬の対象であった。そこは高位身分の若者を教育する場であり、社交界ではフランス語が話された。
  盛期バロックはオイゲン公の時代と重複し、オーストリアを権力の座へと押し上げた彼の勝利を表わしている。戦争での大敗が指揮をとる将軍の失敗に負うのではなく、すぐれた計画を頓挫させるのが、上級命令や軍法会議であるということの豊富な事例が、歴史のいたるところに見出せる。ラデツキー将軍 (33) は、宮廷軍事顧問官バイユ・ラトゥール伯が、以前からの習慣同様に、王室軍事会議の場で作戦に横槍を入れるような態度に出なかったことに感謝した。軍法会議を召集する以外に手段がない時、将軍というものはいつでも無為になるものだ、というのが プロイセンのフリードリヒ大王の口癖であった。アレクサンダー大王からナポレオンの時代まで、偉大な軍司令官の勝利は、彼のもつ全権にかかっていた。オイゲン公は、彼の下す命令に周囲を従わせるため、宮廷軍法会議の議長に任命された。このことがオイゲン公を強大な存在にしたのである。オイゲン公は、彼への反論を危惧する必要のないほどに、みずからの権威に自信をもっていた。神聖ローマ帝国皇帝たち、レオポルト一世、ヨーゼフ一世、カール六世は、腫れ物に触れるかのごとくに オイゲン公を扱った。なぜならば彼を失うと、帝国を未曾有の破局に陥れるからだった。イングランドのマールボロ公、オイゲン公 そしてスペイン継承戦争で活躍したヴァンドーム (34) の功績は、ヴァレンシュタイン (35)、グスタフ・アドルフ、カール十二世、フリードリヒ大王やナポレオンと同様に、彼らにほかならぬ成功をもたらした自由裁量権のおかげであった。
 貴族階級の思考や人生観、慣習、言語や嗜好は、ブルジョア階級をとりわけ魅了し、彼らはそれらを模倣した。より上の階級に所属したいという欲求とブルジョア精神は 対立しなかった。ウィーンでは、貴族以外の者に対しても貴族風な挨拶が取り交わされたり、婦人の手にキスする時にもスペイン風の礼儀で行われた。貴族の本質とは、土地と精神性、謙譲、礼儀の尊重を備えた旧来からの特権的文化にあった。とりわけ軽妙な振舞いは、柔軟性と解放性のあらわれであり、これらはオーストリア人ならぬドイツ人が往々にして欠く特質だった。

2.国家と教会

  教会は精神活動に多大な貢献をした。反宗教改革の側では、オーストリア特有のカトリック主義が生まれ、その本質的特徴は感情豊かな礼拝の儀式にみられる。バロック教会は、現世に出現した天国に、経済弱者たちを取り込んだ。そこでは豪華な装飾が彼らを魅了した。聖母マリアや殉教者の造形力、伝説の詩情性、優美な天使たち、天井のドームを満たす黄金の光輝、異教風のロマンティックな感性で表現される情感は、降り注ぐパイプオルガンの音色とともに高揚する。夢幻をただよう精神は 天国を享受している感情につつまれる。反宗教改革の芸術として、バロックは、地上に天国を創造したのである。その特有の敬虔さは、根本においてバロック的なオーストリア人の宗教精神にふさわしいものであった。
  カトリックとプロテスタントの宗教的統一は、領邦と諸民族からなるゆるやかな関係においてのみ保持された。しかし帝国の政策を反映して、ブルジョア的生活、兵役や官職が発展するウィーンでは、ルター派の流入が顕著であり、プロテスタントの将軍の数は増加していった。
  シチリアがオーストリアの支配下にあった 1724 年に、パルレモ (36) では、フリードリヒ二世が行なった宗教裁判の五百年記念式典として、処刑が実行される異端審問が開催された。厳粛な雰囲気の法廷では、二名の異端者が現世権力の前に屈服し、火刑に処せられた。その様子を、みずからもプロテスタントであったシチリアの砲兵隊最高指揮官ツームユンゲン男爵は、大司教座がおかれた宮殿のバルコニーに設置された主賓席で見物した。カール六世は、彼にシチリアの防衛を任せていた。ルター派であったライプニッツも 彼自身が設立した王室アカデミー院長の座を手にした。帝国から移住してきた多数の商人が ウィーンに住んでいた。ウィーン市内には書店が 13 あり、そのうちの 10 は、プロテスタントが経営していた。ザルツブルク大司教が統治権を行使して二万人の新教徒を領地から追放するという時代であった。追放者は、東プロイセンやアメリカのジョージアに移住した。
  ジーベンビュルゲン (37) ではルター派の人々が共同体を作り、旧来からの権利を保っていた。またハンガリーでも、貴族階級の下に位置する騎士層の多数がそうした権利を有していた。シュレージェン (38) には、マールボロ公の仲介で成立したスウェーデンのカール十二世とのアルトランシュテットの和解 (1707年)以来、プロテスタント教会がつくられていた。ウィーンでは多数のプロテスタントが外交使節たちの多くのシナゴーグでの礼拝に列席した。
  皇帝は教理神学を教皇に一任した。しかし、イタリアでの皇帝の主導権は、イタリア半島の勢力均衡をめぐるローマの政策と相容れず、また、問題とされる裁判権と俸禄付き聖職に関して意見が対立し、皇帝を憤慨させた。帝国と教会との間で戦われた論争は、教皇領の領有にとどまらず 皇帝の正式な宣戦布告がおこなわれることなく、戦争へと拡大した。教皇は皇帝のナポリ王国叙任を白紙撤回し、これに対抗して皇帝は帝国外に住む多くの聖職者の財産差押えを実行した。皇帝軍はボンネヴァル伯のもとで、町とコマッキオの潟を占領し、ジブラルタル防衛官の兄弟であったヘッセン伯は、侵攻態勢をとる皇帝軍をヴァチカンの南境に駐屯させた。多少の流血があったものの、このコマッキオの戦いは、皇帝が発した最後通告に明示された猶予期限の直前で未然に防がれた。教皇軍の戦闘能力は低く、また、期待していたフランスの支援を取り付けられなかったことも、戦争回避の原因となった。教皇は、二万五千人の兵士を召集したうえに、非常事態に備えてローマのサンタンジェロ城に隠されたシクトゥス五世の財産をも切り崩すこととなった。
  帝国と教会のあいだに繰り広げられた抗争は、社会に画期的功績をもたらした。ナポリの弁護士ピエトロ・ジャンノーネの『ナポリ王国の市民の歴史』である。この、とりわけ憲法と管理、権利を取り扱った書物は、ローマに対する訴状であり、教皇の過度の支配からの解放、そして、帝国にとっては教会に対する完全な主権を主張する手引書となった。この著者に向けられたカトリック聖職者たちの激しい憎悪は、説教壇の上から民衆の感情に強く訴えかけた。命の危険を感じたジャンノーネは、総督のアルタン枢機卿の助力でウィーンへ亡命し、皇帝から年金を拝領した後は、多くのイタリア人学者とウィーンの親切な家庭に囲まれて快適な年月を過ごした。
  宗教が混在する領土に住むオーストリア人のカトリック観には、宗教的論争が欠けていた。彼らの教義への無関心やかすかな疑念、冷淡さは、宗教に対する疑義を彼らの心中に呼び起こすことはなかった。こうしたオーストリア人の宗教的態度は宗派を問わず、バロック期を通じてそのまま受容されていた。宗教の領域を理性的に解釈するプロテスタントはオーストリア的ではなかった。一般信者らはローマを憚る必要はなかったし、彼らの意識のうちにヴィッテンベルクとジュネーヴ (39) はまったく存在していなかった。
  イタリアでの領土獲得、ネーデルラントの急襲、ハンガリーとジーベンビュルゲンの奪還、セルビアの領有は、皇帝にあらたな権力を与えた。フランスでは国王が国家を体現し、そこではひとつの信仰、法、意志が支配した。超国家的支配者の下に、個々の領邦とハプスブルク帝国は、独自の法と権利によってゆるやかな共同体を作り上げた。帝国内では、政治的権力の所在をめぐって当局と領邦諸侯とが対立した。その権力とは領邦諸侯が現在手中にしている階級と権力手段であり、彼らの財政権と一致した。領邦議会の構成は数都市からなっており、ティロルでは農民が議会に所属していた。しかし実際の権力は、大土地所有者や荘園領主である聖職者と貴族が所有し、彼らは支配下にある領民と納税者の利益を代表した。
  国土全体の繁栄を促進するために、王室は カトリック聖職者と貴族に与えられていた特権の縮小を試みた。ハンガリーの領邦議会だけは貴族特権のゆるぎない砦であり、ハンガリー貴族は特権の行使を主張できた。トルコ戦争で、ハプスブルク家はハンガリーの自由を守るというスローガンに固執した。ハンガリー領有は、帝国が一部のハンガリー貴族を味方につける唯一の手段であった。そのことによって、そこで保証されたハンガリー貴族の特権をハプスブルクもまた共有することができた。彼らは、影響力のあるプレスブルグ (40) の州議会を開催し、貴族免税を与えることと引き換えに、ハンガリーの愛国心を勝ち得た。
  ハンガリー大貴族の特権が記されたアンドラーシ二世 (41) の金印勅書は、英国のマグナカルタより八年早く公布されているが、それは、領土の再マジャール化、同盟制度の阻止が盛り込まれ、それは帝国の衰えと、後には斜陽を導いた。ハンガリーへのあらたな入植はハプスブルク時代の偉業のひとつであった。マジャール人 (42) の入植はごくわずかであり、彼らは植民地化でなく、マジャール化によって領土を獲得していった。かつて荒れ地だった沼沢地や森林、原野は、穀倉地帯へと姿を変え、そこに兵役を退いたハプスブルク帝国の兵士らが定住した。「ドイツの都市ベオグラード」 では、セルビア人はその郊外に住み、ヴォルムス (43) 周辺から来た人々が定住した。バコニェルの森 (44) とバラトン湖、ドナウ川の島ツェペル (45) と ティサ平原 (46) にはドイツ人が入植した。これらの植民地では、オーストリア文化の特徴をもつドイツ文化が生まれた。
  オーストリアとベーメンでは、特権的性質をもつ官僚主義が帝国の終焉まで続いた。皇帝に奉仕するという栄誉は最善の人々の気を引きつけた。官庁で使用される言語は上級官吏層に一致した。ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語が 格調たかく用いられた。モンテスキューはオーストリア官僚の節度ある慣習を称賛した。「彼らの秘書たちの流儀(交渉術、振舞い)ほど礼儀正しいものはない。その秘書たちは相手に警告を発するような場合でも、その相手を叱責するような態度をとらず、相手がとった行為がどのようなものであったかを、当の相手が自分の記憶にだけ留めるように、自覚を促すとでもいうように話すのである。」軍隊と官僚層は、帝国理念の担い手であった。ハプスブルク家系最後の男子であったカール六世は、その臨終の時、帝国と諸領邦とを支配していた。その領土は、個々に独立しながら皇帝を中心に一円化していた。カール六世には、彼の死後も現状の関係を維持するという問題が課せられていたが、それは国事勅書により解決されるはずであった。
  皇帝家に男子の皇位継承者がいない場合に、マリア・テレジアが皇位継承者としてオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンとクラインを相続することを承認したこの国事勅書の成立の経緯は、諸領邦との関係維持を願ったクロアチア決議 (1712 年) に由来する。憲法で保証されているハンガリーとの同盟は、すでにマジャール人がトルコとの同盟を視野にいれていたので、クロアチアにとって無意味であった。クロアチアは、オーストリアの対トルコ戦での支援を要請され、オーストリアとの関係強化を働きかける一方で、ハンガリーとの関係弱化を模索していた。
  国事勅書は帝国に法的根拠を与えた。しかし、国事勅書は、解決不可能な帝国の矛盾を生みだし、亡国へいたる対立を含んでいた。王家と帝国にとって、国事勅書は帝国統一の法的根拠をなすものであり、マジャール人にとっては彼らがもつ特権の法的承認を保証するとともに、彼らの独立性すなわち他の領邦と一線を画した存在であることの証明でもあった。彼らの忠誠がハンガリー王冠にかけてのみ誓われたものであり、マリア・テレジアに対するハンガリー議会の有名な呼びかけの表現 「我々の王国のための疫病の壁」 は、ハンガリーの立場を示している。
  ハプスブルクの王冠をいただく諸国が結集して一国となった時、帝国は最大の規模を誇った。しかし、その結束力はとても弱かった。皇帝は、自分が所有している領土が捧げる王の称号を持たず、また、その統一国家を示す国名を冠することもなかった。そこでは中央権力の自己規制が行なわれ、それこそが民族同盟の本質的特徴を示すものであった。この特徴は各領邦に独自性を確保させた。帝国の保護下にある帝国諸領邦とその領民が自由に発展を望めるようになったことは、脆弱な帝国にとって、帝国内に強力な支配関係を築くときの障害となった。

3.金融と経済

  国事勅書がオーストリア帝国とその領邦国家に、とりわけ 1725 年にシチリアで公布されたことで、ハプスブルク帝国の勢力範囲は 北海からアフリカ沿岸まで拡大した。ドイツとイタリアを皇帝のもとに統一するという中世期の皇帝理念は、ここに実現したかのように思われた。ベルギー、ミラノ公国とマントヴァ、ナポリ王国とサルディニアは、スペイン継承戦争の結果、オーストリアに獲得された。これに引き続いてハンガリーの復興とベオグラードの占領、北セルビアへの侵攻が行なわれ、最終的にはシチリアとサルディニアの交換によって帝国誕生以来、最大の領土を確保した。
  ナポリの詩人ドゥーカ・アニバーレ・マルケーゼは、自身が著した叙事詩 『カルロ・セスト・イル・グランデ』 のなかで、地獄の亡霊にユトレヒトの平和 (47) を強いている。これより五年後には、帝国はナポリとシチリア、ベオグラードを失い、まさにこの事実を予言する言葉であった。ベルギーは領土として残された。皇帝は、フランス軍をマース川とスヘルデ川で防御しなければならず、もはやこの地では海軍国イングランドとオランダにとって皇帝は強力な敵ではなかった。1706 年にカール六世は、大幅に譲歩してオーストリア領ネーデルラントに独立を承認したことで ブラバント (48) の階級諸身分の支持を取り付けた。皇帝は、ネーデルラントをフランス軍から守るために要塞に駐屯しているオランダ占領軍の費用を負担した。そのうえ、オーストリア領ネーデルラントに無理やり認めさせた関税率で、イギリスとオランダの市場支配を容認しなければならなかった。ベルギーの海上交通路は、1648 年のミュンスターの講和におけるスヘルデ川の通行禁止によって阻害されていた。カール六世の悲願であったネーデルラントとバイエルンの交換は、ドイツで主導権を握るには重要であったが、いまだ実現されていなかった。
  マールボロー公とオイゲン公が勝利をおさめた栄誉は、イングランドが徴兵したプロイセンやデンマーク、他国からの援助軍の力にもまた帰せられるものであり、イングランドからの借款と報酬金でオーストリアは権力の高みへ上った。軍備補助金でさえ、逼迫する借金の返済に回された。イングランド人も利口になった。1706 年の進軍は、トリノの包囲とイタリアでの戦争をオーストリアに有利に決定づけた。この進軍は、シュレージェンからの収入によって確保される 25 万ポンド(約 167万グルデン)の借款に対する 8 %の利率によって可能となった。その債権者は 287人いた。為替送金の名義はウィーンではなくオイゲン公宛てのヴェネツィアであり、そこにはオイゲン公の要求額を支払うことが明記されていた。そうした事実から、借款はオイゲン公の目的のために用立てられたのは確実である。
  カール六世が皇帝に即位した時に直面したのは、帝国を根底から揺るがしかねない膨大な負債であった。彼の政府を理解する鍵は財政であり、借財の苦悩はオーストリア帝国の伝統の一部となっていた。
  1670 年にはユダヤ人追放が始まった。ウィーン市はユダヤ人税の補償を義務づけられ、彼らに対する負債を負った。ウィーン市内ではユダヤ人住宅 170 軒が空家となり、それらは荒廃にさらされた。ユダヤ人は大領主にとって保護者であると同時に、収入源でもあった。そのユダヤ人追放は、彼らからその両方を奪った。商業は立ち行かなくなり、物価上昇を誘引した。神学学校へのユダヤ人の入学が許可されるようになると、ヴォルムス出身で、プファルツの軍御用商人の認可を受けたサミュエル・オッペンハイマー (49) は、帝国軍請負人に任命された。彼は、トルコ戦争に資金を供出し、立替金をも用立てて王室に貢献した。債務者に対する優位な立場を確保するため、彼は嘆願して最高式部卿職の裁判権の管轄下に加わった。オッペンハイマーは、ドイツの侯爵、オーストリア貴族、富裕な修道院への金利を、皇帝よりも引き下げ、このことは帝室を憤慨させた。「わずかな金利目的に、国庫よりユダヤ人に好んで金を貸すキリスト教徒に、人はどんな同情をも寄せる必要はない」。総指揮官ルードヴィヒ・フォン・バーデンは、軍への供給を宮廷から委任された場合に生じるであろう最悪の事態を懸念した。万一、オッペンハイマーが御用商人の資格を喪失した時には、バーデンの持っていた最高指揮権は失われ、イングランドの職務につくという事態になりかねなかった。
  オッペンハイマーと、同郷のヴォルムス出身のサムソン・ヴェルトハイマーは 帝室最大の債権者であった。皇帝は 国庫の破綻に直面しており、義理の兄弟であるルイ十四世が見出したような解決法を模索していた。法を軽視するルイ十四世は、軍の経理総監であったフーケを 1661年に拘束し、フーケは 1680 年に ピネロル監獄(50) で死んだのだった。オイゲン公は表明した。「閣下の皇帝としての威厳に、笏と王冠を危険にさらすよりは、むしろユダヤ人の負債を請けるほうがはるかに良策である」。オッペンハイマーは、侍従長ブロイナー伯の異議申立てに対する廉で拘束され、50 万グルデンの保証金を支払った後に自由の身となった。1700 年 7 月 21 日には オッペンハイマーの邸宅が略奪にあい、帳簿が引き裂かれた。この事件は彼に負っていた国庫負債を軽減したことだろう。ウィーン市警察は この破壊行為を目撃していたものの、略奪が終了した後にようやく城警が動き、町の秩序を回復させた。その際に数名が死亡した。首謀者と目されたのは、煙突掃除人と刀鍛冶職人であった。この二人には絞首刑が言い渡され、死体は略奪にあった家の門に吊るされた。
  1701年に提供されたとみられる国庫への 500万グルデンの前貸金の見返りとして、オッペンハイマーには 「上級戦争代理人」 の肩書きが与えられた。1703 年には彼の貢献の正当性に対して皇帝特許状が下賜された。その直後にオッペンハイマーは死亡し、ただちに彼の破産が宣告された。ルードヴィヒ・フォン・バーデンはこう述べている。「世に知らされたオッペンハイマーの破産宣告で、人は金や信用の在りかをどこにも見出せなくなり」、「フランスが皇帝に対する強圧的な計画を思いつくことはなかっただろうに。」と、あらたに侍従長となったグンダカー・シュタルヘンベルクは語った。1719年 オッペンハイマーの息子に 4100 万の支払が請求され、彼の未回収金は没収された。財政破綻は必定であった。最大の債権者であるオッペンハイマーは財政を左右する鍵となる存在であった。そうした状況でオッペンハイマーと向き合うことが 皇帝にとってはより深刻な問題であり、(オッペンハイマーに対してとられた)反ユダヤ的処遇は問題にならなかった。カール六世がかつてバルセロナにいる時、皇帝はスペインから追放されたユダヤ人を呼び戻そうとした。人はユダヤの資金なしにはやっていけず、オッペンハイマー亡き後は ヴェルトハイマーが代役を務め、宮廷はなんとか財政危機をしのぐことができた。
  侍従長のグンダカー・シュタルヘンベルクは一連の対策を講じた。タバコの入札とイドゥリア産水銀の安価での権利貸与であり、とりわけ振替銀行 (1703 年)が創設されてからは 金融に秩序がもたらされた。領邦が占領軍に支払う軍税は、銀行が保証することになっていたが、その支払は滞り、1年後にはすでに支払能力を失った。ウィーン市銀行は 1705 年、市参事会によって創立された。皇帝より多額の資金を保有し、もっとも表面的には皇帝の管理下におかれていたものの、公的な金融機関の職務を果たしていた。シュタルヘンベルクは精力的に経営に取り組み、それによって(業務が改善された)ウィーン市銀行は少なくとも一定期間、宮廷の介入を避けられた。彼は侍従長を辞職し、政府銀行の代表に就任した。ウィーン市銀行は ウィーン市からの信用供与を拠り所とした。市参事会は閣僚の承認権をもっていたが、1716 年には規約違反によってその権利が剥奪された。承認権はその後、中央官庁代表に委譲され、この時点でウィーン市銀行の権威は失われた。また、ウィーン市銀行がオッペンハイマーの遺産に含まれていた国家負債を返済しなければならなかったことも、銀行の破綻を加速させた。ウィーン市銀行は 1733 年に 深刻な危機に見まわれた。銀行が関税納金を売ったことが経営危機の前兆と誤解され、また、ポーランド継承戦争の勃発ともあいまって 銀行の窓口には長蛇の列が並ぶこととなった。資金は払い戻され、窓口が閉鎖された時には 「銀行手形がカフェや居酒屋に舞い散り」、その価格は 12 %まで下落した。
  いったん失われた国家銀行としての中央金融機関と信用機関がもつ機能は、1715 年に創設された総合銀行に再び求められた。そこでは家政の軽減と経済の活性に目標がおかれた。だが、この課題は紙上の計算においてすら解決を見出せず、まもなく総合銀行は経営不信に陥り、破綻した。
  ポーランドでの王位の争奪は 戦争の端緒を開いたにすぎず、フランスとスペインは この好機に臨んで軍備に余念がなかった。戦争にいたった第一の原因は、カール六世がマリア・テレジアとフランツ・フォン・ロートリンゲン(51) との婚姻を取り決めたことにあった。ロートリンゲン (52) とオーストリアは統合され、ロートリンゲンの所有を狙っていたフランスの干渉力が弱小化することは、すなわち帝国内での皇帝の権力強化を意味していた。だが帝国には将来有望とみられる政策を貫徹するための手段が欠けていた。十六人の子供に恵まれた幸運な結婚から出来したものは、まずはロートリンゲン、つぎにナポリとシチリアの損失であった。
  カール六世は、経済の活性化に邁進した。皇帝は、マリア・テレジアがまだ足取りもおぼつかないほど幼い頃から、ロンバルディでの土地台帳を準備した。カール六世は 当時すでに大幅な土地台帳の整備を行なっており、ポーランド継承戦争により台帳作成が中断された時にも それらのファイルや公文書は安全を期してマントヴァに保管された。繁栄していた絹織物の拠点をコモ湖におき、毛織物業を促進し ロンバルディ管区内の関税を廃止した。カール六世治世の最晩年には減税が行なわれた。「一世紀以上を費やしたこれらの対策をめぐるさまざまな試みは、徒労に終わった。それは、カール六世がとった唯一の、善良な臣民に満足を与える政策であったに相違なく、そのため彼らは皇帝の名を祝福したのである」。(ピエトロ・ヴェッリ『ミラノ王国の商業の考察』)

4.オリエント商会

 海洋国の業績に倣って、皇帝はその治世中に、商会と商船会社を設立し、オーストリアが国際交易へ参画することを目標とした。1718 年 7 月 27 日、パッサロヴィッツの和約 (53) で署名された通商条約から六日後、宮廷軍事顧問官アンセルム・フォン・フライシュマンは、皇帝とトルコ側双方に対して自由貿易とわずか三%の関税を承諾させるという快挙を成し遂げた。1721年 4 月 27 日に発効した皇帝特許のもと、最高の保護を受けて設立されたオリエント商会は、東方貿易の特例措置によって アドリア海に浮かぶ長さ 18 m 程度の船に、砂糖の輸入と精製、銅の買い取りと加工に関する独占権を構築した。さらにこの後、綿織物生産の独占権を獲得した。商会の創業資本は 10 万グルデンとし、1千株に分割されて発行される予定であった。苦労の末に、7 万 5 千グルデンが調達され、10 万グルデンの資金融資がウィーン銀行に要求された。 「ドナウ流域からコンスタンティノープルまで、がらくたを持ち寄ってセルビア人とトルコ人がひしめきあう」ベオグラードは、やがて閉鎖される運命であった。海上交易がドナウ川交易に取って代わった。トリエステ (54) の造船所、曳き船の建造、帆布、錨、鉄製のカノン砲、タールに関しては、赤字経営であった。砂糖精製の設備は作られなかった。イギリス人は トリエステに砂糖を運搬したが、帰途の積み荷とする荷を見つけられなかったのである。カール六世は、利害が一致するイングランドとフランスの後押しを得て、ヴェネツィアと長期にわたって交渉した末に、アドリア海の自由航行と検閲の撤廃を実現させた。
  1722 年にはオリエント商会が開業し、その嚆矢となるポルトガルへの大規模な代表団に、皇帝は戦艦 「S. レオポルト」と 護送船団を送り、さらに 「サンタ・バーバラ」 と 「S.カルロ」 の二隻の戦艦を同行させた。これらはナポリを母港とするオーストリア海軍史上初の戦艦であった。三隻の商船と、「プリモジェニート」 「フランチェスコ・クサヴェリア」 と 「S.レオポルト」 は、シュレージェン産の亜麻布、ケルントナーの鉄鋼製材を運搬した。それらのうち 30  トンの釘、フィウメ (55) の工場で製造される蜜蝋と、ハンガリーで加工した塩漬肉がリスボンへ運ばれ、その売上金で、砂糖、タバコ、カカオと染料が購入された。しかしモンテスキューが記述したように、オリエント商会は 「数知れぬ不幸」 の損害を蒙り、莫大な負債をかかえて倒産した。
  オリエント商会は自由貿易を危険にさらし、商品価格を高騰させた。トリエステでは以前にも増して密輸が横行し、それによって人々はなんとか生活を維持していた。彼らはバリへ鉄を搬出し、税金を免れた大量の塩を搬入した。それらの品はアプリアー(56) の海岸沿いや国境地帯へ運ばれると、小船でやって来た住民との間でその塩はタバコと売買された。
  皮肉なことに、自由貿易港トリエストとフィウメは大規模な密輸や悪用によって繁栄した。商会は、ケルンテン(57)、シュタイヤーマルク、クラインから、イタリアへと鉄鋼取引の場を移したが、鉄の価格は上昇し、はるかに品質の優るスウェーデン産の鉄によって排除された。トリエステ、フィウメ、ナポリ、メッシーナ (58) では、トルコの特恵関税が悪用された。ギリシャ商人は、商品がトルコを経由したように見せかけて虚偽の税申告を行ない、それらの商品にかかる関税を不当に低く押さえた。そのため商人は、数人のトルコ人を雇い、彼らは甲板上で商人として活動した。そして一隻の積み荷に対し一人のトルコ人が金で雇われた。皇帝は 1725 年、アフリカ沿岸を席巻していた海賊との間に協定を結んだ。これによってナポリとシチリア沿岸で起きる誘拐事件や略奪を目的とした襲撃の危険がなくなり、船の安全航行が保障された。
  唯一シュレージェンだけが輸出による貿易収支で黒字を計上した。外国市場で人気のある商品が、他の領邦にはなかった。オリエント商会の海上貿易と同様に、帝国内のマニュファクチュアもまた赤字経営に陥った。フィウメの蝋燭工場は 1730 年に創設された。企業はリンツの毛織物工場を買収し、ウィーン傷兵病院と救護院を240000 グルデンで買い取り、その荒廃した建物の修復費にさらに 100000 グルデンを投入した。この建設は皇帝の発願によるものであった。「この事業をもって、増加しつつある浮浪者、無為無策の者、失業者、人の施しで生きている者に仕事を与え、日々の糧を彼が手にすることに供する」。官吏や労働者に住宅を貸すことがリンツでは拒否された。オーバーエスターライヒ (59) では、工場はその土地に弊害となる独占企業とみなされた。工場の製品は羊毛半加工品であり、大半は羊毛製品同様に密輸入され、独占的なものではなかった。1737 年 当時すでに、資金は賃金に充てられることなく、工場は債権者の手に渡り、最終的には 93 万グルデンで帝国の管理下に置かれた。1772 年、ニュルンベルクのコンラート・ゼルゲルは男爵に叙せられた。彼は、ゾルゲンタールへの投資に決心がつかない企業家に判断材料を与えた。彼が国営工場の最高責任者としてその経営に着手した時に認識したのは、国営工場では製造費が民間工場に比較して 25 パーセントも高く、またそれが容認されていることだった。
 商会は、綿製品の製造を独占し、シュヴェヒャート工場を設立した。しかし、その間に商会は破産し、1740 年に工場は売却された。
  富くじの販売で得られた金額はわずかであった。その収益も 1000 万の借入金の返済に充てられ、官吏と軍人の報酬分は企業負が負担しなければならなかった。債権者はウィーン市銀行が発行する金利 4 パーセントの債券に対して 30 パーセントを要求し、1754 年、ついに綿製造工場はリンツの人々に売却された。

5.オステンド商会

  スペイン統治下に取り決められ、オランダ議会の参加を得て カール六世により更新された協定によって、スヘルデ川河口の船の航行は禁止されていた。そのため、アントウェルペンに替わる港は、オステンド沖の停泊地しかなかった。数人の商人は、サン・マロ出身のフランス人でインド航海の経験のある船長、ゴドフロワ・ド・ラ・メルヴィーユを登用した。彼は、1719 年 5 月 3 日 コロマンデル海岸(60) にあるナウールに投錨した。その 4 日後に、デンマーク領のトランクバールに到着したメルヴィーユを、デンマーク人は友好的に歓迎した。しかし他の商館は太守ナボプ・サダトカとともに、メルヴィーユに対する謀略をめぐらせた。彼らは、メルヴィーユが現地民の倉庫を略奪しようと企む海賊であり、カール六世は悪名高いイスラムの敵であるとして糾弾した。しかし、以前の旅行を通じて何度かこの地を訪れた経験のあるメルヴィーユは、太守サダトカの廷臣と知己を得ていた。これが奏効して、毎年の表敬を義務として行なうことを交換条件に、オーストリア商館を設立する権利を獲得した。1719 年 8 月 23 日、商館取得の式典が厳粛に執り行なわれた。
  植民地の所有に関して、メルヴィーユは皇帝の全権を得ていたわけではなかった。それにもかかわらず、メルヴィーユが皇帝旗の掲揚を行なった際には、3,000人のインド兵、7 基の大砲、5 頭の戦闘用の象と 6 頭の駱駝が式典に花を添えた。オーストリアが初めて獲得した植民地にメルヴィーユは 30 人の兵士を駐屯させ、その配下に 18 人に原住民、7 基の大砲を配置して、その指揮権をルイス・ディアズ・デ・ラ・ペーナに委託した。1720 年 6 月 17 日 メルヴィーユは輸送経費に見合わぬ積み荷をオステンドに搬送した。植民地は短期間に急成長していた。天然の良港であり、かつマドラス、ネゴパトナムとポンディシェリとを結ぶ利便性、何千人もの入植者で活気付くカベロンで生産される高品質の綿織物という好条件は、植民地の将来を確実なものとするかに見えた。太守サダトカは、植民地内での自由なカトリック教の風習を容認した。教会や要塞が建てられ、権利が保証されるとともに、硬貨が鋳造され、免税が適用された。メルヴィーユが築き上げた拠点は、のちに設立されたオステンド商会の発展に貢献した。だが、イギリス軍の攻撃によると思われる破壊のために衰退し、その後 18 世紀半ばまで存続した。カール六世は 上級特許状をメルヴィーユに授け、ナポリ艦隊所属の小艦隊長に任命した。彼はスペインとの戦いでその名に恥じぬ功績をあげ、後日の対トルコ戦ではドナウ艦隊・海軍中将として軍功を残した。
 ベルギー人がインド交易ではなばなしく成功したので、カール六世は、オステンド商会の創設に意欲的に臨もうとした。
  帝国が開設したオリエント商会は失敗に終わった。あらたな挑戦であるオステンドの商会は、海洋大国の対抗心を刺激する危険をはらんだ事業であった。1722 年に皇帝特許権を獲得して創業を開始した商会の資本金は、わずか 1日で集められ、株価は翌日に時点で 12 パーセントも上昇した。皇帝の庇護を受け、国庫は 6 パーセントの余剰配分を獲得した。
  1725 年 4 月末から 5 月にかけて皇帝とスペインとの間で三つの条約が締結された。この条約で、スペインのフェリペ五世 (61) は、ネーデルランド、ナポリとシチリアの領有を断念した。皇帝はスペイン王位を放棄し、スペインは国事勅書を承認した。両国間には最恵国待遇の原則に即した防衛同盟と通商条約が結ばれた。8 月 29 日には、さらに第 4 の条約で、エリザベタ・ファルネーゼ (62) との再婚で生まれたスペインの二人の王子 (63) と皇帝の娘との婚姻が決定した。このウィーン条約で決定された秘密条項の存在を ジンツェンドルフは否定したが、その努力の甲斐なく、イギリスとフランスはプロイセンとヘレンハウゼン(ハノーヴァー)条約を結んだ。1726 年 2 月 スペインはウィーン協定を頼りにジブラルタルを包囲した。政治状況はオーストリアにとってきわめて不利だった。パリの和平会議で皇帝は、フランスとイギリス、オランダを相手に、7 年間の休戦協定に合意せざるをえなかった。スペインではエリザベタ・ファルネーゼが国王権力を掌中にしていたが、その威光を支える夫のフェリペ五世は、憂鬱症を患った上、嫌々ながら妻に強制され、スペイン‐オーストリアの結婚政策をめぐる王室の秘密主義に深く失望し、同盟国に背を向けた。エリザベタ・ファルネーゼは、皇帝がハノーヴァーを攻撃することで、スペインが始めたジブラルタル包囲を支持することを期待した。しかし、期待は裏切られ、スペインは戦争を終結させることになったパルド (64) 協定で、より豊かな果実を提供してくれるイギリスとの同盟に飛びついた。1729 年 11 月 20 日に セビリア条約が、スペイン、フランス、イギリスとの間で締結された。この条約でスペインは、オーストリアに認めた通商上の優位な立場を撤回し、ジブラルタルの奪回をあきらめた。そしてスペインのドン・カルロス王子(65) のパルマ、ピアチェンツァ (66)、トスカーナでの王位継承を、6000 名のスペイン兵による占拠で、彼の相続開始を待たずして、確実なものとした。1726 年 8 月 6 日、カール六世が駆け引きをしてオーストリア‐スペイン同盟にロシアのエカテリーナ一世を加えた。この同盟と 10 月 12 日にプロイセンとの間で取り交わされたヴスターハウゼンの和解は、セルビアで蒙った被害をわずかながらも埋め合わせ、皇帝はジブラルタルへのスペイン軍の上陸を認めるつもりはないことを表明した。(67)
  勝利する見込みのない戦争は、ウィーンの人々を動揺させ、それは金融に対する不信という形で現れた。金は店や靴下の中にしまい込まれた。ウィーン銀行への信用は失墜した。元帥ヨハン・ハラッハは、当面の危機感はもたなかったものの、「万一激しい戦争が勃発するか、あるいは皇帝が崩御するようなことになれば、銀行への預金はやめて、現金を手元に置くとしよう。それは死に金で、利殖をもたらさないが、少なくとも安全で確実だ」。その年の秋には、ウィーン市銀行は両替業務に専念するようになり、銀行預金は底をついた。解約は3ヶ月先の分に限り受付けられた。猶予期間は 2 週間から 3 週間に延長された。

 ハラッハは述べている。「銀行が破産するようなことになれば、他の領国と帝位もまた失墜するだろう」。
 1731 年 1 月 20 日に アントニオ・ファルネーゼが死去したとき、オーストリア軍は パルマとピアチェンツァを占拠していた。皇帝はイギリスの援軍に期待を寄せていた。しかしイギリス首相ロバート・ウォルポール卿は、イギリスのスペインでの有利な通商上の地位を保全し、ベルギーの交易力を牽制するためにも戦争の回避を望んでおり、皇帝の期待は裏切られる結果となった。ウォルポールのもくろみは成功し、1731年 3 月 16 日、トーマス・ロビンソン卿が 「第二次」ウィーン条約に こぎつけた。カール六世はこの条約で、すでに一時的に閉鎖していたオステンド商会の解散を表明し、ドン・カルロスのパルマとピアチェンツァの相続を認める一方で、国事勅書の承認をイギリスからとりつけた。
 オステンド商会の創設は政治的敗北を証明してみせることとなったが、同時に商業上の大きな成果でもあった。同商会は、すぐれた海軍力を使って、インド、特に中国と交易し、莫大な利益を上げた。暫定的な閉鎖にいたるまでの期間で、商会は資本金 600万グルデンから約 1 200 万グルデンの配当金と関税 200 万グルデンを計上した。利益のうち約 2000 万グルデンは、現地で経済を活性化させた。捕鯨はグリーンランド周辺に拠点を移し、漁業会社と帆布工場、綿布染色工場が造られた。スペインとの羊毛交易、アントウェルペンの絹やビロード製造は利益をもたらした。だが隆盛のあとには没落が待っていた。
  商会はスウェーデンの会社に船を委託していた。商会が一時的に閉鎖されていた間に、その会社はひそかに委員会の指揮下で闇商売を行なっていた。船は エルベ河口にあるデンマークの港アルトナから出航し、その船にはフリ−ドリッヒ四世 (68) の特許やアウグスト強王 (69) が交付するポーランドの特許状が与えられていた。
  カベロン (70) にはあらたに工場が建設された。ここではトリエステからの航行が妨害されることはなく、皇帝の特権のもとに交易を行なった。1746 年、マリア・テレジアは 夫であるフランツ一世にこの植民地を捧げた。フランツ一世はその地を以前のトスカーナと同様にみずからの領地とした。ベランプール (71) ではすでに商業活動が行なわれていたが、イギリス人とオランダ人は現地民の焼き討ちに会い、トランキバール (72) では指導者が配下の者に虐殺され、銀行市場は破壊された。カベロンにはただひとりの駐留者が残っただけだった。
  カール六世は メッシーナにも商会を設立するつもりだったが、全権の付与が皇帝から保証されたにもかかわらず名乗りをあげる企業はあらわれなかった。
  1734 年のビトント (73) の戦いでナポリとシチリアは失われた。ナポリ王国は ベオグラードの防備に加わり、その経費の捻出は数年にわたって国庫を逼迫したために、その地位に相応の城を維持できなかった。占領者が差し出す献納額が、領地の安全を左右した。ナポリは ドン・カルロスの入城に、がま口を堅く閉じて備えた。
 イタリアでの戦いの後、対トルコ進軍が行なわれたが、三度にわたって失敗し、その上さらにベオグラードを失うという不運が続いた。




  (1)  バロックの語源はポルトガル語の Barocco (歪んだ真珠) といわれる。この語は 「規範からの逸脱」を表す形容詞として 18世紀末の古典主義の芸術理論家によって否定的な意味で 17世紀美術、特に建築に適用された。漆喰彫刻や金を用いた装飾は荘厳さと豪華さを演出した。17 世紀末以降に生じたカトリック教会の反宗教改革運動や ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景にした一連の建築様式に対して、その傾向を指すために用いられる用語 である。現代ではバロックは価値判断から独立した様式概念となっており、ほぼ 17 世紀全体を示す時代や概念 をも示すものになっている。
  (2)  12 世紀後半にフランスで発祥し、ルネサンスまで続いた美術様式。建築が主要な様式で、建物は高く、窓も大きい。教会建築に多く、ランス、アミアン、シャルトル、ストラスブールの大聖堂がこの様式で建てられた。
  (3)  1685‐1740 オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝。フランスのルイ 14 世との間で争われたスペイン継承戦争中に帝位についた。
  (4)  イタリア北部、アルプスの南方、ポー川中流北岸の平野にある州。中心都市ミラノ。
  (5)  ミラノ大司教。生年不明1584年没。死後、聖人とされる。
  (6)  カールス教会の左右に立つ高さ47mの「勝利の柱」は、ローマにある賢帝トラヤヌス帝とマルクス・アウレリウス帝の偉業が浮刻された皇帝祈念柱を模して制作された。「勝利の柱」には聖人カルロ・ボローメオの生涯が 浮 き彫りで表されている。「ヘラクレスの柱」は、古代に世界の果てと信じられていたジブラルタル海峡の呼称であり 、カールス教会につくられた勝利の柱は ヘラクレスの柱と同一視される。それにより、勝利の柱はハプスブルク帝 国の文明を象徴する。
  (7)   カール5世は 1527 年 ローマを攻撃し(サッコ・ディ・ローマ)、その際多数の美術品・財宝が消失した。
  (8)   バロック文化における建築芸術や装飾は、音楽との相関性を大きな特徴とする。建築はバロック期以前の静止状態から流動性を獲得した。イタリア的な影響は、オーストリアのバロック芸術に豊かさを与えた。カトリ ックであるオーストリア文化に南ヨーロッパの要素を加え、ドイツ語圏にありながらも独自の様式を発展させた。
  (9)   ルネサンス建築が、幾何学的秩序と音楽的調和に基づく絶対的宇宙観を表現しているのに対して、バロック建築は多様な位相ごとに個別の秩序体を形成する多元主義的な世界観を基調とする。
  (10)  フランス東部、ジュラ山脈とソーヌ川の間に広がる地方。歴史的に、北部はブルゴーニュ公国領、南部はサヴォイア公国領であった。
  (11)  イタリアの王家。南フランスのサヴォイア地方を領有し、その後北イタリアのピエモンテに進出する。11 世紀に起源をもち、1416 年 アメデオ八世がサヴォイア公を称した。1713 年 ユトレヒト条約でミラノとシチリア島を獲得し、王国となる。1720 年にシチリア島をオーストリアが領有するサルディーニア島と交換し、サルディーニア王国と改称した。
   (12)  1553年−1610年。ナヴァ−ル王アンリ・ド・ナヴァ−ル。宗教戦争時代のユグノー指導者であったが、カトリックとユグノー両派の和解として、フランス国王シャルル九世の妹であり、カトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリット ・ド・ヴァロワと結婚する。この結婚式を祝福するためにパリに集まったユグノーの大量殺戮が 「サン・バルテルミ ーの虐殺」 である。シャルル九世の弟アンリの没後、アンリ・ド・ナヴァ−ルはユグノーからカトリックへ改宗し、ア ンリ四世としてブルボン朝最初のフランス王となった。
   (13)  1683 年に行なわれたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オーストリアは ポーランド・ヴェネチア・ロシア等からなる神聖同盟を結成し、フランスが後押しするトルコ軍と戦った。結果は神聖同盟 が勝利し、1699 年のカルロヴィッツ条約で、トルコはヨーロッパ諸国に大幅な領土割譲を行なった。
   (14)  プファルツは、マイン川以南のライン川両岸地域。神聖ローマ帝国宮廷伯領であり、皇帝選挙権をもつ選帝侯であった。1685 年 にプファルツ選帝侯が嗣子のないまま死去すると、フランスのルイ 14 世と神聖ローマ帝国皇帝 レオポルド一世が中心となるアウクスブルク同盟との間でその継承権をめぐり争われた戦争。 1688 年−1697年。
   (15)  トルコの第 2 次ウィーン包囲の結果、1699 年に オスマン帝国とヨーロッパ諸国間で結ばれた条約。カルロヴッツはハンガリー南部の都市。
   (16)  スペイン継承戦争でのイングランドの英雄。
   (17)  1663年−1736年。サヴォイア家の血を引く貴族としてパリに生まれる。ルイ 14 世治下のフランス軍に登用されず、1683 年 オーストリア・ハプスブルク家のレオポルト一世の下に移り、フランスを敵としてオーストリア軍の名将として活躍した。第 2 次ウィーン包囲、スペイン継承戦争、オーストリア・トルコ戦争で軍功を上げた。 芸術に造詣が深く、オイゲンが建設したベルヴェデ−レ宮殿は、彼の死後、ハプスブルク家の所有となった。
   (18)  1665年−1714年 イギリス・スチュアート朝最後の国王。デンマーク王子ジョージと結婚、1702 年 即位。スペイン継承戦争、アン女王戦争により、植民地と領土を拡大した。デフォーやスウィフトなどの文学者を多数輩出し 、英文学史上に残る偉大な一時代を築いた。
   (19)  アン女王の没後、王家と遠縁であったドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルグが イギリス王ジョージ一世として即位した。このためイギリスとハノーファー公国とは同一の君主によって統治される同君連合の関係が 1837 年まで続いた。
   (20)  ポーランド南西部シレジア地方とチェコ・ボヘミア地方との境界にあたる地方。
   (21)  スロヴァキア東部から東方にルーマニア北部にいたる山脈。銅・鉄・岩塩を産出した。
   (22)  1668‐1745 ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント オイゲン公のヴェルヴェデーレ宮殿の他、ウィーンのピーター教会、ダウン・キンスキー宮殿等を設計。エルラッハとともに帝国バロック建築を代表する。
   (23)  1720〜1760年、ドイツのマンハイムにバロック様式で建造されたプファルツ選帝侯の宮殿。
   (24)  1656‐1723 ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ 前出のカールス教会、ウィーンのホーフブルク、シェーンブルン宮殿のほかザルツブルクのコレギェンキルヒェ等を設計。
   (25)  スイスのティチーノ州。
   (26)  オーストリアのインスブルックにあるチロル大公フェルディナンド二世によって改築された城。ここにはフェルディナンド二世が収集した美術品が展示され 「アンブラスコレクション」 として高名であった。
   (27)  オーストリアのチロル地方センメリンク近郊。
   (28)  1658‐1726 ヤコプ・プランタウアー メルク修道院を設計。
   (29)  1647‐1709 イエズス会神父であり画家。レオポルト一世により招聘され、ウィーン大学教会内部の改造等を手がけた。トロンプ・ルイユによる錯覚的効果は オーストリアバロックの方向性を決定的に特徴づけた。「私は すべての線を、断固として、ただひとつの点に向けて引く。なぜならばその唯一の点(消失点)とは、神の栄光であるからだ」。
   (30)  ポーランド貴族 (シュラフタ)。トルコの第 2 次ウィーン包囲で神聖同盟側に勝利をもたらし救国の英雄としての名声を得たポーランド王ヤン三世を輩出した。
   (31)  バロック音楽は、イタリアのヴェネチアで発祥し、後 ナポリで発展した。ここでの特徴は、劇音楽 (オペラ) の誕生と器楽の興隆の2点である。器楽と声楽が分離したことで、ソナタ・組曲・協奏曲などの新しい器楽ジャンルが 生まれ、J, S バッハによってカンタータが完成された。また、この時期に音楽が市民階級に普及した。現代に聞 かれる西洋クラシック音楽の基礎がこの時代に形成されたものである。
   (32)  ボヘミア地方。
   (33)  1766‐1858 オーストリアの貴族で軍人。多くのオーストリアの戦争に参加し、1836 年に元帥、1849 年− 857 年 ロンバルディ・ヴェネチア王国の総督。
   (34)  フランスを勝利に導いたフランス軍の英雄。
   (35)  1583‐1634。 アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン、 ボヘミアに生まれ、30 年戦争での帝国軍の名将。敵将のスウェーデン国王グスタフ・アドルフを激闘の末戦死させた。
   (36)  イタリア南部、シチリア島北西部の港湾都市。シチリア王国の首都。
   (37)  トランシルヴァニア、ルーマニアの一部。
   (38)  シレジアのドイツ語名。オーストリアとドイツの境界地域。当初オーストリア領であったが、三度のシュレ−ジエン戦争でプロイセンに割譲された。豊富な地下資源をもつ。
   (39)  ヴィッテンベルクとジュネーヴは、共に宗教改革発祥の地である。フランスの宗教改革者カルヴァンは、 1541 年 ジュネーヴで改革運動を起こした。その主義は、ルターの福音主義を基礎に、神の絶対的権威と予 定的 恩寵、禁欲的な信仰生活を強調した。ヴィッテンベルクはドイツ東部の都市。ルターは1517年、この市のシュロ スキルヒェの扉に 95 ヶ条の論題を公表し、宗教改革の端緒を開いた。
   (40)  現在のスロヴァキア共和国首都ブラチスラヴァのドイツ語名。ドナウ川に臨む交通の要衝。
   (41)  1167‐1235 ハンガリー王国の国王。1222年に公布した「金印勅書」で、貴族の免税特権と武力抵抗権の認可を余儀なくされた。そのため、ハンガリー王国の弱体化と貴族層の権力拡大を招いた。
   (42)  今日のハンガリー人の自称。ウラル山脈地帯からヴォルガ河流域付近にわたる原住地から 9 世紀末に民族移動によって現在地に至る。
   (43)  ドイツ・プファルツの中心都市。
   (44)  ハンガリーのバラトン湖西岸の森。
   (45)  バラトン湖周辺の町。
   (46)  ドナウ川の支流ティサ川流域のスロヴァキアとハンガリーにかけて広がる平原。
   (47)  1713 年に締結されたスペイン継承戦争の平和条約。この条約で、スペインはオーストリア・ハプスブルク家からフランス・ブルボン家に移り、国際関係に大きな変化をもたらした。
   (48)  現在のベルギー。
   (49)  ユダヤ人。
   (50)  仏伊国境の町。1630 年 にフランスが征服した。
   (51)  マリア・テレジアとの婚姻の条件によって、フランスに祖国ロートリンゲン公国を譲り、その代償としてメディチ家の断絶で空位となったトスカーナの大公に即位した。1740 年に マリア・テレジアがオーストリアの君主に 即位し た後は、共同統治者となり、1745年には神聖ローマ帝国皇帝に即位する。
   (52)  現在のフランス・ロレーヌ地方。
   (53)   1716 年ハプスブルクがオスマン・トルコに勝利した後 1718 年に結ばれた和約。この条約でハプスブルクは ベオグラードを含む北セルビア・西ワラキア・バナートを獲得した。
   (54)  イタリア北東部にあるアドリア海最奥部に位置する港湾都市。
   (55)  リエーカのイタリア語名。イタリア東側のアドリア海に臨むクロアチアの港湾都市。
   (56)  アプリリア。ローマの南にある町。
   (57)  現在のオーストリア・ケルンテン州。ウィーン市内を通るケルントナー通りは、ケルンテン州を通ってヴェネチア に通じており、オーストリアの遠隔地貿易の大動脈として産業の発展に寄与した。
   (58)  イタリア南部、シチリア島北東部の港湾都市。
   (59)  オーストリア中部の州。州都はリンツ。
   (60)  インドのマドラスの海岸。
   (61)  1683‐1746。 アンジュ−公フィリップ。ルイ 14 世の孫で、スペイン継承戦争後に締結されたユトレヒト条約で即位が認められた。スペインブルボン朝最初の国王。
   (62)  ローマ教皇パオロ三世(1534‐1549)は、教皇領とロンバルディアを統治するスペインとの緩衝地帯としてパルマとピアチェンツァをパルマ公国とし、ファルネーゼ家はパルマ公国を代々統治してきた。
   (63)  一人が、のちカルロス三世として即位する。
   (64)  マドリッド近郊のパルド宮殿で結ばれた協定。
   (65)  カルロス三世。
   (66)  イタリア北部、ミラノ南東の町。
   (67)  スペインがジブラルタル包囲を行なったことで、戦争への緊張感が
        一気に高まった。海洋諸大国に譲歩しようとする皇帝に対して、ス
        ペインはイギリス、フランスとの交渉を内密に始めていた。
   (68)  1738−1794 アドルフ・フリードリッヒ四世。メクレンブルク・シュトレ
        リッツ公。
   (69)  1670−1733 ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト一世。ザクセ
        ン・ポーランド王。
   (70)  インドのマドラスに近いコロマンデル海岸の町。
   (71)  インド・ベンガル湾に面した港湾都市。
   (72)  1620 年 にデンマークが植民地化した。現在のインドタミルナードゥ州
       南部の町。1714 年にタミル語による聖書が出版された。
   (73)  イタリア南東部の市。スペインはここで対オーストリア戦に勝利した。